最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:さ

「さ」に属する武将:134件

武将概要
西園寺公家さいおんじきんいえ伊予西園寺公家は、公家から戦国大名へ変貌した南予の領主。宇和郡を掌握し、巧みな外交と軍事で勢力を拡大。その生涯は激動の時代を象徴する。
西園寺公広さいおんじきんひろ西園寺公広は、公家出身ながら伊予の戦国大名となり、黒瀬城を拠点に南伊予を支配。土佐一条氏や長宗我部氏と攻防を繰り広げたが、豊臣秀吉の四国平定後、戸田勝隆に謀殺され西園寺氏は滅亡。
西園寺実充さいおんじさねみつ西園寺実充は伊予西園寺氏当主。公家出身ながら武士として活躍し、黒瀬城を拠点に南伊予を支配。嫡男の戦死で甥の公広を養子に迎えた文武両道の人物。
西園寺宣久さいおんじのぶひさ西園寺宣久は伊予西園寺氏の一門で「西園寺十五将」の一人。板島丸串城主として宇和の防衛を担った武将。伊勢参宮記を著した文人でもあり、天正8年に病死。
三枝昌貞さいぐさまささだ三枝昌貞は武田信玄・勝頼に仕えた武将。山県昌景の娘婿・猶子となり、花沢城攻めで一番槍、三方ヶ原で奮戦し「若獅子」と称された。長篠の戦いで討死するも、その武功が三枝家の存続に繋がった。
西郷純堯さいごうすみたか肥前国伊佐早の領主、高城城主。有馬一門ながら大村純忠と対立。熱心な仏教徒として伝統を護持し、権謀術数を駆使して戦い抜いた謀将。後に龍造寺隆信へ降伏した人物。
西郷純尚さいごうすみなお西郷純尚は肥前伊佐早の武将。有馬氏家臣から龍造寺氏に属し、沖田畷の戦い後、豊臣秀吉の九州征伐に不参加。所領を没収され、伊佐早を追われた。
西郷純久さいごうすみひさ西郷純久は肥前西郷氏当主。有馬晴純の弟で、有馬氏の養子戦略により伊佐早を支配。兄の勢力拡大を支えた。息子の代に宗教対立で有馬氏と決裂、豊臣秀吉の九州平定で所領を没収され終焉。
斎藤定信さいとうさだのぶ斎藤定信は越後斎藤氏の国人領主。長尾為景に仕え、永正の乱で貢献。刈羽郡赤田城を本拠とし、子朝信と共に善照寺に寄進。一族は米沢藩士として存続。
斎藤実盛さいとうさねもり斎藤実盛は源平の動乱期に生きた武将。旧恩と現恩に揺れ、白髪を染め壮絶な最期を遂げた。その生涯は文学・芸能・信仰に影響を与え、今も語り継がれる。
斎藤龍興さいとうたつおき斎藤龍興は義龍の子で若くして美濃国主となるも、織田信長の侵攻と家臣離反で美濃を失い、流浪の末に戦死。暗愚と評されるが若年故の苦悩も。
斎藤利茂さいとうとししげ美濃斎藤氏嫡流の当主。土岐氏の家督争いや他勢力に翻弄され、帰順後に守護代へ復帰するも実権はなく、斎藤道三の下剋上により没落した悲劇の武将。
斎藤利隆さいとうとしたか戦国時代の美濃武将。守護代斎藤氏嫡流の当主。通称は利良。嫡子なく病死し家系が断絶したため、実力者の長井規秀(斎藤道三)がその名跡を継ぎ、美濃支配を進めた。
斎藤利良さいとうとしなが斎藤利良は美濃守護代斎藤氏の嫡流。土岐氏の内紛に翻弄され、一度は守護代に復帰するも、斎藤道三の台頭により実権を失い没落。その死は道三の国盗りを完成させた。
斎藤利三さいとうとしみつ斎藤利三は明智光秀の重臣。本能寺の変で中心的な役割を果たす。四国政策転換が動機の一因とされる。山崎の戦いで敗れ、捕らえられ処刑された。
斎藤朝信さいとうとものぶ越後の鍾馗と称された上杉氏重臣。謙信・景勝に仕え諸戦で活躍。外交に長け、御館の乱では武田氏との同盟に成功した。智勇兼備で仁愛深く、領民に慕われた文武両道の将。
