最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:ほ
「ほ」に属する武将:130件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 穗井田元清 | 毛利元就の四男。備中穂井田家を継ぎ、武将として各地で武功を立てた。毛利輝元政権下では年寄筆頭として政務を担い、広島城築城を指揮。次男秀元が輝元の養子となり、長府毛利家の祖となった。 |
| 波々伯部光政 | 丹波の国人領主・波々伯部光政は、波多野氏の重臣として淀山城を築き、八上城の東方防衛を担った。光政の死後、後継者光吉は明智光秀の丹波攻めで武士の身分を失うが、豪農として一族を存続させた。 |
| 北条氏勝 | 北条氏勝は玉縄北条家の当主。小田原征伐で山中城を守るも落城。徳川家康に降伏し、旧北条領の無血開城に尽力。下総岩富藩主となり、徳川大名として家名を存続させた。 |
| 北条氏邦 | 北条氏康の子で藤田氏の養子。鉢形城を拠点に北関東の軍事・領国経営を担い、治水や産業を振興。小田原征伐で籠城の末に開城し、晩年は加賀で過ごした戦国武将。 |
| 北条氏繁 | 北条氏繁は玉縄北条家当主。父綱成の武勇と宗家の血を継ぎ、玉縄城主・岩槻城代として後北条氏の軍事・統治を支えた。対上杉・武田・里見戦で活躍し、北関東の防壁となるも病没。 |
| 北条氏重 | 北条氏重は徳川家康の甥で、玉縄北条家を継承。大坂の陣や日光東照宮普請に貢献し、6度の転封で石高を増やした。しかし男子に恵まれず、末期養子も不許可となり家は断絶。名奉行大岡忠相の外祖父にあたる。 |
| 北条氏尭 | 後北条氏一族の武将。北条氏綱の四男。兄の氏康を軍事や外交面で補佐し、武蔵国などでの勢力維持や上杉謙信との交渉に尽力した有能な一門衆。 |
| 北条氏綱 | 北条氏綱は伊勢宗瑞の嫡男。小田原に本拠を移し、「北条」に改姓。関東管領職を得て、河東の乱で今川氏から独立。虎の印判状で統治を確立し、五箇条の訓戒を遺した。 |
| 北条氏照 | 後北条氏の一族。北条氏康の三男。八王子城主。兄の氏政を補佐して軍事や外交の指揮を執り、小田原征伐では主戦派を貫いて開城後に切腹した有能な将。 |
| 北条氏時 | 北条氏時は後北条氏の祖・早雲の次男で、玉縄城初代城主。大永鎌倉合戦で里見軍を撃退し、後北条氏の南関東支配を確立した。若くして死去し、子が無かったため玉縄城は宗家直轄となった。 |
| 北条氏直 | 北条氏直は後北条氏五代当主。天正壬午の乱で勢力を拡大するも、豊臣秀吉の天下統一に抗しきれず小田原合戦で降伏。高野山へ追放後赦免され、豊臣大名として再起するも病没。 |
| 北条氏規 | 北条氏規は北条氏康の子。今川家の人質時代に徳川家康と親交を深め、後に北条氏の外交を担う。小田原征伐では韮山城で奮戦後開城。家康の助命で赦免され、河内狭山藩北条家の始祖となった。 |
| 北条氏房 | 北条氏房は氏政の四男で、岩付太田氏を継承。岩付城主として領国経営に尽力し、小田原征伐では小田原城に籠城。岩付城は落城し、氏房は名護屋で病死。多くの家臣が殉死した。 |
| 北条氏政 | 北条氏政は後北条氏四代当主。父氏康から家督を継ぎ、武田・上杉・織田・徳川と複雑な外交を展開。領国経営に長け、小田原城の籠城戦で秀吉に敗れ、切腹した。 |
