最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:ち

「ち」に属する武将:26件

武将概要
知久頼元ちくよりもと信濃伊那谷の国衆。諏訪氏の支族。武田信玄の侵攻に対し神之峰城で徹底抗戦。落城後に処刑されるも、一族は徳川氏を頼り旗本として再興を果たした。
千坂景親ちさかかげちか千坂景親は上杉謙信・景勝に仕えた智将。御館の乱で景勝を支持し、伏見留守居役として情報収集に尽力。関ヶ原後、本庄繁長と共に徳川家との和睦交渉を成功させ、上杉家の存続に貢献した。
千々石ミゲルちぢわミゲル千々石ミゲルは天正遣欧少年使節の一人。イエズス会脱会で「棄教者」。墓所調査で妻がキリシタン葬と判明。潜伏キリシタンとして信仰を続けた可能性が示唆され、歴史像が再評価。
千葉勝胤ちばかつたね千葉勝胤は、享徳の乱後の千葉氏当主。古河公方家の内紛では足利高基を支持。小弓公方には後北条氏との同盟を模索し、千葉氏存続の礎を築いた。
千葉邦胤ちばくにたね千葉邦胤は戦国末期の千葉氏当主。北条氏の婿として従属し、自立を模索するも、家臣に暗殺された。彼の死後、千葉氏は北条氏に完全に吸収され、大名家としての歴史を終えた。
千葉重胤ちばしげたね下総国守護千葉氏の当主。小田原征伐で後北条氏に味方したため改易されるも、のちに徳川家康に召し抱えられて家名を存続させた悲劇の当主。
千葉胤富ちばたねとみ千葉胤富は戦国時代の千葉氏当主。内紛と外圧で衰退する家を継ぎ、北条氏と同盟。上杉謙信を臼井城で撃退するなど活躍したが、北条氏への従属を深め、千葉氏の独立性を失わせた。
千葉親胤ちばちかたね千葉親胤は戦国期千葉氏の若き当主。幼くして家督を継ぎ、家臣の原氏や後北条氏の傀儡となる。反北条路線を試みるも、弘治3年(1557年)に家臣に暗殺された。その死は千葉氏の独立性喪失を決定づけた。
千葉常胤ちばつねたね千葉常胤は平安末期から鎌倉初期の武将。源頼朝にいち早く味方し、鎌倉幕府創設に貢献。相馬御厨を巡る争いを乗り越え、千葉氏を房総の覇者へと導いた。
千葉利胤ちばとしたね千葉利胤は戦国期の千葉氏当主。父昌胤の死後、わずか1年半で急逝。後北条氏との同盟を強化し、河越夜戦に参陣したが、その短い治世は家中の混乱と後継者問題を残した。
千葉昌胤ちばまさたね下総国の守護大名・千葉氏の当主。小弓公方の脅威に対し、後北条氏と同盟を結んで存亡の危機を回避。第一次国府台合戦で勝利して失地を回復した戦国武将。
千村良重ちむらよししげ千村良重は木曾氏の重臣。関ヶ原で徳川家康に仕え、東濃の戦いで活躍。幕府直臣の旗本(交代寄合)となり、尾張藩にも付属する「両属」の地位を確立した。
中条長秀ちゅうじょうながひで南北朝から室町初期の武将。「中条流平法」の創始者とされる剣豪で、足利義満の剣術指南を務める一方、幕府評定衆や歌人としても活躍した多才な文化人。
中尊寺豪盛ちゅうそんじごうせい中尊寺豪盛は史実ではなく、奥州藤原氏の栄華、武装寺院の歴史、弁慶伝説が融合した創作上の人物。戦国期の中尊寺は衰退し、武装していなかった。
中馬重方ちゅうまんしげかた中馬重方は島津義弘の「秘蔵の人」。朝鮮出兵で武功を挙げ、関ヶ原の退き口では馬印放棄や馬肉食で義弘の生還に貢献。薩摩武士の鑑とされた豪勇の将。
長寿院盛淳ちょうじゅいんもりあつ長寿院盛淳は畠山氏出身の僧侶。還俗後、島津義久・義弘に仕え、豊臣秀吉との交渉で島津家を救う。関ヶ原で義弘の影武者となり壮絶な最期を遂げた忠臣。
長善寺玉堂ちょうぜんじぎょくどう長善寺玉堂は戦国時代の日向国真幸院の僧。北原氏の菩提寺住持として、1562年の伊東氏侵攻による北原氏滅亡時に一軍を率いて戦ったと推測される。
長宗我部兼序ちょうそかべかねこと長宗我部兼序は細川政元を後ろ盾に土佐で権勢を振るうも、政元暗殺で孤立し岡豊城を攻められ滅亡。その死は諸説あるが、息子の国親が父の失敗を教訓に長宗我部家再興の礎を築いた。
長宗我部国親ちょうそかべくにちか長宗我部国親は土佐長宗我部氏の中興の祖。一条氏の庇護で再興し、武力と婚姻・養子政策で勢力拡大。一領具足制度を創設し、息子元親の四国統一の礎を築いた。
長宗我部親吉ちょうそかべちかよし長宗我部親吉は元親の叔父。長宗我部氏再興を支え、中富川の戦いで大将を務めるなど、四国統一に貢献。豊臣秀吉の四国征伐後、脇城開城後に謀殺された宿将。
長宗我部信親ちょうそかべのぶちか長宗我部信親は元親の嫡男。織田信長から偏諱を受け、文武両道に秀でた麒麟児と称された。戸次川の戦いで仙石秀久の無謀な作戦により討死。彼の死は長宗我部氏滅亡の遠因となった。
長宗我部元親ちょうそかべもとちか長宗我部元親は土佐の戦国大名。姫若子から鬼若子へ変貌し、一領具足を率いて四国を統一。豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減封。嫡男信親の死後、後継者問題に苦しみ死去。
長宗我部盛親ちょうそかべもりちか長宗我部盛親は元親の四男。信親の死後、後継者問題で家中を混乱させ家督を継ぐ。関ヶ原で戦えず改易。浪人生活を経て大坂の陣で豊臣方に奮戦するも敗れ、京都で処刑され長宗我部家は滅亡。
長宗我部康豊ちょうそかべやすとよ長宗我部康豊は元親の末子とされる伝説上の人物。大坂の陣で落ち延び、陰陽師を名乗り酒井忠利に仕え立身出世したとされる。史料的根拠は薄く、後世の創作と結論される。
長続連ちょうつぐつら長続連は能登畠山氏の重臣。畠山七人衆の一員として国政を主導。親織田派として上杉謙信と対立。七尾城籠城戦で奮戦するも、遊佐続光らの謀反により討死。長氏の悲劇的な終焉を飾った。
長連龍ちょうつらたつ戦国時代の武将。能登国人。遊佐らの裏切りで一族を惨殺され還俗。信長の支援で仇敵を討ち復讐を遂げた。後に前田利家に仕え、加賀藩最高位の加賀八家の祖となった。