最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:も

「も」に属する武将:51件

武将概要
毛利興元もうりおきもと毛利興元は元就の兄。8歳で家督を継ぎ、大内氏に従い上洛。安芸国人一揆を結成し地域の安定を図るも25歳で病死。彼の死が元就の台頭を促した。
毛利勝家もうりかついえ戦国時代から江戸初期の武将。毛利勝永の嫡男。配流先の土佐から父と脱出し大坂城に入る。夏の陣で十五歳ながら武功を挙げたが、落城時に父らと共に自刃した。
毛利勝永もうりかつなが毛利勝永は豊臣譜代の将。関ヶ原で西軍に与し改易されるも、大坂の陣で豊臣方として奮戦。天王寺・岡山で家康本陣に迫る猛攻を見せ、秀頼を介錯後自刃した。
毛利勝信もうりかつのぶ毛利勝信は秀吉の譜代家臣で豊前小倉城主。朝鮮出兵で活躍するも関ヶ原で西軍につき改易。土佐へ配流されたが厚遇され、子・勝永は大阪の陣で活躍。
毛利新助もうりしんすけ毛利新助は織田信長の家臣。桶狭間で今川義元の首級を挙げ、黒母衣衆に抜擢。武官・吏僚として活躍し、本能寺の変で信忠に殉じ討死。家系は途絶えた。
毛利高政もうりたかまさ毛利高政は秀吉子飼いの家臣で佐伯藩初代藩主。毛利姓を賜り、武功と吏僚の才で活躍。関ヶ原で西軍も改易免れ、藩政を確立。砲術の大家でもあった。
毛利隆元もうりたかもと毛利隆元は毛利元就の嫡男。父の隠居後も実権は元就が握り、内政・兵站で毛利家を支えた。温厚な人柄で、生涯側室を持たなかった。急死後、毒殺説が浮上。享年41歳。
毛利輝元もうりてるもと戦国から江戸初期の戦国大名。毛利元就の孫。西国の雄として覇を唱え五大老に就任。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるも敗北し、防長二国に減封。
毛利就隆もうりなりたか江戸初期の大名。周防下松藩の初代藩主。毛利輝元の二男。関ヶ原の戦い後の毛利一族再編に伴い分家し、藩の統治や産業基盤の確立に大きく尽力した。
毛利秀就もうりひでなり毛利秀就は長州藩初代藩主。関ヶ原で毛利家が減封される中、幼くして家督を継ぎ、父輝元の後見を受けつつ藩の財政再建と体制整備に尽力。秀元との対立を乗り越え、長州藩の礎を築いた。
毛利秀元もうりひでもと毛利秀元は元就の孫。輝元の養子となり朝鮮出兵で武功。関ヶ原で「空弁当」の汚名も、戦後佐伯藩主となり藩政確立。家光の御咄衆となるなど乱世を生き抜いた。
毛利秀頼もうりひでより毛利秀頼は斯波氏の貴種。信長・秀吉に仕え、信濃飯田10万石の大名となる。文禄の役中に病死し、遺領は娘婿が継承。息子秀秋は大坂夏の陣で討死し、尾張毛利氏は断絶した。
毛利弘元もうりひろもと毛利弘元は元就の父。明応の政変で大内・幕府の板挟みとなり、33歳で隠居。二元統治で家を存続させ、39歳で心労死。彼の苦悩は元就の成功の礎となった。
毛利元就もうりもとなり毛利元就は安芸国の国人領主から中国地方の覇者となった智将。厳島の戦い、吉田郡山城の戦いなどで勝利。三本の矢の教えで知られる。享年75。
毛利元康もうりもとやす毛利元康は、武勇と教養を兼ね備え、秀吉に「英雄豪傑」と称された。関ヶ原では大津城を攻略したが、本戦に間に合わず西軍敗北の一因に。厚狭毛利家の祖。
最上家親もがみいえちか最上義光の次男で山形藩二代藩主。徳川家康に仕え寵愛される。大坂の陣で豊臣派の弟を誅殺して近世大名化を図るも、江戸で急死。死後のお家騒動により改易を招いた。
