最終更新日 2026-06-19

合戦地域分類:中国

「中国」に属する合戦:41件

合戦概要
出雲いずも神西湖口の戦いじんざいここうのたたかい(1562)永禄五年、毛利元就は神西湖口を制圧し、尼子氏の神西城を孤立させ陥落。周到な調略と兵站戦略が功を奏し、尼子氏滅亡への決定的な一歩となった。
厳島沖小海戦いつくしまおきしょうかいせん(1555~61)天文二十四年、毛利元就は厳島の戦いで村上水軍を得て陶晴賢を破り、防長経略を完遂。関門海峡の制海権を巡る大友氏との激戦にも勝利し、瀬戸内海の覇者として中国地方の覇者へと飛躍した。
厳島口前哨戦いつくしまぐちぜんしょうせん(1554~55)厳島の戦い前哨戦。毛利元就は陶晴賢の主君殺しを機に独立。安芸を制圧し、折敷畑で陶軍を撃破。宮尾城築城、離間の計、村上水軍の調略で晴賢を厳島へ誘い込み、本戦勝利の布石を完璧に整えた。
厳島の戦いいつくしまのたたかい(1555)陶晴賢による主君殺しに端を発する、毛利元就と陶晴賢の日本三大奇襲戦の一つ。元就が周到な謀略と水軍の掌握によって、四千の兵で二万の陶軍を厳島で破った歴史。
岩国いわくに柏原山城の戦いかしわばらやまじょうのたたかい(1557)弘治三年、毛利元就は厳島の戦いの余勢を駆り防長経略を開始。岩国周辺の城砦を攻略し、須々万沼城を新戦術で陥落。大内義長は自刃し、大内氏は滅亡。毛利氏は中国地方の覇者への道を確立した。
石見銀山争奪戦いわみぎんざんそうだつせん(1532~70)石見銀山は灰吹法導入で価値増大。大内・尼子・毛利が約40年争奪。毛利元就が尼子氏を謀略で破り銀山を掌握。毛利の覇権を支え、世界経済の結節点に。
羽衣石城の戦いうえしじょうのたたかい(1581)天正九年に伯耆国で展開された羽衣石城を巡る織田と毛利の攻防戦。毛利を離反し織田に恭順した南条元続に対し、吉川元春がその居城を攻めた合戦。
岡山城おかやまじょう備前びぜん掌握戦しょうあくせん(1573~79)天正元年、宇喜多直家は織田信長の朱印状を契機に、主君浦上宗景に反旗。毛利と結び、謀略と武力で備前を掌握。天神山城を落とし、岡山城を拠点に支配を確立。天正七年、織田に帰順し覇権を盤石とした。
金川城の戦いかながわじょうのたたかい(1575)天正三年、宇喜多直家は謀略を駆使し、主君浦上宗景の天神山城を内側から崩壊させた。毛利氏と結び、織田信長に対抗する直家の下剋上は、中国地方の勢力図を塗り替える転換点となった。
上関合戦かみのせきがっせん(1555)弘治元年、毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を破り、その勢いで周防国東部へ侵攻。上関周辺の制海権を掌握し、鞍掛合戦で杉隆泰を討ち、宇賀島水軍を壊滅させた。この勝利は防長経略の重要な一歩となった。
神辺城の戦いかんなべじょうのたたかい(1566)永禄九年、神辺城は毛利元就の尼子氏滅亡に貢献。城主杉原盛重は尼子補給路を断ち、毛利の勝利を支えた。三年後、尼子残党が城を奪うも毛利は即座に鎮圧、備後の支配を盤石とした。
月山富田城の戦いがっさんとだじょうのたたかい(1565~66)毛利元就は難攻不落の月山富田城を兵糧攻めと謀略で攻め落とし、尼子宗家は滅亡。忠臣を誅殺した尼子義久の判断が響き、飢餓と疑心に蝕まれた城は開城。山中幸盛は再興を誓う。
月山富田城の戦いがっさんとだじょうのたたかい第一次だいいちじ・1542~43)天文年間、大内義隆は月山富田城を攻めるも、難攻不落の城と国人衆の離反で大敗。この戦いは大内氏衰退、尼子氏絶頂期、そして毛利元就の台頭を促す歴史的転換点となった。