斎藤道三さいとうどうさん斎藤道三は油商人から美濃国主へ下剋上を成し遂げた梟雄。「美濃の蝮」と称され、娘婿の織田信長に美濃を譲る遺言を残すも、実子義龍との長良川の戦いで敗死。
斎藤憲広さいとうのりひろ上野岩櫃城主として吾妻郡を支配した国人領主。上杉・北条・武田の狭間で領国保全を図るが、真田幸隆の調略により岩櫃城を落とされ、越後へ逃れて客死した戦国武将。
斎藤昌信さいとうまさのぶ越後斎藤氏の斎藤昌信は、長尾為景の家臣として活躍。永正の乱で為景の下剋上を支援し重臣となる。孫の斎藤朝信は「越後の鍾馗」と称され、上杉謙信に仕えた。
斎藤義龍さいとうよしたつ美濃国の戦国大名。斎藤道三の長男。長良川の戦いにおいて父・道三を破り美濃を掌握。巧みな内政や外交で織田信長の侵攻を阻み続けた有能な英主。
斎村政広さいむらまさひろ斎村政広は龍野赤松氏出身の但馬竹田城主。仁政を敷き姜沆に称賛されるも、関ヶ原で東軍に寝返り鳥取城下を焼き討ち。家康の政治的意図で切腹。
佐伯惟定さえきこれさだ佐伯惟定は耳川の戦いで祖父・父を失い家督を継承。豊薩合戦で島津軍を撃破し武名を確立。大友氏改易後、藤堂高虎に仕え津藩重臣として家名を存続させた。
佐伯惟教さえきこれのり佐伯惟教は大友氏の武将。二階崩れの変で宗麟を擁立し活躍するも、姓氏対立事件で失脚し伊予へ亡命。後に帰参し重臣となるが、耳川の戦いで戦死。
酒井家次さかいいえつぐ酒井家次は徳川四天王筆頭・忠次の嫡男。家康の従弟として厚遇され、関ヶ原不参も加増。大坂の陣で敗走も赦免され、越後高田10万石。新時代を生き抜いた。
酒井重忠さかいしげただ酒井重忠は徳川譜代の重臣。伊賀越えで家康を救い、川越・前橋藩主として領国経営に尽力。戦場より行政で活躍し、雅楽頭酒井家の礎を築いた。
酒井忠勝さかいただかつ小浜藩主おばまはんしゅ江戸初期の小浜藩主。老中や初代大老として徳川家光を支え幕政の安定に努めた。藩内では小浜城の完成や城下町の整備を推し進め、藩政の基礎を確立した名臣。
酒井忠勝さかいただかつ出羽国庄内藩主でわのくにしょうないはんしゅ徳川四天王酒井忠次の孫。越後高田藩主から出羽庄内藩初代藩主となり、藩政の基礎を築いた。晩年はお家騒動に苦しむも、庄内酒井家の礎を築いた人物。
酒井忠次さかいただつぐ酒井忠次は徳川四天王筆頭。長篠の戦いでの奇襲、三方ヶ原の空城計など武勇と知略に優れ、家康の天下統一を支えた。晩年は隠居し、子孫は庄内藩主として繁栄。
酒井忠利さかいただとし徳川家康の譜代家臣。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従軍。江戸城大留守居役や将軍世子家光の傅役を務め、徳川幕府の初期体制確立に貢献した文武両道の功臣。
酒井忠世さかいただよ江戸初期の譜代大名、老中・大老。徳川三代に仕え、家康の側近や秀忠・家光の執政として幕政の中枢を担い、江戸幕府の統治機構の確立に多大な貢献をした能臣。
酒井玄治さかいつねはる酒井玄治は上総土気城主。1553年、千葉親胤と共に反後北条勢力として戦うが敗北。彼の生涯は養子胤治と混同されがちだが、巧みな領国経営と「七里法華」で知られる。
酒井敏房さかいとしふさ上総の国衆・酒井敏房は、北条・里見両氏の間で巧みに立ち回り、東金酒井氏の存続を図る。小田原征伐で領地を失うも、子孫は徳川旗本として家名を残した。
酒井豊数さかいとよかず丹波波多野氏の家臣、酒井豊教のこと。主君元秀の右筆を務め、初田酒井氏の地位を確立。明智光秀の丹波平定に抗戦し、嫡男氏武は本能寺の変後に討ち死にした。
