最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:り

「り」に属する武将:14件

武将概要
竜崎弥七郎りゅうざきやしちろう竜崎弥七郎は里見氏の足軽小頭で百首水軍に所属。慶長11年に100石の知行を得るが、慶長19年の里見氏改易で主家を失う。その後は帰農した可能性が高い。
龍造寺家兼りゅうぞうじいえかね龍造寺家兼は93年の生涯で、田手畷の戦いで勝利し龍造寺氏の基盤を築いた。一族を失う悲劇を乗り越え、90歳で再起し仇敵を討つ。曾孫・隆信に家督を託し、中興の祖となった。
龍造寺家純りゅうぞうじいえすみ龍造寺家純は馬場頼周の謀略で川上淀姫社にて討死。一族粛清の悲劇は、祖父家兼の復讐と「肥前の熊」隆信の台頭を促し、龍造寺家の歴史を大きく変えた。
龍造寺家就りゅうぞうじいえなり龍造寺家就は宗家嫡流ながら、一族存続のため隆信に家督を禅譲。隆信の腹心として肥前統一に貢献するも、沖田畷の戦後隠遁。その決断は龍造寺氏の飛躍と血脈存続の礎となった。
龍造寺家晴りゅうぞうじいえはる戦国から江戸初期の武将。諫早氏の始祖。龍造寺隆信の覇業を支え、その死後の混乱期には現実的判断で鍋島氏の台頭を受け入れ、巧みに一族を存続させ諫早の基礎を築いた。
龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶ龍造寺隆信は「肥前の熊」と称され、少弐氏を打倒し九州三強の一角を築いた。今山の戦いで大友軍を破り最大版図を築くも、沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に敗れ戦死した。
龍造寺高房りゅうぞうじたかふさ龍造寺家最後の当主。家臣の鍋島氏に実権を握られ名ばかりの国主として苦悩。江戸での惨劇を経て若くして没し、その悲劇は鍋島化け猫騒動の怪談として後世に語られた。
龍造寺胤久りゅうぞうじたねひさ龍造寺胤久は肥前の龍造寺氏17代当主。叔父家兼の実権下で傀儡的存在だったが、泰長院を建立。その血筋は孫の隆信に繋がり、龍造寺氏飛躍の礎となった。
龍造寺胤栄りゅうぞうじたねみつ龍造寺胤栄は肥前の龍造寺氏18代当主。大叔父家兼と対立し大内氏に亡命後、肥前代官に。24歳で夭折したが、龍造寺氏の戦国大名化の橋渡し役となった。
龍造寺周家りゅうぞうじちかいえ龍造寺周家は「肥前の熊」隆信の実父。馬場頼周の謀略で祇園原にて殺害された。この悲劇は隆信の復讐心を育み、後の龍造寺氏の九州統一への道を拓く原点となった。
龍造寺長信りゅうぞうじながのぶ龍造寺長信は隆信の実弟。沖田畷の戦後、鍋島直茂と協力し家を支え、豊臣秀吉に接近。多久家を継承し、鍋島藩の重鎮として一族の存続と繁栄に貢献した賢臣。
龍造寺信周りゅうぞうじのぶかね肥前の熊・龍造寺隆信の異母弟。沖田畷の戦い後、混乱する龍造寺家を救い、鍋島直茂への権力移譲を調停した。一族の存続を最優先し、佐賀藩成立の礎を築いた稀代の政治家。
龍造寺伯庵りゅうぞうじはくあん龍造寺伯庵は鍋島家による実権掌握に抗議し、幕府に訴訟。敗訴後会津へ配流されるも、子孫は会津藩士として存続。鍋島化け猫騒動の源流となる。
龍造寺政家りゅうぞうじまさいえ龍造寺政家は「肥前の熊」隆信の嫡男。父の死後、鍋島直茂が実権を掌握。秀吉の介入で幼い息子高房が当主となるも、高房は絶望し自害。政家も死去し龍造寺宗家は断絶、鍋島氏が佐賀藩主となった。