吉川元春館周辺戦きっかわもとはるやかたしゅうへんせん(1578)天正六年、毛利氏は播磨上月城攻防の裏で、吉川元春館周辺で尼子残党のゲリラ戦に直面。この後方戦線の安定が主戦場の勝利を支え、毛利氏の対織田戦略の深淵を示す静かなる戦いであった。
児島湾口の海戦こじまわんこうのかいせん(1573~92)備前児島湾では、宇喜多氏と毛利氏、海賊衆が二十年にわたり覇権を争った。直家は海賊を討伐し、秀家は水軍を確立。最終的に豊臣秀吉の海賊停止令により、この地の戦乱は終焉を迎えた。
佐東銀山城の戦いさとうかなやまじょうのたたかい(1550)天文10年、毛利元就は謀略「千足のわらじ」で佐東銀山城を攻略。安芸武田氏を滅ぼし、安芸国統一を達成。後の中国地方統一への重要な一歩となった。
神西湖口の戦いじんざいここうのたたかい(1562)永禄五年、毛利元就は神西湖口を制圧し、尼子氏の神西城を孤立させ陥落。周到な調略と兵站戦略が功を奏し、尼子氏滅亡への決定的な一歩となった。
大寧寺の変たいねいじのへん(1551)天文二十年、大内氏重臣・陶隆房が主君義隆を大寧寺で討つ。義隆の文治傾倒と武断派対立が激化し、西国に空白を生んだ。毛利元就台頭と日明貿易終焉の契機。
津和野城の戦いつわのじょうのたたかい(1569)永禄十二年、毛利氏が三正面の危機に瀕する中、津和野城主・吉見正頼は堅城を守り、尼子再興軍の西進を阻んだ。戦わずして毛利氏の窮地を救う戦略的抑止力となった。
天神山城の戦いてんじんやまじょうのたたかい(1575)天神山城の戦いは浦上宗景と宇喜多直家の主従対決。直家の巧みな調略と毛利支援で難攻不落の城は内部崩壊し落城。宗景は滅亡し、直家が備前を支配。下剋上と外交戦略の重要性を示した一戦であった。
富田城攻囲とだじょうこうい(1542~43)天文11年、大内義隆は尼子氏の月山富田城を攻囲。しかし、尼子晴久の持久戦と国人衆の離反により大敗。毛利元就はこの敗戦から学び、後の中国地方統一の礎とした。
鳥取城の戦いとっとりじょうのたたかい(1581)天正九年、羽柴秀吉は因幡鳥取城を兵糧攻めにより陥落。城主吉川経家は城兵の命と引き換えに自刃。この「鳥取の渇え殺し」は、秀吉の中国攻めにおける非情な戦術を象徴する。
新高山城の戦いにいたかやまじょうのたたかい(1575)天正三年、小早川隆景は常山城を包囲。上野隆徳と鶴姫は奮戦するも落城し、一族は玉砕した。備中兵乱の終結を告げ、毛利氏の備中支配を確立するも、宇喜多氏台頭の契機となった。
浜田城の戦いはまだじょうのたたかい(1600)慶長五年、浜田城は未築城で物理的戦闘はなし。石見銀山を巡る毛利・徳川間の「見えざる戦い」は、吉川広家の密約と南宮山での不戦により毛利家存続。この不戦が後の浜田城誕生に繋がった。
広島湾口海戦ひろしまわんこうかいせん(1573~92)天正元年より20年間、毛利水軍は広島湾を拠点に織田・豊臣と抗争。木津川口で鉄甲船に敗れ、豊臣政権下で国家海軍へ変質。広島城築城と文禄の役でその役割を終えた。
備中高松城の戦いびっちゅうたかまつじょうのたたかい(1582)天正十年、羽柴秀吉は備中高松城を水攻め。本能寺の変を知った秀吉は毛利氏と和睦し、城主清水宗治は自刃。秀吉は中国大返しを敢行し、明智光秀を討ち、天下人への道を決定づけた。
備中松山城の戦いびっちゅうまつやまじょうのたたかい(1575)天正三年の毛利氏による備中松山城主・三村氏の制圧。三村元親が父の仇である宇喜多直家と毛利の同盟に憤り織田と結ぶも、吉川・小早川らの毛利軍に滅ぼされた過程。