坂井成政さかいなりまさ坂井成政は赤川氏出身で、父の代に坂井姓に改姓。父の死後、徳川家康に仕え関ヶ原で武功を立て旗本となる。大坂の陣にも従軍し、大番に列せられた。子孫は婚姻戦略で家名を安定させ、現代まで続く。
酒井広種さかいひろたね酒井広種は松前藩の町奉行。1637年の福山館大火で主君・松前公広を救出、火傷がもとで殉職。その忠義は藩の公式史書に記録され、後世の模範とされた。
酒井政辰さかいまさとき酒井政辰は上総の戦国武将。北条氏に仕え東金城主となるが、小田原征伐で主家滅亡。隠棲するも、子孫は徳川旗本として存続。戦国から近世への転換期を生きた。
坂井政尚さかいまさひさ坂井政尚は織田信長の重臣で、京都奉行や姉川の戦い先鋒を務めた。元亀元年、嫡男尚恒を失い、自身も堅田の戦いで討死。次男も本能寺の変で殉じ、直系は途絶えた。
榊原忠次さかきばらただつぐ榊原忠次は康政の孫。館林・白河・姫路藩主を歴任し、治水や新田開発で功績。家綱の傅役、大政参与として幕政を支え、寛文の治に貢献した。
榊原康勝さかきばらやすかつ榊原康勝は、徳川四天王・康政の三男。17歳で館林藩主となるも財政難に苦しむ。大坂の陣で武功を挙げるも戦傷が悪化し26歳で夭折。その死は榊原家の存続危機を招くが、家康の裁定で救われた。
榊原康政さかきばらやすまさ榊原康政は徳川四天王の一人。三河一向一揆で初陣、家康から「康」の字を賜る。姉川・三方ヶ原・小牧長久手・関ヶ原で活躍。能筆家で知略に優れ、館林藩主として治績を挙げた。
坂口喜十郎さかぐちきじゅうろう戦国期土佐の豪商・坂口喜十郎の生涯を須崎港と長宗我部氏の経済戦略から再構築。直接史料はないが、長宗我部氏の材木交易を担い、その没落で歴史から消えた。
坂崎直盛さかざきなおもり坂崎直盛は宇喜多一門のキリシタン武将。宇喜多騒動で主家を離反し徳川家康に仕え、関ヶ原の戦功で津和野藩主となる。千姫事件で知られるが、藩政では有能な統治者だった。
坂田金時さかたきんとき坂田金時は、源頼光四天王の一人で、怪童「金太郎」のモデル。史実の記録は少ないが、酒呑童子退治などの伝説で知られ、童謡や五月人形など、日本文化に深く根付いた英雄。
坂田甚八さかたじんぱち坂田甚八は武田信玄、徳川家康に仕えた甲斐の御用商人。魚・塩の供給を担い、富士川水運を掌握。主家滅亡後も徳川家康に仕え、甲府の町年寄として明治まで繁栄した。
相良武任さがらたけとう大内義隆の寵臣。文治派の頭領として権勢を振るうが、武断派の陶晴賢と対立。大寧寺の変で義隆が自害した後、自身も討ち死にした。大内家滅亡の引き金となった文治官僚。
相良為続さがらためつぐ相良為続は、父の築いた基盤を元に八代・葦北へ勢力拡大。菊池氏との対立で領土を失うも、「相良氏法度」制定や文化人としての側面で相良氏の礎を築いた。
相良長毎さがらながつね肥後の戦国大名。相良氏第十三代当主。父の遺志を継ぎ、名和氏や菊池氏を退け三郡支配を確立。「相良氏法度」を定め家の礎を築いた中興の祖である。
相良長祇さがらながまさ肥後国の戦国大名。相良氏当主。若くして家督を継承するも、家中擁立や一族の反発に直面。激しい内紛に翻弄されて若くして没した悲劇の相良当主。
相良晴広さがらはるひろ肥後の戦国大名。相良氏第十七代当主。養父義滋の基盤を継承し、分国法である相良氏法度の制定や対明貿易を推進して、相良氏の領国支配の基盤を確立した名君。
相良治頼さがらはるより肥後の武将相良治頼は、八代岡の地頭。器量に優れ人望厚かったが、宗家の粛清を恐れ謀反を決意。犬童頼安に唆され挙兵するも孤立し、豊後佐賀関で病死。死後、その怨霊が恐れられ、武神として祀られた。
