最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:せ

「せ」に属する武将:27件

武将概要
誓願寺賢誓せいがんじけんせい誓願寺賢誓は近江の浄土真宗寺院・箕浦誓願寺に属し、湖北十か寺の一員として織田信長に抵抗。その実像は不明だが、本願寺教団の強固な組織力と信仰に基づく抵抗の象徴とされる。
関一政せきかずまさ関一政は伊勢関氏出身の武将。織田・豊臣・徳川三代に仕え、蒲生氏郷の与力として活躍。関ヶ原で東軍に寝返り伊勢亀山藩主となるも、家中内紛で改易された。
関口氏広せきぐちうじひろ今川氏の重臣。今川義元の義弟であり、徳川家康の正室・築山殿の実父。家康の今川離反に伴い主君今川氏真から忠誠を疑われ、自害した悲劇の将。
関種盛せきたねもり伊勢関氏は亀山城主として戦国乱世を生き抜き、織田・豊臣に従属。関ヶ原で東軍に寝返り大名となるも、家中騒動で改易。旗本として存続した。
世鬼政任せきまさとう世鬼政任は毛利氏に仕えた忍者集団「世鬼衆」の棟梁。厳島の戦いなどで諜報・謀略活動に従事。系譜上の「政任」と物語上の「政時」の二つの名が存在する。幕末には「世木騎」として活躍。
世鬼政時せきまさとき安芸の忍者衆「世鬼衆」の頭領。謀神と呼ばれた毛利元就の覇業を陰で支え、各地へ配下を派遣して諜報活動や焼き討ち等の特殊工作を指揮した。
関盛雄せきもりお関盛雄は伊勢亀山城主。祖父盛貞の遺産を継ぎ、北畠・長野氏の抗争下で巧みな外交により関氏の独立を維持。六角氏との関係を強化し、次代に繋いだ。
関盛信せきもりのぶ関盛信は伊勢亀山城主。織田信長に抵抗後臣従するも信孝と対立し幽閉。本能寺の変後秀吉に仕え、蒲生氏郷の与力となる。激動の時代を生き抜いた国人領主。
関盛吉せきもりよし関盛吉は戦国末期から江戸初期の武将。柴田勝豊、蒲生氏郷に仕え、猪苗代城代を務める。兄一政の改易で浪人となるも、土井利勝の食客となり、関家の血脈を旗本として存続させた。
雪舟等楊せっしゅうとうよう雪舟等楊は、水墨画の巨匠。明での学びと独自の画風を融合させ、国宝6件を含む傑作を生み出した。その画業は日本美術史に革新をもたらした。
摂津晴門せっつはるかど摂津晴門は室町幕府政所執事。将軍義輝・義昭に仕え、将軍親政を支えるも、三好氏や織田信長との対立で失脚。幕府滅亡と共に消息不明となった最後の能吏。
瀬名氏貞せなうじさだ今川家の重臣、御一家衆。花倉の乱で今川義元を支持し瀬名家の地位を確立。次男の関口氏純の娘が築山殿となり、徳川家康の義祖父にあたる。
瀬名氏俊せなうじとし瀬名氏俊は今川氏の重臣。桶狭間で今川本隊先発隊として活躍。桶狭間を生き延び、築山殿の叔父。今川氏滅亡後、子孫は徳川旗本として存続。
瀬名一秀せなかずひで瀬名一秀は今川氏の重臣で、今川義忠の死後、幼い氏親を擁立し今川家の危機を救った。その功績で瀬名郷を拝領し瀬名氏を創始。彼の曾孫が徳川家康の正室となり、瀬名氏は徳川旗本として存続した。
世良田元信せらだもとのぶ世良田元信は徳川家康の影武者説に登場するが、史料には存在しない。明治期に提唱され、学術的には否定されるも、隆慶一郎の小説で広く知られ、物語として愛される存在。
仙石権兵衛せんごくごんべえ仙石権兵衛秀久は豊臣秀吉の寵臣。淡路平定で大名となるも、九州征伐戸次川の戦いで大敗し改易。小田原征伐で武功を挙げ復帰。関ヶ原で徳川秀忠の信頼を得て、信濃小諸藩主として仙石家の礎を築いた。
仙石忠政せんごくただまさ仙石忠政は仙石秀久の三男。関ヶ原で徳川秀忠の信頼を得て、小諸藩主となる。父の苛政で荒廃した領地を再建し、石高制導入や上田城再建で近世大名としての藩政を確立。上田藩の礎を築いた。
仙石秀範せんごくひでのり仙石秀久の次男。関ヶ原で西軍に与し廃嫡される。京都で寺子屋を開き雌伏したが、大坂の陣で豊臣方に殉じ大名衆として奮戦、落城後に消息不明となった戦国武将。
専称寺秀意せんしょうてらしゅうい出羽真宗の古刹専称寺の僧侶とされるが、一次史料で実在が確認されない人物。駒姫の菩提寺として同寺を山形に移した最上義光との関係など、専称寺の歴史が語られる。
千徳政氏せんとくまさうじ千徳政氏は南部氏から離反し津軽為信と結ぶも、為信の謀略で浅瀬石城が落城し滅亡。南部氏の内紛に乗じ独立を図るも、盟友に裏切られ悲劇的な最期を遂げた国人領主。
千利休せんのりきゅう千利休は堺の商人出身で、織田信長・豊臣秀吉に仕え「わび茶」を大成した茶聖。茶室や道具に革新をもたらし、文化と政治に影響を与えた。秀吉との対立で切腹したが、その美意識は日本文化に深く根付いた。
千本資俊せんぼんすけとし下野那須氏の重臣。那須七党の一員。天文20年、主君・那須高資を千本城に誘い込み謀殺。その後も那須家臣として生き延びるも、天正13年、政敵・大関高増の謀略により息子と共に太平寺で謀殺された梟雄。
千本資政せんぼんすけまさ下野那須氏の有力家臣・千本資俊の嫡男。岳父・大関高増の娘と離縁したことで高増の怒りを買い、父・資俊と共に太平寺で謀殺された。その死は、父の罪と那須家中の権力闘争の犠牲となった悲劇的な最期であった。
銭屋宗訥ぜにやそうとつ銭屋宗訥は堺の豪商で茶人。武野紹鴎・千利休に師事し、名物「四十石」を所持。秀吉の茶会に招かれ、その子孫は実業と茶道に分化し活躍した。
善教寺了珍ぜんきょうじりょうちん戦国・安土桃山時代の安芸国の僧侶。浄土真宗善教寺の第六代住職。毛利氏や本願寺の要請に応じ、信仰で結束した門徒を率いて石山合戦などの戦いに協力した。
善光寺公恵ぜんこうじきみえ善光寺公恵は、戦国時代の善光寺別当栗田氏(永寿・寛久親子)の総称。彼らは僧侶でありながら武将として川中島の戦いに参加し、信仰と権力の狭間で活躍した。
善通寺了運ぜんつうじりょううん善通寺了運は史料未確認。善通寺は永禄の兵火で焼失し、記録も失われた可能性が高い。長宗我部元親の侵攻も経験。了運は戦国期の善通寺で、兵火を乗り越え信仰を繋いだ無数の僧侶の象徴。