布部山の戦いふべやまのたたかい(1542)永禄十三年に発生した尼子再興軍と毛利軍の決戦。山中鹿介や尼子勝久が率いる再興軍が出雲で侵攻を図るも、毛利輝元軍に布部山で敗れ去った合戦。
防長経略ぼうちょうけいりゃく(1557)防長経略は、毛利元就が大内氏を滅ぼし周防・長門を平定した戦い。厳島合戦後の大内氏の弱体化を突き、調略と武力で須々万沼城を攻略。元就の外交・軍略が光り、毛利氏の中国地方覇権を確立した。
三隅城の戦いみすみじょうのたたかい(1566)元亀元年、尼子再興に呼応した石見三隅氏が毛利氏に反旗。陸海からの包囲と総攻撃により三隅城は落城し、三隅氏は滅亡、毛利氏の石見支配が確立された。
三石城の戦いみついしじょうのたたかい(1579)天正七年、三石城の戦いは宇喜多直家が毛利から織田へ転じる戦略的転換点。直家は美作三星城を謀略で落とし、三石城を無血開城させた。これは直家の謀略の真骨頂であり、織田の中国攻めを加速させた。
三刀屋城の戦いみとやじょうのたたかい(1562)永禄5年、毛利元就の出雲侵攻で三刀屋久扶が毛利に寝返り、尼子軍が三刀屋城を攻撃。毛利軍は八畔峠で尼子軍を撃退し兵站線を確保。尼子氏孤立を決定づけ、毛利の出雲平定の礎となった。
三刀屋城の戦いみとやじょうのたたかい(1580)天正八年「三刀屋城の戦い」は史実ではない。永禄年間の尼子・毛利の激戦と尼子再興軍の悲劇が融合した歴史的イメージ。毛利氏の東方戦略転換後、出雲は平穏化。三刀屋氏は政争で終焉を迎えた。
三原城の戦いみはらじょうのたたかい(1588~92)天正16年以降、三原城は戦闘の舞台ではなかった。城主小早川隆景は秀吉の命で九州へ移り、城は海賊停止令で変質した水軍の拠点、そして朝鮮出兵の兵站基地となった。
用瀬城の戦いもちがせじょうのたたかい(1580)天正八年、羽柴秀吉は因幡侵攻の要衝用瀬城を攻略。しかし秀吉去りし後、毛利方の反攻と山名豊国の奇襲により城は奪還された。この失陥が、翌年の鳥取城「渇え殺し」を招く布石となった。
山口城の戦いやまぐちじょうのたたかい(1557)厳島の戦い後、毛利元就は防長経略を開始。大内氏の内訌に乗じ山口を陥落させ、且山城で大内義長と内藤隆世が悲劇的な最期を遂げ、名門大内氏は滅亡した。
山吹城の戦いやまぶきじょうのたたかい(1565)永禄八年、山吹城を巡る戦いは経済消耗戦と化す。毛利氏は石見銀山を掌握し、尼子氏の経済動脈を断ち、月山富田城を兵糧攻め。翌年、尼子氏は滅亡し、毛利氏の覇権が確立された。
由宇ゆう神代湾の海戦こうじろわんのかいせん(1566)永禄十二年、大友宗麟は毛利の九州侵攻を阻むため大内輝弘を周防へ上陸。輝弘は討死するも、毛利軍を九州から撤退させ、宗麟は戦略的勝利を得た。
吉田郡山城の戦いよしだこおりやまじょうのたたかい(1540~41)毛利元就は、圧倒的兵力の尼子軍を吉田郡山城で迎え撃ち、巧みな戦術と大内援軍の連携で撃退。この勝利は元就を中国地方の覇者への道へと導き、尼子氏の権威を失墜させた。
米子城の戦いよなごじょうのたたかい(1600)慶長五年、吉川広家は毛利家存続のため東軍と密約を結び、関ヶ原で毛利軍を動かさず。米子城は無血開城し、広家は城を失うも毛利家は存続。武力ではなく政治的駆け引きで支配権が移譲された。
若桜鬼ヶ城再包囲わかさおにがじょうさいほうい(1581)天正九年、羽柴秀吉は鳥取城「渇え殺し」を完成すべく、若桜鬼ヶ城を再包囲。毛利方の在番衆は無血開城し、鳥取城は完全に孤立。秀吉の兵糧攻めは成功し、吉川経家は自刃した。