最上義光もがみよしあき最上義光は出羽の驍将。「羽州の狐」と称され、謀略と武勇で領土を拡大。関ヶ原で東軍につき上杉軍を撃退、57万石の大大名に。領国経営にも手腕を発揮した。
最上義淳もがみよしあつ最上義淳は羽州探題最上氏8代当主。戦国初期の不安定な時代に家督を継ぎ、中野氏を次男に継承させることで、後の最上義光の登場に繋がる血脈を残した。
最上義定もがみよしさだ最上義定は羽州探題最上家9代当主。伊達稙宗の侵攻で大敗し、伊達氏の傀儡となる。嫡子不在のまま死去し、伊達氏による最上家乗っ取りを招いた。
最上義忠もがみよしただ戦国から江戸初期の武将。最上義光の四男。山野辺城主を務めたが最上騒動で改易、流刑となる。のちに水戸徳川家に一万石の家老として仕え、徳川光圀の傅役を務めた。
最上義時もがみよしとき最上義守の次男で最上義光の弟とされる人物。家督争いで兄に敗れ中野城で自害したとされるが、一次史料に記述がなく実在が疑われる、謎に包まれた戦国武将。
最上義俊もがみよしとし最上義俊は祖父の57万石を継承も、家臣対立と幕府政策で5年で改易、27歳で死去。単なる暗君でなく、時代の犠牲者として再評価されるべき悲劇の君主。
最上義守もがみよしもり最上義守は最上氏10代当主。伊達氏の介入で家督を継ぎ、娘義姫は伊達政宗の母。息子義光と家督争い「天正最上の乱」を起こし、隠居後死去。
最上義康もがみよしやす最上義光の嫡男、最上義康は武勇と教養を兼ね備えた人物。慶長出羽合戦で活躍し後継者となるも、父義光との対立が激化し非業の死を遂げた。
望月六郎もちづきろくろう望月六郎は真田十勇士の一人。火薬術に長けた忍者として創作されたが、望月卯左衛門幸忠が史実のモデルの可能性。大坂の陣で活躍したとされる。
本山茂辰もとやましげとき本山茂辰は土佐の戦国武将。父茂宗の死後、本山氏を継ぐも、長宗我部元親の攻勢に敗れ、朝倉城・本山城を失い瓜生野城へ撤退。病死説と降伏・出家説がある。
本山茂宗もとやましげむね本山茂宗は土佐の戦国大名。山間部から高知平野へ勢力を拡大し、吉良氏を滅ぼすなど土佐最大勢力となる。しかし、弘治元年(1555年)に病死し、本山氏は急速に衰退した。
本山親茂もとやまちかしげ本山親茂は土佐名門本山氏最後の当主。長宗我部元親の甥で、降伏後は信親の家老に。戸次川で主君と共に討死し、長宗我部家衰退の一因となった。
本山養明もとやまようめい他氏と連合して長宗我部兼序の岡豊城を攻略し、長宗我部氏を一時滅亡に追い込むことで、山間の豪族だった本山氏の勢力拡大や平野部進出の礎を築いた戦国武将。
籾井教業もみいのりなり籾井教業は丹波の武将。波多野氏の重臣で「丹波の青鬼」と称された。明智光秀の丹波攻略で籾井城に籠城し、奮戦の末に自刃。伝説と史実が混在する人物。
百岡三右衛門ももおかさんえもん百岡三右衛門という塩釜の商人の直接記録はないが、塩釜は港町と門前町の二重性を持つ。海産物や塩を扱い、伊達政宗の政策で発展。貞享の特令で繁栄し、藩と密接な関係を築いた商人の象徴的存在。
百地三太夫ももちさんだゆう百地三太夫は伝説上の忍者で、石川五右衛門の師。実在の百地丹波守正西がモデルとされる。伊賀の地侍として天正伊賀の乱で織田軍に抵抗。その生涯は史実と創作が混在する。
桃井義孝もものいよしたか桃井義孝は清和源氏足利一門の末裔。越後の国人領主として長尾為景、上条定憲、上杉謙信に仕え、飯山城代を務めた。御館の乱で上杉景虎方に加担し、春日山城攻撃中に討死。
森岡信元もりおかのぶもと森岡信元は津軽為信の重臣で、津軽統一に貢献したが、為信の猜疑心により謀殺された。しかし、森岡家は存続し、子孫は藩の重臣として活躍した。
