最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:よ

「よ」に属する武将:34件

武将概要
横瀬景繁よこせかげしげ横瀬景繁は、岩松氏の家臣でありながら実権を掌握し、古河公方家の内紛で活躍。武蔵須賀合戦で戦死したとされるが、史料批判によりその死因は不明。横瀬氏の下剋上を完成させた重要な人物。
横瀬繁詮よこせしげあき由良成繁の息子。豊臣秀吉に仕えて渡瀬姓を名乗る。秀次の御附家老となり遠江横須賀城主を務めるが、後に秀次事件に連座して改易され、自害を命じられた悲劇の大名。
横瀬成繁よこせなりしげ横瀬成繁は関東で下剋上を成功させ、主君を追放し実権を掌握。金山城を築き、戦国大名の先駆けとなった。子孫は由良氏を名乗り独立を確立。
横瀬泰繁よこせやすしげ上野国の有力な国人領主。横瀬氏当主。金山城主。山内上杉氏に仕えて勢力を維持するも、のちに武田氏や後北条氏に属し、激動の時代を戦い抜いた宿将。
横田高松よこたたかとし武田信玄に仕えた横田高松は、近江出身の外様ながら足軽大将として活躍。戸石崩れでは殿を務め壮絶な討死。その忠義は横田家の繁栄の礎となった。
横岳資貞よこだけすけさだ横岳資貞は、少弐氏の忠臣として幼君を保護し再興に尽力。しかし田手畷の戦いで大内方に降り戦死。子の資誠は少弐方に残り、一族存続のため父子が異なる道を選んだ。
横岳資誠よこだけすけまさ横岳資誠は少弐氏庶流。父が裏切る中、少弐氏への忠節を貫き重臣となる。龍造寺隆信の台頭で主家滅亡後死去。横岳氏は孫の代に龍造寺氏に臣従し存続した。
横浜茂勝よこはましげかつ横浜茂勝は豊臣秀長家臣から直臣となり播磨1万7千石を領す。関ヶ原で西軍に加担し大津城攻めに参加するも主戦場に遅参、改易され消息不明に。子の正幸は藤堂家に仕え家名を再興した。
横山喜内よこやまきない蒲生氏の家臣。蒲生頼郷。初名は横山喜内。関ヶ原の戦いでは石田三成に仕え、東軍の織田有楽斎らの降伏勧告を一蹴し、壮絶な討死を遂げた勇将。
横山友隆よこやまともたか介良の土豪で長宗我部氏に臣従。八流の戦いで武功を挙げ、浦戸城番や長浜代官として軍事・民政で活躍。若宮八幡宮等の造営にも尽力した、武勇と内政に長けた驍将。
横山長隆よこやまながたか加賀八家筆頭横山家の礎を築いた横山長隆は、美濃出身の武将。前田利長に仕官後、賤ヶ岳の戦いで殿を務め壮絶な討死。その死は横山家の繁栄の礎となった。
横山長知よこやまながちか前田利長に仕えた加賀藩重臣。前田家謀反の嫌疑を掛けられた慶長の危機で、徳川家康と交渉して藩を救う。後に国家老となり、加賀八家筆頭の横山家の基礎を築いた。
吉江景資よしえかげすけ吉江景資は上杉謙信・景勝に仕え、旗本として活躍。御館の乱で景勝を支持し、魚津城の戦いで壮絶な最期を遂げた忠臣。一族は三男・長忠により存続した。
吉江宗信よしえむねのぶ越後の国人領主・吉江宗信は上杉謙信に仕え、御館の乱で景勝を支持。織田軍との越中防衛戦で奮戦し、魚津城で一族と共に壮絶な最期を遂げた忠臣。
吉岡定勝よしおかさだかつ因幡国の有力な国人領主。防己尾城主。第二次鳥取城合戦では豊臣秀吉軍を相手に籠城し、抜群の軍功を挙げて秀吉を悩ませたが、後に帰農した智将。
吉岡長増よしおかながます大友氏の古参家臣。別名吉岡宗歓。「豊後三老」の一人で大友宗麟を補佐し、内政や外交、軍事で活躍して大友家全盛期の確立に貢献した有能な宰相。
