最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:く
「く」に属する武将:82件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 久遠寺日朝 | 久遠寺日朝は身延山中興の祖。学問と徳行を兼ね備え、伽藍移転、教学振興、宗門統制を推進。失明と快癒の経験から「目の神様」として信仰された。 |
| 九鬼広隆 | 九鬼広隆は九鬼嘉隆の甥。織田信孝、加藤清正、黒田長政、小早川秀秋、藤堂高虎、紀州徳川家と渡り奉公。武勇と実務能力で乱世を生き抜き、91歳で没した。 |
| 九鬼守隆 | 九鬼守隆は九鬼嘉隆の嫡男。関ヶ原で東軍につき、父と敵対。鳥羽藩初代藩主として九鬼家を最大版図に導くも、後継者問題で御家騒動が勃発し、九鬼水軍は解体された。 |
| 九鬼泰隆 | 九鬼泰隆は海賊大名・嘉隆の祖父で、九鬼氏の創業者。志摩で田城城を築き、北畠氏と連携し勢力拡大。死後、家は一時没落するも、その試練が嘉隆の飛躍の礎となった。 |
| 九鬼嘉隆 | 九鬼嘉隆は志摩の海賊大名。織田信長に仕え、鉄甲船を建造し第二次木津川口の戦いで勝利。豊臣秀吉の下で水軍を率い、関ヶ原では西軍につき敗北。 |
| 草刈景継 | 美作の国人領主・草刈景継は、毛利氏に属しながらも織田氏への内通が露見し、矢筈城で自刃。鉄資源を背景に強大な勢力を誇ったが、二大勢力の狭間で悲劇的な最期を遂げた。 |
| 草野鎮永 | 「草野鎮永」は肥前と筑後に同名の武将がおり、肥前の鎮永は婚姻で生き残り没落、筑後の鎮永は抵抗し滅亡。戦国国人領主の異なる末路を示す。 |
| 草野直清 | 陸奥国の戦国武将。相馬顕胤に重用され要衝の中村城代を務めるが、当主の代替わりを機に不満を抱き伊達輝宗に内通。謀反を起こすも貝殻坂の戦いで敗れ討死。 |
| 草深時信 | 草深時信(甚四郎)は加賀藩の剣豪。深甚流を創始し、藩校で教えられた実在の武芸者。天狗隠しや塚原卜伝との対決など、超人的な伝説も残る。 |
| 櫛来新右衛門 | 豊後の水軍将。大友氏配下の「浦部衆」の一員。門司城争奪戦等で活躍し、敵方の記録にも名が残る実力者。国東半島を拠点に豊後水道의警固や合戦で一族の武勇を示した。 |
| 櫛橋伊定 | 播磨の志方城主で、黒田官兵衛の岳父。官兵衛の才能を早くから見抜き、次女・光を嫁がせる。三木合戦で志方城は落城したが、墓碑ではその5年前に没したと刻まれる。 |
| 九条稙通 | 九条稙通は戦国期の摂関家当主。経済困窮で関白を辞し流浪。三好氏と結び畿内政局で暗躍、天下人とも対峙。古典学者でもあり、呪術にも傾倒。知と権謀で家門と文化を存続させた異能の公卿。 |
| 楠木正成 | 楠木正成は南北朝時代の武将。後醍醐天皇に忠義を尽くし、千早城などで奇策を駆使し幕府軍を翻弄。湊川の戦いで壮絶な最期を遂げ、「七生報国」の精神は後世に忠臣の鑑とされた。 |
| 楠木正虎 | 楠木正虎は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した文人官僚。朝敵の汚名を雪ぎ、楠木氏を再興。足利、松永、織田、豊臣に仕え、当代随一の書家として重用された。 |
| 楠葉西忍 | 室町時代の商人、興福寺大乗院の坊人。「天竺人」の父を持つ。二度の遣明船渡航で外官として実務を統括し莫大な富を得た。晩年は公家らと交流し、九十二歳で没した。 |