相良義陽さがらよしあき相良義陽は内乱を鎮め、将軍から偏諱を受け、阿蘇氏・伊東氏と結ぶも、島津氏に降伏。盟友・甲斐宗運との戦いで討死し、家を救った悲運の智将。
相良義滋さがらよししげ相良義滋は内乱を克服し、冷徹な粛清と巧みな外交で相良家を再興。八代移転、銀山開発、海外貿易で経済を強化し、法度を制定。戦国大名として礎を築いた。
相良頼房さがらよりふさ肥後の戦国大名。相良氏第二十代当主で人吉藩初代藩主。秀吉の九州征伐や関ヶ原の戦いで冷徹な生存戦略を駆使し、稀有な領土安堵と主家存続を成し遂げた当主。
佐川信利さがわしゅめのぶとし平戸藩の国家老。文禄・慶長の役で渡海し、一時福島正則に仕える。平戸オランダ・イギリス商館設立に尽力し、朱印船貿易も手掛けるなど、近世初期日本の国際関係を動かした国際派の武将。
佐久間勝之さくまかつゆき柴田勝家の甥。北条や蒲生氏を経て徳川に仕え、関ヶ原の戦功で長沼藩主となる。熱田神宮などに巨大石灯籠を寄進し、日本三大灯籠の寄進者として名を残した大名。
佐久間盛重さくまだいがくのすけもりしげ織田信長の家臣、佐久間盛重は稲生の戦いで信長を助け、桶狭間の戦いでは丸根砦を守り壮絶な戦死を遂げた。彼の死は信長の勝利に貢献した。
佐久間信栄さくまのぶひで佐久間信栄は織田信長の家臣。父信盛と共に追放されるが、茶の湯の才で豊臣秀吉、徳川秀忠に仕え、家名を再興した。武と茶の道を生きた武将。
佐久間信盛さくまのぶもり織田信長の重臣。「退き佐久間」と称された織田家筆頭家老で、主家の覇業に長年貢献するも、石山本願寺攻めの不手際から高野山へ追放された。
佐久間盛政さくまもりまさ織田信長、柴田勝家に仕えた猛将。「鬼玄蕃」と恐れられ、加賀一向一揆を鎮圧し初代金沢城主となる。賤ヶ岳で大岩山砦を奇襲するも敗北。秀吉の仕官の誘いを固辞し、潔く斬首された忠義の士。
佐久間安政さくまやすまさ佐久間安政は織田・豊臣・徳川に仕え、兄・盛政とは対照的に乱世を生き抜いた。流浪の末、適応力と政治手腕で信濃飯山藩主となり家名を再興した武将。
桜井新左衛門さくらいしんざえもん桜井新左衛門は直江津の商人として史料に直接的な記録はないが、歴史シミュレーションゲームに登場する架空の人物。当時の直江津は上杉氏の経済を支える要衝で、青苧座や御用商人が活躍した。
桜田元親さくらだもとちか桜田元親は伊達政宗の家臣で宇和島藩創設に貢献。関ヶ原で武功を挙げたが、和霊騒動で政敵を排除し「悪役」とされた。藩の安定に尽力した功臣として再評価されるべき人物。
桜庭直綱さくらばなおつな南部四天王の一族。岩崎一揆の鎮圧や遠野平定などで活躍した盛岡藩の重臣。大坂の陣で豊臣方に与した弟・北信景の連座を、系図偽造などの政治工作により回避。
鮭延貞綱さけのべさだつな鮭延貞綱は出羽の国人。鮭延城を築き、小野寺氏に仕える。最上義光に降伏後、長谷堂城で武功を挙げ最上家重臣となるも、最上家改易で浪人。晩年は客将として過ごした。
鮭延秀綱さけのべひでつな鮭延秀綱は出羽の驍将。最上義光に仕え、長谷堂城で直江兼続を退ける武功。最上騒動で主家改易を招くも、家臣に尽くし「乞食大名」と称された。
佐々木小次郎ささきこじろう富田勢源らに師事し、独自流派の巌流を創始した剣豪。長大刀の物干し竿を操り、慶長17年に巌流島で宮本武蔵と決闘し敗死したとされ、多くの創作で描かれる人物。
佐々木道誉ささきどうよ佐々木道誉は南北朝時代の武将で、足利尊氏の側近として室町幕府創設に貢献。奇抜な振る舞いで「婆娑羅大名」と呼ばれ、政治・軍事・文化に多大な影響を与えた。