| 北条氏盛 | 北条氏盛は後北条氏滅亡後、父氏規と徳川家康の絆を活かし、豊臣・徳川政権下で家名を再興。河内狭山藩初代藩主となり、激動の時代を乗り越え、北条家の命脈を近世へと繋いだ稀有な継承者。 |
| 北条氏康 | 北条氏康は後北条氏三代当主。「相模の獅子」と称され、河越夜戦で大勝し関東の覇権を確立。武田信玄、上杉謙信と渡り合い、検地や税制改革で領国を安定させ、後北条氏の最盛期を築いた。 |
| 北条幻庵 | 後北条氏初代早雲の子。一族の長老として歴代当主を補佐し、黒衣宰相と称された。箱根権現別当を務める傍ら諸芸に通じ、娘の嫁ぎ先への心得を記した幻庵覚書を著した。 |
| 北条早雲 | 北条早雲は、室町幕府の官僚出身で、今川家の内紛を調停し駿河へ下向。伊豆を平定し、小田原城を奪取。四公六民の税制や検地を実施し、革新的な領国経営で後北条氏百年の礎を築いた。享年64歳。 |
| 北条為昌 | 北条為昌は後北条氏の重要人物。氏綱の三男説と福島氏からの養子説がある。玉縄城主として東方戦略を担い、鶴岡八幡宮再建も指揮。若くして死去したが、その死後も領地は維持された。 |
| 北条綱成 | 今川家臣の子から北条一門に列した猛将。「地黄八幡」の旗を掲げ、義兄氏康を助けて関東の覇権を支えた。常に先頭で突撃し勝利を呼ぶ後北条氏の軍柱。知勇兼備の将。 |
| 北条綱高 | 高橋氏出身で北条早雲の義理の孫。北条氏綱の猶子となり北条姓を許される。江戸城や深大寺城の攻略で武功を挙げて江戸城主となり、赤備えの驍将と伝わる戦国武将。 |
| 北条時政 | 北条時政は鎌倉幕府初代執権。源頼朝の舅として幕府創設に貢献。頼朝死後、梶原景時や比企能員らを排除し権力を掌握。しかし、後妻牧の方との牧氏事件で実子義時・政子に追放された。 |
| 北条時宗 | 北条時宗は鎌倉幕府第8代執権。元寇を二度撃退し、得宗専制政治を確立。禅に帰依し精神的支柱とした。元寇後の恩賞問題は幕府衰退の遠因となるも、国難を乗り越えた英雄として記憶される。 |
| 宝蔵院胤栄 | 宝蔵院胤栄は、十文字鎌槍を創始した僧侶。武と仏の狭間で葛藤し、宮本武蔵との対決伝説も。宝蔵院流槍術は現代に継承され、漫画『バガボンド』でも描かれる。 |
| 法華経寺日親 | 法華経寺日親は、室町中期の高僧日親と戦国期国府台合戦、日蓮宗の武装化のイメージが融合した複合的歴史像。中山法華経寺は合戦の舞台となった。 |
| 法華津前延 | 法華津前延は伊予の海将。西園寺氏に仕え、大友・長宗我部氏と戦う。豊臣秀吉の四国征伐後、戸田勝隆の圧政で城を明け渡し、海で遭難死したとされる。 |
| 保科正俊 | 保科正俊は「槍弾正」と称された武田信玄の家臣。信濃の国人から武田、北条、徳川と主家を変え、鉾持除の戦いで智謀を発揮。保科正之の祖父として会津松平家の礎を築いた。 |
| 保科正直 | 武田滅亡後に徳川家康へ仕え、多劫姫を娶り大名となった信濃の国衆。北条氏に妻を処刑されつつも保科家を守り、のちの名君保科正之を世に送る家の礎を築いた。 |
| 保科正光 | 保科正光は武田氏の人質から徳川譜代大名となり、関ヶ原・大坂の陣で活躍。秀忠の庶子・正之を養育し、会津松平家の礎を築いた忠義の武将。 |
| 保科正之 | 保科正之は徳川秀忠の隠し子。保科正光の養子となり、三代将軍家光の信頼を得て幕政を主導。末期養子禁緩和、殉死禁止など文治政治を推進。会津家訓十五箇条を定め、会津藩の礎を築いた。 |