| 久住善三郎 | 久住善三郎は戦国期桑名の豪商の典型。自由港「十楽の津」で廻船業や金融業を営み、会合衆として自治を担った。信長服属後は御用商人となり、新体制に適応した。 |
| 朽網鑑康 | 朽網鑑康は大友氏重臣。入田氏から朽網氏を継ぎ、キリスト教を庇護し領内を拠点化。豊薩合戦で病死するも、内通者ではなく忠実な老将として再評価されるべき人物である。 |
| 朽網親満 | 大友親治・義長に加判衆や肥後方分として仕えるが、罷免されたことで主家と対立し高崎城で挙兵、敗北後は筑前へと逃亡したとされる大友家の戦国武将。 |
| 口羽通良 | 口羽通良は毛利元就の重臣で、毛利三代に仕えた。外交、軍事、行政、財政に精通し、毛利氏の勢力拡大と安定に貢献。「御四人」の一角として毛利家を支えた名家老。 |
| 朽木稙綱(朽木材秀の子) | 戦国時代の近江国の国人領主。朽木材秀の子。朽木谷を本拠とし、政争に敗れて都を追われた足利将軍義晴や義輝を二代にわたり庇護し続けた幕府の忠臣。 |
| 朽木稙綱(朽木元綱の子) | 朽木稙綱は朽木元綱の三男。父の減封後、徳川家光に仕え若年寄に抜擢。春日局や有力譜代大名との縁組で地位を固め、土浦藩主を経て福知山藩朽木家の藩祖となる。 |
| 朽木宣綱 | 朽木宣綱は近江源氏名門の当主。父の処世術で交代寄合旗本となり、一族繁栄に貢献。キリシタンの妻との問題も乗り越えたが、寛文地震で圧死。 |
| 朽木晴綱 | 戦国時代の近江国の国人領主。足利将軍家を本拠の朽木谷に庇護し、幕府への忠義を尽くしたが、高島越中守との俵山の戦いで若くして討死した朽木家当主。 |
| 朽木元綱 | 朽木元綱は戦国から江戸初期を生き抜き、織田信長の窮地を救い、関ヶ原で東軍に寝返るなど、一族存続のため現実主義を貫いた稀代の戦略家。 |
| 忽那通著 | 伊予守護・河野氏に仕えた水軍の将。大友氏や毛利氏の侵攻を防ぎ、戦で鉄砲を運用した。長宗我部氏に通じた大野直之との花瀬の合戦で討死した忠義の戦国武将。 |
| 久津見清右衛門 | 久津見清右衛門は直江津の商人だが、史料に直接的な記録はない。当時の直江津は上杉氏の経済を支える要港で、青苧座や御用商人が活躍した。久津見は広域ネットワークを持つ有力商人だったと推測される。 |
| 工藤市兵衛 | 工藤市兵衛は架空の人物で、武田家臣の武士「工藤氏」と諏訪の豪商「諏訪春芳」の複合像。諏訪は武田氏の重要拠点であり、春芳は財政・兵站を支えた。 |
| 工藤茂道 | 工藤茂道は斯波家臣と伝わるが、史料未確認。その忠義の伝承は、高水寺城落城時に城に残り討死した岩清水義長の逸話が元か。滅びゆく名門の最後の矜持を体現した武将。 |
| 国司元相 | 国司元相は毛利元就の重臣で、武勇と行政手腕に優れた。吉田郡山城の戦いで活躍し、毛利氏五奉行の一員として政務を担った。将軍義輝から「槍の鈴」を免許された。 |
| 国富貞次 | 国富貞次は宇喜多氏の家臣で、八浜合戦や朝鮮出兵で武功を挙げた。宇喜多騒動で出奔後、戸川達安に仕え、武士の忠義と生存戦略を体現した生涯を送った。 |
| 久能宗能 | 久能宗能は遠江の国衆。今川家臣から徳川家康に帰属。一族の内紛や嫡男の不祥事による改易を経験するも、家康の温情で再興。子孫は紀州藩御附家老として続いた。 |
| 九戸実親 | 九戸実親は九戸政実の弟。南部晴政の娘婿。九戸政実の乱で兄と共に九戸城に籠城するも、豊臣軍に降伏。助命の約束が反故にされ、城内で斬殺された。 |
