最終更新日 2026-06-19

合戦地域分類:甲信越

「甲信越」に属する合戦:50件

合戦概要
揚北衆の乱あがきたしゅうのらん(1564~67)永禄年間、上杉謙信の統治下で揚北衆の独立心が燻り、武田信玄の調略で本庄繁長が反乱。謙信は鎮圧するも、乱は後の上杉家内乱の遠因となった。
飯山城の戦いいいやまじょうのたたかい(1553~64)飯山城は武田信玄の北信濃侵攻に対する上杉謙信の最重要拠点。川中島の戦いを支え、謙信自らの大改修により不落の要塞となり、信玄存命中はついに落城せず、信長の天下統一を間接的に助けた。
飯山城の戦いいいやまじょうのたたかい(1582)天正十年、北信濃飯山城で織田と上杉が衝突。森長可の強圧統治が芋川親正の蜂起を招くも、森長可の迅速な反撃で鎮圧。本能寺の変で森長可は撤退、上杉景勝が北信濃を確保。
岩殿山城の戦いいわどのやまじょうのたたかい(1582)岩殿山城の戦いは、武田勝頼が小山田信茂に裏切られ、天目山で滅亡した悲劇。甲州征伐は武田家の内部崩壊を加速させ、信茂の処刑は織田の新たな秩序を示す。この戦いは天正壬午の乱の序章となった。
上田合戦うえだがっせん(1585)天正十三年、真田昌幸は沼田領を巡る徳川家康との戦いで、上田城の地の利と巧みな偽装退却、神川の増水で大軍を大敗させた。この勝利で昌幸の武名は天下に轟き、真田氏の独立を確立した。
上田合戦うえだがっせん(1600)慶長五年、関ヶ原前夜。真田昌幸は犬伏で信幸と別れ、信繁と共に上田城へ。徳川秀忠の大軍を巧みな罠で翻弄し、関ヶ原への遅参を招く。この智謀は真田家存続の礎となり、信繁の伝説の序章となる。
上田原の戦いうえだがはらのたたかい(1548)天文十七年、武田晴信は上田原で村上義清に生涯初の敗北を喫す。この痛恨の経験は信玄の戦略思想を転換させ、後の川中島の戦いへと繋がる契機となった。
上原城の戦いうえはらじょうのたたかい(1542)天文十一年、若き武田晴信は信濃制覇の野望を抱き、諏訪侵攻を開始。上原城の戦いを皮切りに、信濃の要衝を巡る激戦を繰り広げた。これは信玄の天下取りへの第一歩であった。
小田井原の戦いおたいはらのたたかい(1547)天文16年、武田晴信は志賀城を攻囲。救援に来た関東管領上杉憲政軍を小田井原で撃破し、その首級を晒す。この非情な勝利は、信濃支配を確固たるものとした。
御館の乱おたてのらん(1578~79)天正六年、上杉謙信の急死で越後に「御館の乱」が勃発。養子・景勝と景虎が後継を争い、越後全土が内乱に。景勝は春日山城を掌握し、武田勝頼との甲越同盟で優位に。景虎は鮫ヶ尾城で自刃。
海津城外郭かいづじょうがいかく千曲川筋の戦いちくまがわすじのたたかい(1553~64)川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信が北信濃の覇権を巡り12年間繰り広げた攻防。海津城築城が戦略的転換点となり、第四次合戦で激突、信玄が北信濃を実質支配した。
海津城攻防かいづじょうこうぼう(1557~60)弘治三年より海津城を巡る武田と上杉の攻防が激化。信玄は信濃支配を固め海津城を築城。謙信の関東出兵を牽制し、川中島へ引き戻す。海津城は第四次川中島合戦の直接原因となった。
甲斐かい要津の渡河戦ようしんのとかせん(1582)天正十年、武田勝頼は新府城を脱出するも、要津の渡河で織田軍の追撃と増水に阻まれ壊滅。これは武田氏滅亡を決定づけた悲劇的な転換点であった。
加治川口の戦いかじかわぐちのたたかい(1587)天正十五年、越後加治川口にて新発田重家は上杉景勝と激突。水運を巡る攻防は、孤立した重家の壮絶な自刃で幕を閉じた。旧時代の武士の誇りが新時代の波に飲まれた戦いである。
春日山城下合戦かすがやまじょうかかっせん(1578~79)軍神上杉謙信の死後、越後で勃発した御館の乱。景勝が春日山城を掌握し、武田勝頼の介入を経て景虎を滅ぼす。この内乱は上杉家を疲弊させ、織田信長の天下統一を間接的に助ける結果となった。
春日山城攻防かすがやまじょうこうぼう(1578~79)上杉謙信の急逝後に勃発した、養子の上杉景勝と景虎による家督争いである御館の乱。春日山城の実城と金蔵を先制掌握した景勝が景虎を自刃に追い込んだ内乱。
