最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:ふ

「ふ」に属する武将:45件

武将概要
風魔小太郎ふうまこたろう五代目ごだいめ五代目風魔小太郎は後北条氏に仕えた忍者頭領。黄瀬川の戦いで武田軍を攪乱。異形の容貌と超人的能力が『北条五代記』に描かれ、伝説となる。
深堀純賢ふかぼりすみかた戦国期の肥前の武将。西郷氏から深堀氏の養子となる。大村氏らキリシタン勢と戦い、のち鍋島氏に臣従。後妻の連れ子を養子に据え、深堀鍋島家として家名を繋いだ。
深堀又五郎ふかぼりまたごろう戦国期から江戸初期の塩釜の商人。武家の深堀氏にルーツを持つとされる。伊達政宗の領国経営下で塩釜港を拠点に製塩や海運を営み、藩を支えた事実上の御用商人。
深水長智ふかみながとも肥後国の国人領主。相良氏の筆頭重臣。知勇に優れた政治家で相良氏の統治を支え、島津氏の侵攻に対して和睦交渉を担い家名の存続に貢献した名臣。
深谷外記助ふかやげきのすけ深谷外記助は佐竹氏の経済参謀。常陸で商業支配、秋田転封に同行し御天秤屋として経済基盤を再構築。武家と商人の共生関係を象徴する存在。
福島高晴ふくしまたかはる戦国から江戸初期の武将。大和宇陀松山藩初代藩主。福島正則の弟。関ヶ原の戦いでは東軍に属して武功を挙げるも、後に正則改易に伴い改易された。
福島忠勝ふくしまただかつ福島忠勝は福島正則の嫡男。徳川秀忠から偏諱を賜り、信濃高井野藩主となるも、22歳で早世。父の改易と相まって福島宗家断絶の引き金となった悲劇の継嗣。
福島正成ふくしままさなり福島正成は今川家重臣。1521年甲斐侵攻で戦死説と、1536年花倉の乱で敗死説がある。北条綱成の父とされる。猛将と評されるが、その実像は謎に包まれている。
福島正則ふくしままさのり福島正則は豊臣秀吉子飼いの猛将。賤ヶ岳の七本槍筆頭。関ヶ原で東軍先鋒として活躍し広島藩主となるも、広島城無断修築で改易。秀吉への忠誠と時代の転換に翻弄された。
福田兼親ふくだかねちか肥前国の福田兼親は、キリシタン一族に生まれ、大村純忠の娘を娶り姻戚関係を強化。主君の宗教政策転換に合わせ改宗し、大村藩重臣となり、一族の繁栄の礎を築いた。
福田忠兼ふくだただかね福田忠兼は肥前国の在地領主。南蛮貿易の拠点・福田浦を開港し、ポルトガル船の大砲で松浦水軍を撃退。主君大村純忠の娘を嫡男の妻に迎え、福田氏を大村藩重臣として確立させた。
福留親政ふくどめちかまさ福留親政は長宗我部元親の重臣。「福留の荒切り」と称された猛将で、元親から絶大な信頼を得た。嫡男信親の傅役も務め、土佐統一に貢献。伊予侵攻中に戦死し、その息子たちも戦場で散った。
福留儀重ふくどめのりしげ福留儀重は長宗我部元親の家臣。父親政の武勇を受け継ぎ、「酒樽破り」の逸話で知られる剛直な忠臣。戸次川の戦いで元親の嫡男信親と共に戦死。土佐の童謡にも歌われた猛将。
福原資孝ふくはらすけたか福原資孝は下野の戦国武将。大田原三兄弟の一員として謀略で那須家中の実権を掌握。小田原征伐で遅参も、関ヶ原で東軍につき家を存続させた。
福原助就ふくはらすけなり福原助就の生涯は、戦国末期の播磨国で織田・毛利の狭間に消えた武将の悲劇。高倉山城主として奮戦も、秀吉の大軍に敗れ討死。彼の死は、福原一族滅亡と西播磨平定の礎となった。