| 星野鎮種 | 筑後国の国人領主。大友氏没落後に島津氏に属す。秀吉の九州平定の際は殿として筑前高鳥居城に入り、立花宗茂の軍に包囲されて弟の鎮元らと玉砕した戦国武将。 |
| 細川昭元 | 細川昭元は京兆家嫡流として三好氏の人質となるも、織田信長に仕え丹波二郡を与えられ再興。中島城で反信長勢を足止めし、天下統一を助けた。 |
| 細川氏綱 | 細川氏綱は養父高国と実父尹賢の仇を晴らすため、三好長慶と結び晴元を打倒。管領就任は後世の神話だが、長慶と共同統治し、三好政権の正統性を支えた。 |
| 細川興秋 | 細川忠興の次男。大坂の陣で豊臣方に与し、公式には戦後自刃したとされるが、近年発見された書状から生存説が浮上。天草へ逃れて僧となり余生を送ったとされる。 |
| 細川興元 | 細川興元は藤孝の次男、忠興の弟。武勇に優れ、キリシタン「ジョアン」として信仰に生きる。兄と対立し出奔するも、徳川秀忠に抜擢され谷田部藩祖となる。 |
| 細川勝元 | 細川勝元は室町幕府管領。山名宗全と対立し応仁の乱を引き起こす。堺の貿易利権を背景に権勢を誇り、龍安寺創建など文化人としても活躍。乱の終結を見ず44歳で病死した。 |
| 細川定輔 | 細川定輔は長宗我部元親の腹心。土佐の名門細川氏の出身で、土佐統一から四国平定まで最前線で活躍。息子を戦場で失うなど犠牲を払い、長宗我部氏の覇業に貢献した。 |
| 細川真之 | 細川真之は、阿波細川家の最後の当主。父の死後、三好氏の傀儡となる。長宗我部元親と結び三好氏を滅ぼすが、その直後に謎の死を遂げた悲劇の武将。 |
| 細川澄元 | 細川澄元は室町幕府管領細川政元の養子。政元暗殺後、細川高国と「両細川の乱」で畿内の覇権を争うも敗北し阿波で病死。彼の生涯は戦国時代の幕開けを象徴し、三好氏台頭の契機となった。 |
| 細川澄之 | 細川澄之は九条家出身で細川政元の養子。政元の後継者問題で澄元・高国と対立。永正の錯乱で政元暗殺を主導するが、澄元・高国連合軍に敗れ自害。 |
| 細川高国 | 細川高国は室町幕府管領。政元の養子として権力を掌握し、将軍廃立も行うが、大内義興の帰国や家臣の離反で失脚。最期は裏切りで自害。文化人でもあった。 |
| 細川忠興 | 細川忠興は三英傑に仕え、激動の時代を生き抜いた武将。利休七哲の一人として文化にも通じ、妻ガラシャの悲劇を乗り越え細川家繁栄の礎を築いた。気性の激しさと洗練された文化人という二面性を持つ。 |
| 細川尹賢 | 戦国時代の細川氏の重臣。管領細川高国の側近。讒言により香西元盛を殺害させて高国政権崩壊の契機を作り、多くの謀略に深く関与したが、最後は非業の最期を遂げた。 |
| 細川忠隆 | 細川忠隆は忠興とガラシャの嫡男。関ヶ原で妻を庇い父と対立し廃嫡。長岡休無と号し京都で文化人として生き、父の復帰要請を固辞。その血脈は皇室へ。武家の論理を超え、自らの生き方を貫いた。 |
| 細川忠利 | 忠興の三男。江戸で人質を務め秀忠の信頼を得て家督を継承。肥後熊本藩主として手永制度や治水に尽力し藩政を確立した。島原の乱で武功を挙げ、宮本武蔵を招聘した名君。 |
| 細川晴貞 | 戦国時代の細川一門の武将。和泉半国守護。細川元常の次男として和泉を支配したが、江口の戦いでの敗戦を機に台頭する三好長慶に追われ、没落の途を辿った人物。 |