森下道誉もりしたどうよ森下道誉は鳥取城の戦いで主君を追放し毛利方についた。秀吉の兵糧攻めにより吉川経家と共に自刃。その行動は不忠とされたが、派閥存続のための政治的決断だった。
森田浄雲もりたじょううん森田浄雲は伊賀惣国一揆の豪族。天正伊賀の乱で一之宮城に籠城し、織田軍と戦い討死した。甲冑が残ることから、一族は生き延びた可能性も。
森忠政もりただまさ森忠政は森可成の六男。兄たちの死を乗り越え、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、美作津山藩18万6千石の初代藩主となる。津山城を築き、城下町を整備するなど、泰平の世の礎を築いた。
母里友信もりとものぶ母里友信は黒田孝高・長政に仕えた勇将。名槍「日本号」を福島正則から呑み取った逸話は「黒田節」で有名。黒田二十四騎・八虎の一人。享年60。
森長可もりながよし森長可は「鬼武蔵」と恐れられた織田信長の猛将。父と兄の死後、13歳で家督を継ぎ、伊勢長島一向一揆や甲州征伐で活躍。本能寺の変後は信濃から決死の撤退。小牧・長久手の戦いで27歳で戦死。
森村春もりむらはる森村春は阿波水軍の将。三好氏に仕え、長宗我部氏に抗戦。豊臣秀吉の四国平定に協力し、蜂須賀家臣となる。文禄の役で戦死するも、森家は「海上方」として徳島藩を支えた。
森本具俊もりもとともとし森本具俊は伊勢国司北畠氏の忠臣。通説の松ヶ島城戦死説は誤りで、永禄12年(1569年)に織田信長の伊勢侵攻における阿坂城攻防戦で討ち死にした可能性が高い。
森山季定もりやますえさだ土佐国の国人領主。津野氏の重臣。長宗我部氏の台頭に対して本家の安定と存続のために奔走し、のちに津野氏と長宗我部氏の同盟仲介に尽力した戦国武将。
森可成もりよしなり森可成は織田信長の重臣。武勇に優れ「攻めの三左」と称された。美濃金山城主、近江宇佐山城主を歴任。宇佐山城の戦いで討死。森蘭丸の父。
森可春もりよしはる森可春は森可成の孫で、津山藩森家の家老。大坂夏の陣で武功を挙げ、藩主・森忠政の信頼を得た。将軍家との縁組「貝桶渡し」の大役を務めるなど、泰平の世の吏僚として藩政に貢献した。
森好之もりよしゆき戦国大名三好氏の家臣。阿波国の出身。三好実休の側近として活動し、本国の防衛や軍事で大いに活躍。大名家の内政と勢力維持に大きく貢献した有能な忠臣。
森蘭丸もりらんまる森蘭丸(成利)は織田信長の小姓。父の死後、信長の庇護を受け、奏者・奉行として異例の出世を遂げた。本能寺の変で信長に殉じ、18歳で死去。
森脇祐有もりわきすけあり森脇祐有は吉川家の宿老。主君興経の失政と寵臣専横に危機感を抱き、吉川経世と共に興経を隠居させ、毛利元就の次男元春を擁立。吉川家存続に貢献した。
師岡一羽もろおかいっぱ師岡一羽は戦国時代の剣豪で、一羽流を創始。主家滅亡後は不遇の晩年を送るが、弟子たちの忠義と裏切りのドラマ「常盤橋の決闘」により伝説化。その剣は天然理心流に影響を与えたとされる。
諸角虎定もろずみとらさだ諸角虎定は武田信虎・信玄に仕えた宿老。川中島合戦で信玄の弟・信繁に殉じ81歳で壮絶な討死を遂げた忠勇の士。その名は後世に英雄化されたが、家は信玄の厳格な家法で改易された。
茂呂久重もろひさしげ茂呂久重は下野の国衆。館林赤井氏の重臣から藤岡城主となり、佐野氏の妹を娶る。北条氏に属し、小田原征伐で藤岡城が落城。世良田で自害した。
問註所統景もんぢゅうじょむねかげ問註所統景は筑後の国人領主。大友氏の忠臣として、龍造寺・島津氏の侵攻に抗戦。豊臣秀吉の九州平定では先導役を務め、文禄の役で朝鮮にて戦死。