佐々布光林坊ささふさそうこうりんぼう佐々布光林坊は越前の僧形武士で、朝倉氏に仕え活躍。朝倉氏滅亡後、織田信長に帰順するも越前一向一揆で討死。子孫は金沢で薬種商「香林坊」として再興し、その名は地名となった。
篠山資忠ささやますけただ篠山資忠は「秋葉流の忍者」と伝わるが、史料では確認困難。その功績は甲賀武士・伴与七郎資定による上の郷城攻めでの活躍がモデルと推測される。
佐世清宗させきよむね出雲国の武将。名門尼子氏の重臣として活躍し、主家滅亡後は毛利氏へ降伏。破格の待遇で迎えられ、子孫は長州藩士として存続した戦国武将。
佐瀬種常させたねつね佐瀬種常は蘆名氏の宿老。小田付六斎市を開設し、経済手腕を発揮。摺上原の戦いで主君蘆名義広を逃がすため奮戦し討死。会津三忠臣の一人。
佐世元嘉させもとよし出雲尼子氏の重臣。主家滅亡後は毛利輝元に仕えて信任を得、関ヶ原の戦い後の長州藩の初代当番家老として藩政の基盤を築き上げた有能な吏僚。
佐竹親直さたけちかなお佐竹親直は土佐佐竹氏の武将。長宗我部元親の娘婿となり、上ノ加江城主を務める。関ヶ原で主家が改易後も盛親に忠誠を尽くし、大坂夏の陣で討死。遺された妻子が伊達政宗に庇護され、仙台藩の歴史に影響を与えた。
佐竹政義さたけまさよし佐竹政義は佐竹東家の祖。百年内乱後の佐竹氏で、兄義舜・甥義篤を補佐し宗家安定に貢献。東殿として宗家を支え、その死は「部垂の乱」激化を招いた。
佐竹義昭さたけよしあき佐竹義昭は内紛後の佐竹氏を再建し、軍事・外交で勢力拡大。金山経営や家臣統制で基盤を固め、若くして没するも、子の義重の飛躍の礎を築いた。
佐竹義篤さたけよしあつ佐竹義篤は佐竹氏16代当主。弟義元との部垂の乱を鎮圧し、佐竹三家体制を確立。若くして急逝も、その統治基盤が佐竹氏の戦国大名化を確固たるものにした。
佐竹義堅さたけよしかた常陸佐竹氏の重鎮。佐竹東家二代当主として、若き佐竹義昭の執政を務め領国統制に貢献。永禄9年、那須氏との治部内山の戦いで裏切りにより敗北。その後、歴史の表舞台から姿を消した悲運の将。
佐竹義廉さたけよしかど常陸佐竹氏北家三代当主。兄・義住の戦死により家督を継承。宗家・義昭の娘を妻に迎え、佐竹三家の一角として主に外交面で宗家を支え、佐竹氏の発展に貢献した。
佐竹義舜さたけよしきよ佐竹義舜は、百年続いた山入の乱を終結させ、佐竹氏を戦国大名へと導いた中興の祖。太田城を奪還し、家法を制定、北関東の覇権を目指した。
佐竹義里さたけよしさと常陸佐竹氏第15代当主・義舜の四男。佐竹南家の祖となり「南殿」と称された。佐竹三家の一角として宗家の家政・財政・兵站を統括し、佐竹氏の戦国大名としての権力基盤確立に貢献した。
佐竹義重さたけよししげ佐竹義重は常陸の戦国大名。「鬼義重」「坂東太郎」と称され、小田氏を破り常陸を統一。北条・伊達氏と争い、豊臣秀吉に臣従。関ヶ原で曖昧な態度をとり秋田へ減封されるも、佐竹氏の礎を築いた。
佐竹義斯さたけよしつな佐竹義斯は佐竹北家当主。常陸統一に貢献し、佐竹氏の方面軍総指揮官や有力国衆の指南役を務めた。豊臣秀吉からも認められたが、慶長4年に急死した。
佐竹義信さたけよしのぶ佐竹義信は佐竹北家の祖。佐竹氏の内乱「山入一揆」終結に貢献し、久米城主として宗家の軍事・経済を支えた。甥義篤の後見人として「部垂の乱」初期対応に尽力。佐竹氏の安定と発展に不可欠な存在。
佐竹義宣さたけよしのぶ常陸佐竹氏第19代当主。父・義重の基盤を継承し、小田原征伐で豊臣秀吉に臣従。常陸を統一し有力大名となる。関ヶ原で石田三成への「律儀」を貫き、出羽秋田へ減転封されるも、久保田藩の礎を築いた。