| 細川晴元 | 細川京兆家当主。高国を破り堺公方府を樹立し畿内に君臨。三好元長を謀殺するも後に長慶に敗れ没落した。旧体制を象徴する最後の覇者。摂津普門寺で波乱の生涯を閉じた。 |
| 細川藤賢 | 細川藤賢は典厩家当主として足利義輝・義昭に仕え、中島城で反信長勢と戦う。義昭の挙兵を諫めるも従い、幕府滅亡後は信長に赦され、豊臣秀吉に仕えた。 |
| 細川藤孝 | 細川藤孝(幽斎)は室町幕府の奉公衆から織田・豊臣・徳川に仕え、武将・政治家として活躍。和歌の大家として古今伝授を継承し、文化の断絶を防いだ文武両道の巨星。 |
| 細川政元 | 細川政元は応仁の乱後、明応の政変で将軍を廃し「半将軍」と称される権力を確立。修験道に傾倒し、三人の養子を巡る後継者問題で永正の錯乱を招き、家臣に暗殺された。 |
| 細川通薫 | 細川通薫は野州細川家当主として、父晴国の死後、備中で再起。毛利氏の客将となり、杉山城合戦などで武功を挙げる。長府細川家筆頭家老の祖となる。 |
| 細川通政 | 戦国時代の備中鴨山城主。野州細川氏当主。細川高国の弟。尼子氏の侵攻を受けて鴨山城を追放され、伊予へ逃れた後に再起を果たせないまま病没したとされる武将。 |
| 細川持隆 | 阿波守護。実名は氏之とされる。細川晴元の弟として本家を支え畿内の争乱に関与。のちに足利義栄の擁立を巡り守護代の三好実休と対立し、見性寺で殺害された。 |
| 細川元有 | 細川元有は和泉上守護家当主。異例の家督相続後、和泉の二重支配下で政元と畠山尚順の間で揺れ動く。明応4年に政元に反旗を翻すが失敗し帰順。明応9年、岸和田城で尚順に攻められ戦死。 |
| 細川元常 | 和泉上半国守護。細川晴元を支持して阿波へ逃れるなど、細川高国との抗争を戦い抜く。晴元政権成立後は復権を果たすが、三好長慶の台頭によって領国と権力を奪われた。 |
| 細川之持 | 阿波守護。下屋形・阿波細川家の当主。実弟・澄元の細川京兆家入嗣を軍事・財政面で強力に後援し、三好氏を率いて幾度も畿内へ出兵して宗家の権力闘争を支えた。 |
| 細川義春 | 細川義春は将軍義稙の側近として活躍したが、明応の政変で失脚し急死。彼の死は細川家の分裂と三好氏台頭の遠因となり、戦国乱世の深化を決定づけた悲劇の武将。 |
| 細野藤敦 | 細野藤敦は伊勢の国人。織田信長の伊勢侵攻に徹底抗戦し、安濃城で奮戦。後に豊臣秀吉に仕え、家司を務めるなど再起したが、関ヶ原で西軍に与し失領。 |
| 細野藤光 | 細野藤光は伊勢の国人。長野工藤氏の庶流で、安濃城を築城し勢力拡大を図った。織田信長の伊勢侵攻に際し、息子たちは抵抗と順応の異なる道を選んだ。 |
| 堀田作兵衛 | 真田昌幸や真田信繁の家臣。信繁の側室の兄。真田家の領国経営や外交で活動し、大坂の陣では信繁に従い大坂城に籠城して壮絶な討死を遂げた。 |
| 堀田正吉 | 織田や小早川を経て徳川の旗本となる。春日局の縁で嫡男・正盛が老中へ異例の出世を遂げるが、息子との身分逆転を憂い、足手まといにならぬよう自害した悲劇の父。 |
| 堀田盛重 | 豊臣氏の家臣で大坂七手組頭の一人。関ヶ原の戦いでは東軍に内通したが、大坂の陣では豊臣方として参戦。天王寺の戦いで敗北後、城内の石垣の上で自害し殉死した。 |