福原資保ふくはらすけやす福原資保は那須七党の一員。関ヶ原で東軍に属し大田原城を防衛、大坂の陣で武功を挙げ、徳川幕府の大身旗本・交代寄合となる。一族を戦国乱世から泰平の世へ導いた知将。
福原善七ふくはらぜんしち戦国時代の品川商人「福原善七」は架空だが、当時の品川湊の重要性と商人の実像を解明。鈴木道胤ら有力商人の活動や、湊から宿場町への変革を考察。
福原長堯ふくはらながたか福原長堯は豊臣秀吉の側近で文治派官僚。豊後府内12万石の大名。慶長の役で武断派と対立。関ヶ原で大垣城守将、味方の裏切りで悲劇的末路。
福原則尚ふくはらのりひさ富原則尚は播磨国佐用城主。織田信長の中国攻めに対し、毛利方として佐用城で抵抗。竹中半兵衛・黒田官兵衛率いる秀吉軍に攻められ落城。その最期は自害説と討ち死に説がある。
福原貞俊ふくばらさだとし福原貞俊は毛利元就・隆元・輝元に仕えた重臣。厳島の戦いや防長経略で活躍し、筆頭家老となる。輝元時代は「御四人」の一員として補佐。子孫は長州藩永代家老として存続。
福原広俊ふくばらひろとし毛利重臣、福原広俊は毛利元就の外戚。関ヶ原で毛利家存続のため徳川家康と密約し、毛利勢の不戦を主導。戦後、大減封された毛利家を萩藩として再建した「影の功労者」。
福屋隆兼ふくやたかかね福屋隆兼は石見の国人で、毛利元就の義理の弟。毛利氏に仕え戦功を挙げるも、論功行賞への不満や石見銀山を巡る対立から離反。毛利軍に攻められ、子息隆任が討死し、福屋氏は滅亡した。
藤生善久ふじうよしひさ上野由良氏の重臣。桐生城代を務め、由良氏の東上州平定に貢献。主君由良国繁に武士の道を説き、広沢大雄院を建立。由良氏と渡瀬氏に仕えた文武兼備の知将。
藤方朝成ふじかたともなり藤方朝成は戦国乱世を生き抜き、旧主を裏切り織田・豊臣に仕え、子孫を旗本とした。その生涯は忠義と裏切り、名誉と実利が複雑に絡み合う。
藤方安正ふじかたやすまさ藤方安正は父朝成の「主君殺し」の汚名を背負う。織田信包、豊臣秀次に仕えるも浪人。家康に招かれ旗本となり、下総で500石を賜り、藤方家の名誉を回復。
藤沢頼親ふじさわよりちか戦国時代の武将。信濃伊那谷の国衆。武田信玄に対し福与城で頑強に抵抗。流浪の末に帰還して田中城を築いたが、天正壬午の乱で保科正直に攻められ自刃した。
藤田信吉ふじたのぶよし藤田信吉は北条・武田・上杉・徳川と主家を変え、佐渡平定などで活躍。上杉家出奔で関ヶ原の引き金を引き、大名となるも大坂の陣後に改易され自刃。流転の生涯を送った。
藤田康邦ふじたやすくに戦国時代の武蔵国の国人領主。上杉氏に仕えたが後北条氏の台頭に伴い降伏。北条氏康の三男氏邦を養子に迎えて家督を譲ることで、激動期に一族の存続を成し遂げた。
藤田行政ふじたゆきまさ藤田行政は明智光秀の重臣。近江出身の新参者説が有力で、武官・吏僚を兼ねた。本能寺の変に参画し、山崎の合戦で筒井順慶説得に失敗、淀で自刃。
藤林正保ふじばやしまさやす藤林長門守正保は伊賀流忍者の上忍。服部半蔵らと並び称され、その生涯は謎に包まれる。子孫が忍術書『万川集海』を編纂し、その名を後世に伝えた。
藤原純友ふじわらのすみとも藤原純友は平安中期の貴族で、瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に反乱を起こした。没落貴族の不満を背景に勢力を拡大し、武士台頭のきっかけを作った。朝敵と英雄の二面性を持つ。