佐竹義憲さたけよしのり常陸佐竹氏北家の嫡男。岩城領統治で手腕を発揮するも、関ヶ原を目前に慶長4年、父・義斯の死の2日後に30歳で急死。その死は佐竹家中の路線対立による政治的暗殺の可能性が指摘される。
佐竹義久さたけよしひさ佐竹義久は佐竹東家当主。佐竹宗家を支え、豊臣秀吉から直接所領を与えられた。関ヶ原後の交渉役を務めるも急死。佐竹氏の秋田転封に影響。
佐武義昌さたけよしまさ佐武義昌は紀州雑賀衆の武将。鉄砲を駆使し、石山合戦で織田軍と戦う。雑賀の内紛を経て豊臣秀長、浅野幸長に仕え、広島藩士として家名を存続させた。
佐多忠増さたただます島津氏の分家・佐多氏の武将。耳川の戦いや肥後国矢崎城攻めなどで「太刀初」の武功を重ね、「武の模範」と称された。忍城攻めや朝鮮出兵にも従軍し、泰平の世では地頭を務め天寿を全うした。
佐田鎮綱さだしげつな佐田鎮綱は豊前宇都宮氏の庶流。大友宗麟に仕え、宇佐郡衆を率いて宇佐宮焼き討ちなどを指揮。耳川の戦い後も大友氏に忠誠を貫き、豊臣秀吉の九州平定で浪人となるも、細川忠興に仕え家名を存続させた。
佐田隆居さだたかおき佐田隆居は豊前の在地領主。大内氏から大友氏へ帰順し、武功と交渉で一族を存続。主家没落後も巧みに立ち回り、細川藩士として家名を残した。
佐田彦四郎さだひこしろう佐田彦四郎は毛利氏家臣・杉原盛重に仕えた忍者。上月城の戦いで活躍したとされるが、その実像は軍記物語『陰徳太平記』による脚色が多い。
佐々成政さっさなりまさ佐々成政は織田信長の重臣として越中を領する大名に出世。信長死後、豊臣秀吉と対立し「さらさら越え」伝説を残す。肥後転封後、国人一揆を招き切腹。忠義と悲劇の生涯。
撮所元常さつところもとつね穝所元常は備前龍ノ口城主。宇喜多直家の義弟とされたが、死因は毛利方による粛清説が有力。難攻不落の城主として大国の狭間で生き残りを図るも、悲劇的な最期を遂げた。
佐藤堅忠さとうかたただ美濃佐藤氏の武将。斎藤、織田、豊臣、徳川と主君を変え、普請奉行として伏見城や駿府城の築城に貢献。武功に加え土木技術に長けたテクノクラートとして激動の時代を生き抜き、大身旗本として家名を確立した。
佐藤季連さとうすえつら「佐藤季連」は蝦夷地の蠣崎氏家臣。一方、依頼の人物像に合致するのは陸奥国信夫郡の信夫佐藤氏。彼らは伊達氏の家臣として軍馬・鉄砲売買に関与し、奥州仕置で故地を失い伊達氏に従った。
佐藤為信さとうためのぶ佐藤為信は相馬家臣から伊達輝宗に寝返り、小斎城を献上。父の仇討ちと一族存続のため伊達家「一族」として活躍。葛西大崎一揆鎮圧戦で戦死。
佐藤好信さとうよしのぶ佐藤好信は岩城氏から相馬氏に仕え軍奉行となるが、讒言で失脚し病死。息子為信は伊達氏へ寝返り父の仇を討ち、清信は相馬氏に忠義を尽くし討死。
里見実堯さとみさねたか里見実堯は安房里見氏の武将。金谷城を拠点に水軍を掌握し、独自の勢力を持つ。甥の当主・義豊に粛清されたが、その死が息子義堯による「天文の内訌」での下剋上と、後期里見氏の勃興に繋がった。
里見忠義さとみただよし安房里見氏第十代にして最後の当主。江戸初期の幕府の権力闘争に巻き込まれて改易され、伯耆国倉吉へ流刑となり、再起を遂げられないまま病没した悲劇の大名。
里見義重さとみよししげ里見義重(梅王丸)は里見義弘の嫡男。叔父義頼との家督争いに敗れ出家するも、短期間ながら当主として統治。後に還俗し義康を補佐した説もある。