| 保土原行藤 | 保土原行藤は二階堂氏の重臣。伊達政宗に内応し、須賀川城攻防戦で活躍。智勇と風雅を兼ね備え、伊達家臣として重用され、激動の時代に一族を存続させた。 |
| 堀内氏久 | 安土桃山・江戸時代の武将。大坂の陣で豊臣方として籠城するが、落城時に千姫を救出した功で徳川家康に許され、直参旗本となり没落した堀内一族再興の礎を築いた。 |
| 堀内氏善 | 紀伊国新宮城主。強大な熊野水軍を率いて一帯に勢力を誇り、織田信長や豊臣秀吉に臣従。小田原征伐などで軍功を挙げるも関ヶ原で改易された。 |
| 堀江景忠 | 朝倉氏の有力な家臣でありながら一向一揆と結び謀叛を起こし、後に織田信長へ内応するも粛清された、激動の戦国期を生き抜いた越前国の国衆。 |
| 堀江頼忠 | 戦国・江戸初期の武将。里見氏の大家老。内政や行政に秀でた能吏。里見氏改易の際には城を明け渡し、主君の配流先である伯耆国倉吉まで付き従い没した。 |
| 堀尾忠氏 | 安土桃山・江戸時代初期の大名。出雲松江藩初代藩主。関ヶ原の戦功で出雲など二十四万石を得る。松江城への本拠移転と城下町建設を計画したが、急死した。 |
| 堀尾忠晴 | 堀尾忠晴は出雲松江藩二代藩主。幼くして家督を継ぎ、松江城を完成。大坂の陣で武功を挙げるも、後継者問題で家は改易。その生涯は激動の時代を映す。 |
| 堀尾吉晴 | 豊臣秀吉の最古参の家臣。三中老の一人。「仏の茂助」と称された温厚かつ武勇に優れた武将で、のちに出雲国松江藩の初代藩主の祖となった。 |
| 堀越氏延 | 堀越氏延は今川一門の武将。父貞基が花倉の乱で敗死後、氏延は今川氏真に反旗を翻し討伐された。しかし、堀越氏の嫡流は江戸時代に旗本として存続した。 |
| 堀忠俊 | 戦国時代から江戸初期の武将。堀秀治の嫡男で越後福島藩主。家中の内紛である越後騒動を収めることができず、徳川家康によって改易された。 |
| 堀親良 | 安土桃山・江戸初期の大名。堀秀政の次男。兄秀治の越後移封に伴い蔵王堂城主となるが、堀直政と対立し出奔。後に徳川家康に仕えて下野烏山藩主となり家名を残した。 |
| 堀利重 | 戦国から江戸初期の武将。堀秀政の弟。一度は改易され浪人となるも、大坂の陣での軍功により復活し、のちに徳川譜代大名として復帰を果たした武将。 |
| 堀直清(堀直政の子) | 堀直清は堀直政の長男。越後三条城主として堀家執政を務めたが、弟直寄との対立と浄土宗僧侶処刑事件により、主家堀忠俊と共に改易された。改易後の消息は不明。 |
| 堀直重 | 徳川秀忠の側近。関ヶ原や大坂の陣で軍功を挙げ須坂藩を立藩。本家改易の難を免れ家系を存続させたが、領地の下総香取にて三十三歳の若さで謎の急死を遂げた。 |
| 堀直次 | 越後福嶋騒動により改易された堀直清と混同されることが多いが、実際には堀直寄の嫡男として将軍家から嘱望されながらも早世した村上藩の世子。 |
| 堀直政 | 戦国・江戸初期の武将。堀秀政・秀治父子を支え、越後領国支配を主導。「天下の三陪臣」と称された。自身の系統の隆盛が、皮肉にも主家改易を招く遠因となった。 |
| 堀直寄 | 堀直寄は豊臣秀吉と徳川家康に才覚を認められ、堀宗家改易後も独立大名として活躍。大坂の陣で武功を挙げ、越後村上藩主として善政を敷いた。 |
| 堀秀治 | 堀秀治は父の急逝で若くして越後国主となり、家老・直政の支えで激動の時代を生き抜く。関ヶ原では東軍に貢献するも、31歳で早逝し堀家は改易された。 |