葛尾城の戦いかつらおじょうのたたかい(1553)天文二十二年、武田信玄は二度敗れた村上義清の葛尾城を攻める。信玄は調略を駆使し、国人衆を切り崩して城を無血開城。義清は越後へ逃れ、信濃統一の礎を築くと共に、川中島の戦いの幕開けとなった。
葛尾城の戦いかつらおじょうのたたかい(1564)武田信玄と村上義清による葛尾城の攻防戦。村上氏の没落を決定づけるとともに、武田信玄と上杉謙信が川中島で対峙する直接の引き金となった一戦。
川中島の戦いかわなかじまのたたかい第一次だいいちじ・1553)天文22年、武田信玄と長尾景虎は北信濃で初激突。村上義清の亡命を機に始まったこの戦いは、明確な勝敗なく、後の川中島五度の戦いの序曲となった。
川中島の戦いかわなかじまのたたかい第五次だいごじ・1564)永禄七年、武田信玄と上杉謙信は川中島で60日間の対陣。飛騨を巡る代理戦争は決戦なく終結した。両雄は互いの消耗を避け、新たな戦略へ転換。信長の天下布武を許す結果となった。
川中島の戦いかわなかじまのたたかい第三次だいさんじ・1557)弘治三年の武田晴信と長尾景虎による第三次川中島の戦い。第二次合戦の和睦を破り北信濃侵攻を再開した武田軍に対し、景虎が義を重んじて出陣した合戦。
川中島の戦いかわなかじまのたたかい第二次だいにじ・1555)天文二十四年に行われた武田信玄と長尾景虎の第二次川中島の対陣。犀川を挟んで両雄が対峙し、今川義元の仲介により大きな損害を出さず和睦した合戦。
川中島の戦いかわなかじまのたたかい第四次だいよんじ・1561)永禄四年、武田信玄と上杉謙信は川中島八幡原で激突。啄木鳥戦法を謙信が見破り、武田本陣に肉薄するも、別働隊の挟撃で形勢逆転。両軍甚大な被害を出し、明確な勝敗なく終結した。
甲府城の戦いこうふじょうのたたかい(1582)天正十年、甲府城は未だ存在せず。武田氏滅亡後、甲府は織田信忠に無血占領された。本能寺の変後、甲斐は権力の空白となり、徳川・北条・上杉の三つ巴の争奪戦が繰り広げられた。
小諸城の戦いこもろじょうのたたかい(1582)天正壬午の乱、小諸城を巡る攻防は徳川・北条・上杉の三つ巴。依田信蕃のゲリラ戦と真田昌幸の寝返りにより徳川方が佐久郡を掌握。家康の覇業の礎を築いた。
坂戸城の戦いさかどじょうのたたかい(1578~79)天正6年、御館の乱で景勝方の坂戸城は北条軍の猛攻を豪雪と堅守で退けた。この防衛成功が景勝に武田勝頼との同盟締結の時間を与え、乱の終結を決定づけた。
鮫ヶ尾城の戦いさめがおじょうのたたかい(1579)天正六年、謙信の死で御館の乱勃発。景勝が春日山城を掌握し、景虎は御館に籠城。武田勝頼の裏切りで景虎は孤立し、鮫ヶ尾城へ。城主の裏切りで城は陥落、景虎は自刃。上杉家は疲弊し、織田の北陸侵攻を容易に。
塩尻峠の戦いしおじりとうげのたたかい(1542)天文十七年、武田晴信は上田原の敗戦後、小笠原長時率いる反武田連合軍と塩尻峠で激突。晴信は奇襲を敢行し、小笠原軍は壊滅。武田晴信は信濃経略を再始動した。
塩尻峠の戦いしおじりとうげのたたかい(1548)天文十七年に信濃国で勃発した武田晴信と小笠原長時の合戦。上田原で敗れ窮地にあった武田軍が、油断した小笠原軍を奇襲で破り信濃平定への形勢を逆転した。
志賀城の戦いしがじょうのたたかい(1550)天文16年、武田信玄は志賀城を攻囲。救援に来た上杉憲政軍を小田井原で撃破し、城を陥落。その過酷な戦後処理は、後の「砥石崩れ」の遠因となった。
志賀城の戦いしがじょうのたたかい(1557)天文十六年、武田晴信は信濃志賀城を攻囲。上杉救援軍を撃破し、晒し首で城兵の戦意を挫く。落城後、捕虜は人身売買され、武田氏の信濃支配を確立。信玄の冷徹な戦略が光る。
新発田城の戦いしばたじょうのたたかい(1587~89)天正9年、新発田重家は御館の乱恩賞不満から上杉景勝に反旗。織田信長後援で越後を揺るがすも、本能寺の変で孤立。豊臣秀吉の惣無事令で「公儀の反逆者」とされ、新発田城で最期を遂げた。
新府城の戦いしんぷじょうのたたかい(1582)天正十年、織田信長の甲州征伐で武田家は崩壊。武田勝頼は新府城を築くも家臣の離反と織田軍に追い詰められ、真田昌幸の案を退け小山田信茂の岩殿城案を選択。信茂の裏切りで勝頼は天目山で自害。