| 九戸信仲 | 九戸信仲は南部氏の有力庶家。南部晴政の時代に勢力を拡大し、南部宗家と対立。天正17年に死去。彼の死後、子の政実が乱を起こし九戸氏は滅亡した。 |
| 九戸政実 | 九戸政実は南部一族の有力者。南部信直の家督継承に反発し、豊臣秀吉の奥州仕置に抵抗して「九戸合戦」を起こす。九戸城に籠城し奮戦するも、謀略により降伏、処刑された。 |
| 九戸康真 | 九戸康真は南部氏の有力庶家出身。南部晴政に寵愛され、斯波家へ婿入り。後に南部信直に帰参し、斯波氏滅亡に貢献。兄政実の乱では豊臣軍の郷導役を務めた。 |
| 窪川俊光 | 土佐の国人「仁井田五人衆」の筆頭。一条氏に仕えたが後に長宗我部元親に帰順。伊予岡本城の戦いで戦死した。のちに朝鮮出兵で甥達が相次いで戦死し一族は断絶した。 |
| 窪田経忠 | 窪田経忠は加賀一向一揆の指導者。安吉城主として手取川流域を支配。織田信長との戦いで落城し、一族は滅亡。加賀一向一揆終焉を象徴する人物。 |
| 口分田彦右衛門 | 古代以来の在地性に根差した土豪としての力を背景に、戦国時代の経済的要衝であった米子港の交易に乗り出し、鉄や米を扱い尼子や毛利の狭間で富を築いた半武半商の将。 |
| 熊谷直実 | 熊谷直実は武士として名を馳せ、敦盛を討った悲劇から出家し法然の弟子蓮生となる。剛直な性格で頼朝とも衝突。史実と物語が融合し、武士の無常観と求道の精神を体現する人物として後世に語り継がれる。 |
| 熊谷直盛 | 豊臣家臣、豊後安岐城主。石田三成の姻戚で、代官などを歴任し大名となる。朝鮮出兵での軍監活動を経て、関ヶ原の戦いでは大垣城を守るが味方の裏切りで謀殺された。 |
| 熊谷直義 | 熊谷直義(直長)は陸奥の武将。葛西氏の家臣で、浜田兵乱を鎮圧し葛西家中で重きをなす。奥州仕置で主家が滅亡後、伊達政宗に仕え、子孫は仙台藩士として存続。 |
| 熊谷信直(熊谷在直の子) | 安芸国の有力な国人領主。熊谷氏当主。三入高松城主。毛利元就に仕え、厳島の戦いや防長経略で活躍。娘の五龍局を元就の長男吉川元春に嫁がせた宿将。 |
| 熊谷信直(熊谷元直の子) | 熊谷信直(元直の子)は安芸武田氏の家臣。父の死後、武田氏と決別し毛利元就に帰順。娘を吉川元春に嫁がせ、毛利氏の重臣として活躍した。 |
| 熊谷元直(熊谷高直の子) | 戦国から江戸初期の毛利氏重臣。黒田孝高との出会いからキリシタンとなり、毛利家の防長減封後に起きた五郎太石事件を契機に、信仰を貫いて殉教した悲劇の武将。 |
| 熊谷元直(熊谷膳直の子) | 熊谷元直(膳直の子)は安芸武田氏の重臣。有田中井手の戦いで毛利元就の初陣の相手となり、討死。その死が武田氏没落と毛利氏台頭の契機となった。 |
| 熊木続兼 | 能登の国人領主・熊木続兼は、畠山氏の重臣温井総貞派に属し、弘治の内乱で戦死。本拠地熊木城は上杉軍に落とされ、一族は歴史から姿を消した。 |
| 熊坂長範 | 熊坂長範は義経に討たれた伝説の大盗賊。史実でなく、物語で変容。能では敗者の悲哀、歌舞伎では豪傑像を確立。義賊としても語り継がれる日本文化の象徴。 |
| 神代勝利 | 神代勝利は肥前山内の国人領主。龍造寺隆信と激闘を繰り広げ、山内二十六ヶ山を束ねた。川上峡合戦で敗れるも、その血脈は鍋島家と結びつき存続した。 |
| 神代長良 | 神代長良は神代勝利の嫡男。川上峡合戦で敗北後、大友氏に帰順。後継者不在の危機に鍋島直茂の甥を養子とし、神代家を鍋島藩重臣として存続させた。 |