| 堀秀政 | 堀秀政は信長・秀吉に仕え「名人久太郎」と称された武将。武勇・政務に秀で、北ノ庄18万石を領す。小田原征伐中に38歳で病死、秀吉は関東を与えようとした逸話が残る。 |
| 堀秀村 | 近江国鎌刃城主。浅井長政から織田信長へ寝返り活躍。後に改易されるも、豊臣秀吉らに召し出され紀州一揆鎮圧などで再起を果たした、境目の歴史を体現する武将。 |
| 本願寺円如 | 本願寺円如は蓮如の孫で、教団改革と『五帖御文』編纂で中央集権化を推進。31歳で急逝し、その死が蓮淳の台頭と内紛を招き、本願寺の歴史を大きく変えた。 |
| 本願寺教如 | 石山合戦で信長に抗戦し父顕如から義絶される。法主継ぐも秀吉に退隠させられたが、家康の寄進で東本願寺を創立。西本願寺との東西分立を成した真宗大谷派の祖。 |
| 本願寺顕如 | 本願寺第11世宗主顕如は、織田信長と石山合戦で10年戦い、毛利氏らと同盟。最終的に和睦し教団存続を図るも、長男教如との対立が後の東西本願寺分裂の遠因となった。 |
| 本願寺証如 | 戦国時代の浄土真宗本願寺教団の第十世宗主。蓮如の曾孫。一向一揆の武力を用いつつも、戦国諸大名との外交や教団の統制に努めた優れた指導者。 |
| 本願寺実如 | 浄土真宗本願寺第九世法主。中興の祖である父・蓮如の巨大な教団を継承。『一門一家の制』や『三法令』の制定により統治と教学を標準化し、教団の制度的礎を築いた。 |
| 本願寺准如 | 豊臣秀吉の裁定で本願寺第十二世宗主を継承し、のちに本願寺の東西分裂という危機を乗り越え、西本願寺を率いて近世巨大教団の組織や伽藍の基礎を築いた僧侶。 |
| 本願寺蓮如 | 衰退していた本願寺の第八世法主を継ぎ、平易な『御文』の執筆や『講』の組織化によって教団を中興し、日本最大の宗教勢力へと発展させた僧侶。 |
| 北郷忠相 | 北郷忠相は日向の国人領主。伊東氏の圧迫で滅亡寸前だった北郷氏を、智略と外交で再興。都城盆地を統一し、島津宗家との関係を再構築して「都城中興の祖」と称された。 |
| 北郷時久 | 北郷時久は島津氏の一門で日向都城を本拠とした。肝付氏との戦いや島津宗家の九州統一に貢献し、北郷氏の最大版図を築く。豊臣秀吉の九州平定後、都城を追われ祁答院へ移封。 |
| 北郷三久 | 北郷三久は島津氏の一門。兄たちの死で家督代となり、朝鮮出兵や庄内の乱で武功を挙げた。乱後、故地都城に戻らず平佐北郷家を創設。その生涯は一族の悲願と自立の物語である。 |
| 本証寺蓮秀 | 本証寺蓮秀と混同されるが実態は空誓であり、三河一向一揆の総大将として徳川家康と対峙し、のちに本證寺の再興と存続を現実的な政治手腕で成し遂げた僧侶。 |
| 本庄実乃 | 本庄実乃は上杉謙信の傅役。才能を開花させ初陣を演出、政権基盤を築いた政治家。忠臣として尽くしたが、子孫は御館の乱で悲劇的な末路を辿る。 |
| 本庄繁長 | 越後揚北衆の猛将。13歳で仇を討ち当主となる。上杉謙信に反逆し籠城で抗した。のち景勝に仕えて最上軍を破り庄内を制圧、松川で伊達政宗を撃退した「武人八幡」。 |
| 本荘右述 | 大友氏の古参家臣。本荘繁栄の子。加判衆の一人として外交や軍事の全般で活躍し、中央の幕府交渉や対大内氏の筑後戦線で重きをなした大友家の筆頭宿老。 |