吉崎願知よしざきがんち「吉崎願知」は史実には存在しない架空の人物。本報告は、蓮如が吉崎御坊を拠点に本願寺教団を拡大し、加賀一向一揆を誘発した歴史的背景を解明。宗教と権力の相克を象徴する。
吉田重俊よしだしげとし吉田重俊は長宗我部家の智勇兼備の将。安芸国虎討伐で調略を成功させ、土佐統一に貢献。「大備後」と称され、幕末の吉田東洋の先祖にあたる。
吉田重政よしだしげまさ吉田政重は長宗我部氏の猛将。虎退治や百十五の首級を挙げた。関ヶ原・大坂の陣で奮戦後、武士を辞し医者「和斎」となる。幕末の吉田東洋の先祖。
吉田孝頼よしだたかより長宗我部氏の軍師・吉田孝頼は、国親の義弟として再興を支援。婚姻謀略で敵を翻弄し、「一領具足」考案説も。元親の土佐統一にも貢献した知勇兼備の将。
吉田政重よしだまさしげ長宗我部家の猛将・吉田政重は、朝鮮出兵で虎退治伝説を残す。主家没落後、医者「和斎」として生き、武士の矜持と新時代への適応を示した。
吉田康俊よしだやすとし吉田康俊は長宗我部氏の忠臣。父の死後家督を継ぎ、四国統一戦や戸次川の戦いで活躍。長宗我部家改易後も盛親に忠義を尽くし、大坂の陣で奮戦した。
吉原新兵衛よしはらしんべえ吉原新兵衛は土佐清水の有力者「漁父」新兵衛と判明。長宗我部氏の検地帳に市場管理者として記録され、海運専門家を束ねる地域の長だった。
吉弘鑑理よしひろあきただ吉弘鑑理は大友宗麟の重臣「豊後三老」の一人。肥前方分として肥前方面の軍事・政務を統括。多々良浜の戦いなどで活躍。立花宗茂・吉弘統幸の祖父。
吉弘鎮信よしひろしげのぶ吉弘鎮信は大友宗麟の重臣。博多経営や立花山城督を務め、多々良浜の戦いで活躍。耳川の戦いで壮絶な戦死を遂げ、大友家衰退の序章となる。
吉弘政宣よしひろまさのぶ立花氏の家臣。吉弘統幸の長男。関ヶ原の戦いで父が戦死し改易されるも、主君立花宗茂の復活に従い仕官。妖刀「蜘蛛切」の伝説でも知られる武士。
吉弘統幸よしひろむねゆき吉弘統幸は大友家最後の忠臣。父鎮信の死後家督を継ぎ、戸次川の戦いや文禄の役で活躍。関ヶ原で旧主大友義統に殉じ、石垣原で壮絶な討死を遂げた。
吉松光久よしまつみつひさ土佐国の有力な国人である本山氏の家臣。長宗我部元親の攻撃を受けて降伏するも、のちに元親の娘婿として一門衆に重用された謎に包まれた武将。
吉見広長よしみひろなが吉見広長は石見吉見氏最後の当主。毛利氏の改革に反発し出奔を繰り返す。徳川幕府への接近を図るも、輝元に追討され自害。嫡流は断絶した。
吉見広頼よしみひろより吉見広頼は石見吉見氏の当主。毛利氏に忠誠を尽くし武功を重ねるも、妻子の死や次男広長の出奔に苦悩。吉川広家の子を養子に迎え、吉見家の存続を図った。
吉見正頼よしみまさより吉見正頼は石見吉見氏当主。大寧寺の変で陶晴賢に反旗を翻し、三本松城で籠城。毛利元就の厳島勝利に貢献し、毛利家臣となる。津和野に鷺舞を導入。
吉見頼興よしみよりおき石見の吉見頼興は、兄の陶弘護殺害事件後、大内義興に忠誠を尽くし、船岡山合戦で戦功。大内家との姻戚関係を築き、吉見家を再興。晩年は尼子氏の脅威と戦い、その遺産は毛利元就の厳島の戦い勝利に繋がった。
世瀬蔵人よせくらんど世瀬蔵人は伊達政宗に仕えたとされる忍者集団「黒脛巾組」の指揮官の一人。人取橋の戦いでの活躍が伝えられるが、その実在性や「彦山流」との関連は後世の創作の可能性が高い。
依岡左京よりおかさきょう依岡左京進は土佐の戦国武将。一条家臣から長宗我部家臣へ転身し、武勇と知略で活躍。外交使者も務め、戸次川で戦死。左京と右京進は別人説が有力。