| 熊野湛増 | 第21代熊野別当。水軍を率いる「聖俗の巨魁」。源平合戦では闘雞神社の鶏合わせにより源氏へ加勢、壇ノ浦の戦いで勝利に貢献した。伝説では武蔵坊弁慶の父とも伝わる。 |
| 隈部親永 | 隈部親永は肥後の国衆。菊池三家老の一人で、龍造寺・島津氏に仕える。豊臣秀吉の検地に抵抗し肥後国人一揆を主導。敗れて立花宗茂に「放し討ち」で処刑された。 |
| 久米五郎 | 別所氏の家臣。三木合戦の極限状態の中、志水弥四郎と共に味方の首級を携えて羽柴秀吉への偽装投降(首実検での奇襲)を試みるが、企てを見破られて討死した。 |
| 久米義広 | 久米義広は阿波の武将。主君・細川持隆が三好実休に殺害されると、仇討ちのため「鑓場の義戦」を起こす。劣勢ながら一宮城を夜襲するも、実休の反撃で討死。その忠義は後世に語り継がれる。 |
| 公文重忠 | 長宗我部家臣。勇猛ながら極貧で正月の餅もつけなかったという伝承で有名。娘は野中兼山の側室。公文式創立者・公文公の先祖。家系は現代の教育界へ繋がる。 |
| 倉科朝軌 | 倉科朝軌は武士から松本の特権商人へ転身。豊臣秀吉への使者中に木曽路で暗殺されたが、家は存続し松本の経済・行政を担った。彼の生涯は戦国期の社会流動性と時代の犠牲、繁栄の礎を象徴する。 |
| 栗山善助 | 黒田家筆頭家老。有岡城から官兵衛を救出した功で信頼を得、福岡藩の礎を築いた「一老」。智勇兼備の忠臣。子の利章(大膳)は主家存続を賭け黒田騒動を引き起こした。 |
| 栗山大膳 | 福岡藩筆頭家老。藩主の暴政から主家を救うため幕府に直訴した「黒田騒動」の主役。改易を阻んだ行動は「逆説の忠臣」と称され、配流先の盛岡でも厚遇され生涯を閉じた。 |
| 栗山利章 | 栗山利章は黒田藩家老。主君・忠之の不行跡を幕府に直訴し「黒田騒動」を起こす。藩存続を願う忠義と解釈され、幕府は巧妙な裁定を下す。彼の行動は近世初期の主従関係の変容を象徴する。 |
| 来島長親 | 来島長親は村上水軍の血を引く海賊大名。関ヶ原で西軍につき改易されるも、福島正則の斡旋で豊後森藩主として再起。海を捨て内陸の領主となった。 |
| 久留島通春 | 久留島通春は豊後森藩二代藩主。水軍の末裔ながら内陸へ転封。福島正則改易の危機を乗り越え、「久留島」に改姓。家臣団刷新や蔵屋敷設置で藩政を確立した。 |
| 来島通総 | 来島村上氏の出身で、秀吉の調略で毛利・河野氏から離反し豊臣大名となり、四国征伐で活躍するも、朝鮮出兵の鳴梁海戦で先鋒として突撃し戦死した戦国武将。 |
| 車斯忠 | 車斯忠は佐竹氏の重臣。佐竹義重の側近として活躍し、関ヶ原では上杉方に加勢。佐竹氏の減転封に反発し、水戸城奪回を企てるも失敗、処刑された。 |
| 黒岩種直 | 戦国時代の土佐国の武将。東部の有力国人である安芸国虎に仕える重臣。長宗我部元親の急速な台頭に対抗し、安芸氏の忠臣として最後まで戦い抜いた。 |
| 黒川清実 | 越後の国人、黒川清実は宿敵・中条氏に対抗し、上杉謙信に服従しつつも自立を維持。御館の乱で敗れるが、伊達氏の仲介で生き延び、子孫は米沢藩士となった。 |
| 黒川晴氏 | 戦国時代の武将。陸奥黒川郡の領主。大崎合戦で伊達政宗を奇襲し破る。改易後、政宗に処刑されかけたが、娘婿留守政景の助命嘆願により一命を救われ出家した。 |
| 黒木家永 | 黒木家永は筑後国の有力国人。大友氏と龍造寺氏の間で揺れ動き、蒲池鎮漣謀殺に反発し龍造寺氏に反旗。猫尾城の戦いで大友軍に敗れ、自害説と降伏説があるが、最終的に黒木本家は滅亡した。 |