| 本城常光 | 本城常光は尼子家臣で石見銀山山吹城主。毛利元就の大軍を度々撃退し「鬼」と恐れられた。降伏後、元就にその武勇を恐れられ一族もろとも誅殺された。 |
| 本庄時長 | 本庄時長は越後揚北衆の有力者。長尾為景の下剋上に対し「義」を掲げ反乱を起こすも、永正の乱の最中に戦死。その抵抗精神は孫の繁長に受け継がれた。 |
| 本庄房長 | 越後国の有力な国人領主。揚北衆の本庄氏当主。長尾為景の覇権拡大に対して自立を求め対抗するも、のちに一族の裏切りで陣中にて憤死した城主。 |
| 本庄義勝 | 本庄義勝は本庄繁長の次男。大宝寺氏の養子となり庄内領主となるも、一揆扇動の嫌疑で改易され流浪。後に上杉家臣として復帰し、本庄家を継承。 |
| 本泉寺善従 | 実在は確認できないが、如乗が開基した一向宗本泉寺に所属し、実在の指導者である蓮悟のように加賀一向一揆の最盛期を牽引したと伝えられる加賀能登の僧侶。 |
| 本泉寺蓮悟 | 本泉寺蓮悟は蓮如の七男。加賀一向一揆を率い「百姓の持ちたる国」を築くも、九頭竜川の戦いで敗北。兄・蓮淳との対立で破門され、流浪の末に死去。 |
| 本多重次 | 本多重次は徳川家康の家臣で、「鬼作左」の異名を持つ。三河三奉行の一人として内政手腕を発揮し、「一筆啓上」の手紙でも知られる。秀吉との確執で不遇の晩年を送った。 |
| 本多忠勝 | 徳川四天王の一人に数えられる戦国大名。生涯で57回の合戦に臨み無傷だったと伝わる猛将。名槍『蜻蛉切』や鹿角の兜をまとい、家康への絶対の忠誠を貫いた。 |
| 本多忠純 | 本多正信の三男で初代榎本藩主。大坂夏の陣で首級二百余を挙げる大功を立てるが、気性が荒く家臣を手討ちにすることが多く、栗橋で家臣に暗殺された戦国武将。 |
| 本多忠高 | 戦国時代の武将。本多忠勝の父。松平清康・広忠に仕える。安祥城攻略戦で先鋒大将として本丸へ肉薄するも討死。彼の忠死と引き換えの城将捕縛が家康の帰還に繋がった。 |
| 本田薫親 | 本田薫親は大隅守護代。島津氏の内紛に乗じ独立を画策。近衛家と結び嫡男に官位を得させるも、島津貴久に敗れ日向へ敗走。嫡流は途絶えたが、血脈は都城島津家へ。 |
| 本多忠朝 | 本多忠勝の次男。上総大多喜藩主。勇猛果敢な武将で大坂の陣に従軍したが、冬の陣での失態を返上すべく夏の陣で討死し「酒封じの神」となった。 |
| 本多忠政 | 本多忠政は本多忠勝の長男。関ヶ原、大坂の陣で活躍し、桑名藩主、姫路藩主を歴任。徳川家との姻戚関係を強化し、幕府の基盤確立に貢献した。 |
| 本多利朝 | 戦国から江戸初期の武将。本多利久の長男。譜代の本多忠勝一族とは異なり、豊臣政権下で高取城主となり、後に大和高取藩の初代藩主となった。 |
| 本多利久 | 戦国・安土桃山時代の武将。豊臣秀長に仕え大和高取城主となる。同城を日本三大山城の一つに数えられる近世城郭へ大改修し、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。 |
| 本多政重 | 本多正信の次男。徳川家を出奔後、宇喜多氏や直江兼続の婿養子など多くの主君を渡り歩く。後に前田家に帰参し、加賀藩主を支えて加賀本多家の祖となった戦国武将。 |
| 本多正純 | 本多正純は家康・秀忠に仕え幕政中枢で権勢を誇る。大坂の陣で和平交渉を主導するも、秀忠との関係悪化や傲慢さで改易され配流地で没した。 |