高遠城の戦いたかとおじょうのたたかい(1545)天文十四年、武田晴信は信濃伊那掌握のため高遠城を攻略。高遠頼継の野心を逆手に取り、杖突峠越えの奇襲で無血開城させた。この勝利は武田氏の信濃平定を大きく前進させ、後の覇業の序曲となった。
高遠城の戦いたかとおじょうのたたかい(1582)天正十年、武田家最後の砦たる高遠城に織田信忠の大軍が迫る。仁科盛信は降伏勧告を拒絶し、城兵と共に壮絶な一日を戦い抜くも玉砕。武田氏滅亡の決定打となった。
田野の戦いたののたたかい(1582)天正十年、武田勝頼は甲斐田野で織田軍に追い詰められ、武田家は滅亡。新府城を自焼し、岩殿山城を目指すも小山田信茂の裏切りに遭い、忠臣と共に最後の地で散った。誇り高き武田家の終焉。
第一次上田合戦だいいちじうえだがっせん(1585)天正十三年に真田昌幸が徳川家康の軍勢を上田城で撃退した合戦。沼田領割譲の命令を拒絶した昌幸が、知略と伏兵を駆使して徳川軍を大破した名戦。
第二次上田合戦だいにじうえだがっせん(1600)慶長五年、真田昌幸・信繁父子は上田城で徳川秀忠の大軍を翻弄。関ヶ原への秀忠遅参を招き、真田家の存続と信繁の伝説の礎を築いた。この戦いは、智将の策略が天下の趨勢を左右した稀有な事例である。
躑躅ヶ崎館の戦いつつじがさきやかたのたたかい(1582)天正10年、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田勝頼は新府城を放棄。躑躅ヶ崎館は無血開城し、武田氏は天目山で滅亡。戦国大名武田家の終焉となった。
天正壬午の乱てんしょうじんごのらん(1582)天正十年、本能寺の変で信長横死後、旧武田領は空白地帯に。徳川家康、北条氏、上杉景勝が甲信を巡り争奪戦。家康は迅速に甲斐・信濃を確保し、北条氏と対陣。
天目山の戦いてんもくざんのたたかい(1582)天正十年の織田・徳川・北条による武田攻略戦。御館の乱や高天神城での失策で孤立した武田勝頼が天目山で自刃し、名門甲斐武田氏が滅亡するに至った最後の合戦。
砥石崩れといしくずれ(1548)天文十九年、武田晴信(信玄)は信濃砥石城を攻めるも、村上義清の巧みな戦術と城兵の抵抗に苦戦。武田軍は村上・高梨連合軍の挟撃と追撃により壊滅的敗北を喫した。
砥石城の戦いといしじょうのたたかい(1550~51)天文19年、武田信玄は砥石城を攻めるも村上義清の奇策に敗れ「戸石崩れ」と称される大敗を喫す。後に真田幸隆の調略で城は落ち、川中島の戦いへと繋がる。
栃尾城の戦いとちおじょうのたたかい(1558~70)永禄11年、上杉謙信の重臣・本庄繁長が武田信玄の調略に応じ謀反。謙信は電撃帰還し繁長を孤立させ本庄城を包囲。頑強な抵抗に苦戦するも、一年後に和睦。この乱は謙信の統治者としての器量を示した。
鳥居峠の戦いとりいとうげのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の戦いにおける鳥居峠の攻防。木曽義昌は徳川方として鳥居峠を堅守し、森長可率いる羽柴軍の侵攻を阻止。森長可の戦死により羽柴方の攻勢は頓挫。徳川家の信濃支配を確立した。
長森原の戦いながもりはらのたたかい(1507)永正7年、越後守護代長尾為景は関東管領上杉顕定を長森原で討ち取り、越後の下剋上を完成。関東に権力の空白を生み、後北条氏台頭と上杉謙信の運命に繋がる。
深志ふかし松本まつもと城の戦いじょうのたたかい(1550)天文19年、武田信玄は塩尻峠の勝利と巧みな調略で小笠原長時を林城から追放。深志城を無血開城させ、信濃支配を確立し川中島への布石とした。
福与城の戦いふくよじょうのたたかい(1545)天文十四年に武田晴信が伊那の国人・藤沢頼親を攻めた合戦。頼親は守護の小笠原長時を頼り五十日余り籠城するも、後詰を撃破されて降伏、武田の伊那制圧の礎となった。
与板城の戦いよいたじょうのたたかい(1578)上杉謙信の急死後に起きた御館の乱における与板城の攻防戦。景勝方の直江信綱が守る交通の要衝で、景虎方との激戦を経て、信綱の死と直江兼続の家督継承へ繋がる。
要害山城の戦いようがいさんじょうのたたかい(1582)天正十年、武田勝頼は御館の乱での外交失敗、木曽義昌の裏切りで孤立。新府城を放棄し、小山田信茂の裏切りで天目山へ。土屋昌恒の奮戦後、勝頼は嫡男信勝、北条夫人と共に自刃し、武田宗家は滅亡した。