里見義堯さとみよしたか安房国の戦国大名で、里見氏の全盛期を築いた英主。房総半島を拠点に宿敵小田原北条氏と数十年にわたり死闘を繰り広げ、上杉謙信と同盟し対抗した。
里見義弘さとみよしひろ里見義弘は房総里見氏当主。北条氏と抗争し三船山合戦で勝利。上杉・武田と連携、房相一和で和睦。後継者問題で内乱を招き久留里城で病死。
里見義通さとみよしみち安房里見氏の支配を確立した実質制創業者。在地勢力を破り安房を統一。公方らと連携し関東の有力大名への道を開いた。禅僧から「賢使君」と称えられた傑出した武将。
里見義康さとみよしやす里見義康は房総里見氏最後の当主。小田原征伐で減封後、領国経営を近代化。関ヶ原で東軍につき加増されるも、若くして急逝し里見氏滅亡の遠因となった。
里見義頼さとみよしより房総里見氏当主。義弘の子か弟かで出自に諸説。天正の内乱を制し、房総を統一。後北条氏との和睦や豊臣秀吉への早期接近など、巧みな外交で里見氏の独立を保った。
真田大助さなだだいすけ真田大助(幸昌)は真田信繁の嫡男。九度山で育ち、大坂の陣で父と共に奮戦。道明寺で武功を立て、大坂城落城時に豊臣秀頼に殉じ自刃した。
真田信勝さなだのぶかつ真田昌幸の異母弟、信勝は兄信之の庇護で徳川旗本となる。大番組として将軍上洛に供奉するも、同僚との刃傷沙汰で家を断絶。戦国と江戸の価値観の狭間で散った。
真田信重さなだのぶしげ江戸初期の大名。信濃埴科藩主。真田信之の三男で、叔父幸村と同じ信繁の実名を持つ。泰平の世において大名として真田家を支え、自らの役割を全うした武将。
真田信尹さなだのぶただ真田信尹は真田幸隆の四男。武田信玄に仕え「黄八幡」を奪う武功を立てた。武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、大坂の陣では甥・幸村を説得。旗本真田家の祖となった。
真田信綱さなだのぶつな真田幸隆の嫡男。武田信玄・勝頼の二代に仕えた武田家臣。多くの戦功を挙げ武田二十四将に数えられる。長篠の戦いで弟の昌輝と共に奮戦するも討死した。
真田信政さなだのぶまさ真田信政は真田信之の次男で松代藩二代藩主。大坂の陣で毛利勝永に敗走するも、沼田藩主として治水・経済振興に尽力。急死が真田騒動の引き金となった。
真田信倍さなだのぶます真田信倍は真田信繁の忠臣。九度山から大坂まで付き従い、信繁から真田姓を授かる。大坂夏の陣で信繁と共に家康本陣へ決撃し討死。日本一の兵の伝説を紡いだ武士。
真田信之さなだのぶゆき真田信之は真田昌幸の長男。関ヶ原で東軍につき、父弟の助命に尽力。松代藩初代藩主として93歳まで長寿を保ち、真田家を近世大名として確立した。
真田信吉さなだのぶよし真田信吉は真田信之の長男で沼田藩主。大坂の陣で毛利勝永に敗走するも、川場用水開削など内政で功績。早世し、その死が真田家のお家騒動の遠因となった。
真田昌輝さなだまさてる真田昌輝は真田幸隆の次男で、武田信玄の百足衆に抜擢された驍将。兄・信綱と共に長篠の戦いで討死し、真田家が昌幸に継承される契機となった。
真田昌幸さなだまさゆき真田昌幸は「表裏比興の者」と評された智将。武田信玄に仕え、長篠の戦い後真田家を継承。二度の上田合戦で徳川軍を翻弄し、関ヶ原では家名存続のため東西両軍に子を配した。
真田守信さなだもりのぶ真田幸村の次男・守信は、父の死後、伊達・片倉家の庇護下で奥州白石に潜伏。幕府の追及をかわし、片倉姓で仙台藩士として生き、後に真田姓への復姓を許され、血脈を繋いだ。
真田幸隆さなだゆきたか真田幸隆は武田信玄に仕え、信濃攻略で活躍。「攻め弾正」の異名を持つ調略の達人。海野平合戦で故郷を失うも、武田家臣として旧領を回復し、真田氏繁栄の礎を築いた。