| 本多政武 | 江戸初期の武将。大和高取藩二代藩主。大坂夏の陣で活躍し、大坂城修築や高野山大塔造営の奉行を務めた。囲碁の名人とも称されるが、嗣子なく改易された。 |
| 本多政朝 | 江戸初期の武将。本多忠政の二男。徳川四天王本多忠勝の孫。予期せぬ家督継承により本多宗家を継ぎ、姫路藩主として藩政の安定化に努めた有能な大名。 |
| 本多正信 | 三河一向一揆で徳川家康に敵対するが、帰参後は卓越した知謀で家康の天下取りを支え、江戸幕府の創設と二代将軍徳川秀忠の補佐に大きく貢献した戦国武将。 |
| 本多康重 | 戦国から江戸初期の武将。本多豊後守家の初代。徳川家康の宿老として各地の合戦で活躍し、のちに三河岡崎藩初代藩主となり幕政の基盤を支えた重臣。 |
| 本多康俊 | 酒井忠次の次男で徳川家康の従兄弟。伊奈本多家の養子となり、関ヶ原の戦いを経て西尾藩主となる。大坂の陣での活躍により近江膳所藩の初代藩主となった戦国武将。 |
| 本多康紀 | 江戸初期の武将・岡崎藩主。大坂冬の陣後に大坂城の堀埋め立て奉行を務めて豊臣家を無力化し、家康生誕の地である岡崎城の天守再建を果たした忠実な徳川譜代大名。 |
| 本堂茂親 | 出羽の武将・本堂茂親は、関ヶ原で東軍につき、徳川幕府の交代寄合旗本として各地の城番を歴任。戦国の動乱を生き抜き、志筑本堂家の礎を築いた。 |
| 本堂忠親 | 出羽の国人領主。三代続く当主の戦死という危機に家督を継ぐ。小田原参陣で秀吉から本領安堵を得、豊臣政権下で軍功を重ねて後世の交代寄合旗本への礎を築いた伊勢守。 |
| 本堂朝親 | 本堂朝親は出羽の国人領主で、姉婿を助けるため津軽へ遠征。浪岡城攻防戦で津軽為信と戦い、遠く故郷を離れた地で命を落とした悲劇の武将です。 |
| 本堂頼親 | 出羽国仙北地方の領主。戸沢氏や小野寺氏の狭間で苦闘し、金沢城主の小野寺道秀と野口で戦って四十四歳で討死した。当主が三代にわたり戦死した一族の悲劇の戦国武将。 |
| 本福寺賢誓 | 教団内の権力闘争による度重なる弾圧や破門の苦難の中、その歩みを『本福寺跡書』などの記録として後世に遺した近江堅田本福寺の第六世住持。 |
| 本間作右衛門 | 史料上の実在は未確認だが、安東氏支配下の秋田湊で日本海や北方との交易を担い、酒田本間家などのイメージと融合して伝承されたとされる伝説上の戦国商人。 |
| 本間高貞 | 南佐渡の羽茂城主。惣無事令違反を口実に侵攻した上杉景勝に抗戦するも落城。海路逃亡中に嵐で越後に漂着して捕縛され、佐渡国府川で斬首された本間氏最後の島主。 |
| 本間高統 | 本間高統は佐渡の独立を守ろうとした最後の領主。上杉景勝の侵攻と島内の内乱により、河原田城で自刃。佐渡本間氏は滅亡したが、一部の血脈は生き延びた。 |
| 本間高信 | 本間高信は佐渡羽茂城主。永正の乱で長尾為景を匿い、その再起を支援。越後国内に所領を得て羽茂本間氏を隆盛させたが、子孫は上杉景勝に滅ぼされた。 |
| 本間憲泰 | 衰退する佐渡本間氏惣領家を率い、上杉景勝の佐渡攻めで上杉方に恭順することで家名の存続を図り、のちに越後へ移され上杉家臣として生涯を終えた戦国武将。 |
| 本蓮寺日典 | 備前国本蓮寺の第二世住持。実体は日澄。地元の有力領主・石原氏の出身で本堂を再建。戦国大名松田氏の要請を受け、門徒『備前法華』を動員して軍事面でも貢献。 |