藤原千方ふじわらのちかた平安時代の鎮守府将軍。伊賀の山中に拠り、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四鬼を従え朝廷に反旗を翻した伝説の反逆者。和歌の言霊により鬼を失い討ち取られた。
藤原秀郷ふじわらのひでさと藤原秀郷は平安中期の武将。平将門を討伐し、武士の時代の扉を開いた。百足退治伝説の「俵藤太」としても知られ、その子孫は奥州藤原氏や佐藤氏など、多くの武家として繁栄した。
藤原秀衡ふじわらのひでひら藤原秀衡は奥州藤原氏三代当主。平泉に独立王国を築き、源義経を庇護。源平争乱期に巧みな外交で中立を維持したが、死後、奥州藤原氏は滅亡した。
二木重高ふたつぎしげたか二木重高は信濃の国人領主。塩尻峠で武田に寝返るも、野々宮合戦で小笠原氏に忠節を示し、主君の密命を受け武田に仕えた。子の代で小笠原家再興を果たす。
二木重吉ふたつぎしげよし二木重吉は信濃小笠原家再興に尽力。武田信玄支配下で雌伏30年、天正壬午の乱で深志城を奪還。戦国武将から近世大名の家老へ転身し、晩年に『二木家記』を著した忠義の武人。
二荒山実真ふたらさんさねまこと二荒山実真は史料にないが、戦国期下野の二荒山神社(宇都宮・日光)の対立や武装僧の実態から、日光山の反主流派僧侶か宇都宮氏の神官武者、または伝説上の人物の可能性。
不動院豪盛ふどういんごうせい不動院豪盛は史料未確認。江戸崎不動院は天海が住職を務め、徳川幕府の庇護を受け隆盛。天海は蘆名氏の招きで不動院住職となり、後に徳川家康の「黒衣の宰相」として幕政に深く関与した。
船尾昭直ふなおあきなお船尾昭直は岩城氏庶流で、佐竹氏に仕え陸奥侵攻の先鋒として活躍。赤館城代などを務め、佐竹義重の信頼を得た。関ヶ原後、佐竹氏の秋田転封に際し、嫡男は離反するも、孫の代に家名が再興された。
フランシスコ・ザビエルフランシスコ・ザビエルはイエズス会宣教師。1549年鹿児島に上陸し日本でキリスト教布教を開始。京都での挫折後、山口の大内義隆に謁見し布教を許可され、豊後の大友宗麟にも招かれた。
古市澄胤ふるいちちょういん戦国大和の武将・古市澄胤は、武力と権謀で権勢を極め、わび茶の祖・村田珠光の筆頭弟子として文化を極めた。その多面的な生涯は乱世の権力者の生存戦略を映す。
古田織部ふるたおりべ武将茶人・古田織部は利休に学び、破格の「織部好み」を確立。歪んだ器形や緑釉の織部焼を創始し、徳川秀忠の茶の湯指南役も務めたが、大坂の陣後に切腹。
古田重勝ふるたしげかつ古田重勝は伊勢松坂藩初代藩主。父の戦死後若くして家督を継ぎ、関ヶ原で東軍として活躍し加増。織部とは別人だが交流あり。若くして病死、家は後に改易。
古田重治ふるたしげはる古田重治は伊勢松坂藩主、石見浜田藩初代藩主。兄・重勝の死後、幼い甥・重恒の中継ぎとして家督を継承。浜田城と城下町を築き、治水事業を行うなど、優れた行政手腕で近世都市の礎を築いた能吏。
不破光治ふわみつはる不破光治は斎藤・織田・柴田に仕え、斎藤氏滅亡まで忠節を貫き信長に重用。織田馬廻衆、越前府中三人衆として活躍。没年は謎も、子孫は加賀藩士として存続。