| 黒沢道家 | 黒沢道家は出羽の武将。小野寺家臣として知将暗殺に関与。主家改易後、佐竹氏に仕え、行政・軍事両面で活躍。大坂の陣で武功を挙げ、藩の重臣となった。 |
| 黒田一成 | 戦国から江戸初期の武将。福岡藩筆頭家老。黒田二十四騎や黒田八虎の一人に数えられる。黒田官兵衛・長政の二代を支え、抜群の武勇と至誠をもって藩の礎を築いた勇将。 |
| 黒田官兵衛 | 黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師。高松城水攻めや中国大返しで活躍。有岡城幽閉を耐え、築城・外交にも長けた。関ヶ原では九州で独立戦を展開した稀代の戦略家。 |
| 黒田重隆 | 黒田官兵衛の祖父。播磨に移り住み、目薬を売って財を成し子・職隆を小寺氏に仕官させた。後の黒田氏躍進の原点となる強固な経済的・社会的基礎を築き上げた人物。 |
| 黒田忠之 | 黒田忠之は福岡藩二代藩主。父・長政との確執や黒田騒動を経験。島原の乱で武功を挙げ、長崎警備を担う。文化人でもあり、激動の時代を生き抜いた。 |
| 黒田長政 | 黒田長政は福岡藩初代藩主。父・官兵衛の薫陶を受け、秀吉・家康に仕え数々の戦功を挙げた。関ヶ原で東軍勝利に貢献し、筑前52万石を得て藩政を確立した。 |
| 黒田秀忠 | 越後の国人、黒田秀忠は長尾晴景の重臣。通説の「反逆者」像は誤りで、長尾景虎の家督簒奪に抵抗し、粛清された悲劇の武将と再評価される。 |
| 黒田職隆 | 黒田職隆は官兵衛の父。播磨の小寺家家老として姫路城を経営。主家の離反と子の幽閉の危機を乗り越え、織田への忠誠を貫き黒田家興隆の礎を築いた。 |
| 桑名吉成 | 桑名吉成は長宗我部氏の重臣。戸次川で元親を救い、浦戸一揆を調停。藤堂高虎に仕え、大坂夏の陣で旧主と対峙し、忠義と義の狭間で壮絶な最期を遂げた。 |
| 桑原平兵衛 | 桑原平兵衛は架空の諏訪商人だが、武士桑原氏の歴史や諏訪大社の経済力、交通の要衝としての諏訪の社会経済を背景に考察。主家滅亡後、武士が商人へ転身した可能性を探る。 |
| 桑山一直 | 桑山一直は桑山重晴の孫。関ヶ原・大坂の陣で徳川方として活躍し、兄の死後、大和新庄藩主を継承。旗本の喧嘩仲裁で負傷し、加増を反故にされるも、藩主として務めを全う。桑山家は孫の代で改易。 |
| 桑山一晴 | 桑山一晴は豊臣秀長の重臣・桑山重晴の嫡孫。文禄・慶長の役で水軍として武功を挙げ、紀州での一揆鎮圧にも貢献。関ヶ原では東軍に与し、大和新庄藩初代藩主となるも30歳で早世。 |
| 桑山重晴 | 桑山重晴は織田・豊臣・徳川三代に仕えた老将。秀長の腹心として紀州統治、和歌山城代を務め、関ヶ原では東軍に属し、桑山家を大名として存続させた。茶人としても高名。 |
| 桑山元晴 | 桑山元晴は豊臣秀長家臣から徳川直臣へ。関ヶ原・大坂の陣で武功を挙げ、大和御所藩祖となる。古田織部門下の茶人でもあり、名刀蒐集家としても知られる。 |
| グネッキ・ソルディ・オルガンティノ | 16世紀日本で活躍したイエズス会宣教師オルガンティノ。信長・秀吉時代に京都で30年以上宣教。「宇留岸伴天連」と慕われ、日本文化を尊重し文明の架け橋。 |
| 郡司敏良 | 郡司敏良は田村氏重臣として天正田村騒動で相馬派に属し伊達派と対立。下枝城の戦いで嫡子敏貞と共に討死し、田村氏の伊達氏への従属を決定づけた。娘も政宗の疑心により非業の死を遂げた。 |