真田幸村さなだゆきむら真田信繁(幸村)は、父昌幸の薫陶を受け、上杉・豊臣の人質経験で成長。大坂の陣では真田丸を築き、家康本陣へ突撃。悲劇的英雄として「日本一の兵」と称された。
真田頼昌さなだよりまさ真田頼昌は、真田幸隆以前の真田氏の系譜に登場する人物だが、その実在は後世の系図にのみ見られ、一次史料では確認できない。真田綱吉が実在の人物として有力視される。
佐野豊綱さのとよつな佐野豊綱は戦国期下野の国衆。唐沢山城を拠点に古河公方に仕え、河越夜戦で敗北。北条・上杉の狭間で巧みな外交を展開したが、多功城合戦で戦死。天明鋳物を経済基盤とした。
佐野秀綱さのひでつな佐野秀綱は下野佐野氏12代当主。唐沢山城を大改築し、佐野氏の軍事力を強化。家訓を制定し、領国統治に尽力した。関東の動乱期に佐野氏の礎を築いた。
佐野弘綱さのひろつな小弓公方・足利義明の奏者を務めた武将。第一次国府台合戦で主君が討死すると遺児の頼純を保護して脱出し、傅役として養育。のちの喜連川家成立へと血脈を繋いだ忠臣。
佐野房綱さのふさつな下野佐野氏の武将。天徳寺宝衍(了伯)と号し、北条・上杉の狭間で佐野家の外交を担う。家督争いに敗れ故郷を追われるも、豊臣秀吉に仕え関東取次として活躍。小田原征伐で故郷を回復し、佐野家を再興した。
佐野昌綱さのまさつな佐野昌綱は下野唐沢山城主。難攻不落の唐沢山城を拠点に、上杉謙信の猛攻を凌ぎ、北条氏との間で巧みな外交を展開。佐野家の独立を維持した。
佐野宗綱さのむねつな下野国の戦国大名。唐沢山城主。後北条氏や上杉氏といった大国の狭間で、佐竹氏らと結んで領国の維持に努めるも、合戦で非業の死を遂げた悲劇の当主。
佐野泰綱さのやすつな下野佐野氏第13代当主。唐沢山城を本拠とし、連歌師・宗長を招くなど文化政策も展開。晩年、嫡男の戦死と重臣の謀反に見舞われるも乗り越え、佐野氏の戦国乱世を生き抜く礎を築いた。
佐牟田長堅さむたながかた肥後相良氏の家臣。薩摩・肥後国境の要衝・大畑城主を務め、文武両道の武将。島津義弘の誘降を拒否し、天正6年、島津氏の刺客により火縄銃で暗殺された悲運の忠臣。
猿飛佐助さるとびさすけ真田幸村に仕えた真田十勇士の筆頭とされる架空の忍者。大正時代の文庫小説で描かれた明朗快活で弱きを助けるヒーロー像は、日本の忍者の代表格となった。
猿渡信光さるわたりのぶみつ戦国時代の島津氏の猛将。肥後や肥前への勢力拡大に尽力し、沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げたが、豊臣軍との根白坂の戦いで討死した。
佐波隆秀さわたかひで石見国の国人。大内氏に仕え、大寧寺の変後毛利氏に帰属。尼子に内通した一族を誅伐し忠誠を示す。豊前三岳城攻めで敵将を討ち取る武功を挙げ、晩年は広島城留守居役を務めた。
寒川元隣さんがわもとちか戦国期の讃岐の国人領主。古代皇族の系統を引く名門。三好氏と長宗我部氏の二大勢力の狭間で翻弄されつつ存続を図ったが、最後は戸坂の戦いで戦死し一族の栄華を終えた。
三条実香さんじょうさねか三条実香は戦国期の太政大臣。娘を皇族に嫁がせ家格強化。嫡男・公頼は武家と婚姻戦略も大寧寺の変で非業の死。家は断絶危機も養子で存続。乱世を生き抜いた名門公卿の苦闘と戦略。
山本寺定長さんぽんじさだなが山本寺定長は上杉謙信の重臣で、景虎の傅役を務める。御館の乱で景虎方に加担し敗北、失踪。忠義に殉じた悲劇の武将だが、一族は弟(子)により存続。