最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:み
「み」に属する武将:91件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 三浦貞勝 | 美作高田城主で三浦貞久の嫡男。尼子氏に奪われた高田城を旧臣を率いて奪還した。のちに毛利方の三村家親の攻撃を受け、敗北して二十二歳で自刃した武将。 |
| 三浦貞国 | 三浦貞国は美作三浦氏当主。尼子晴久の侵攻で高田城が落城し戦死。彼の死は美作の独立領主時代の終焉を告げ、一族は苦難の道を辿るが、血脈は宇喜多秀家へと繋がった。 |
| 三浦貞連 | 戦国初期の美作領主。美作三浦氏中興の祖。高田城を整備し、文亀年間に守護山名氏の篠向城を攻略。知行制による家臣団管理を行い、美作西部における覇権を確立した。 |
| 三浦貞久 | 美作三浦氏の当主。尼子氏の侵攻に対し高田城を拠点に抵抗。天文13年の高田城攻防戦で尼子軍を撃退。巧みな外交で一族の存続を図るも、病死後、高田城は陥落した。 |
| 三浦貞広 | 美作国の国人領主。尼子や毛利、宇喜多といった大国の狭間に翻弄されながらも、一族再興を目指し高田城を巡る不屈の闘争を繰り広げた城主。 |
| 三浦貞盛 | 美作三浦氏の武将。甥・貞勝の死後、毛利氏の支援を得て高田城を奪回し一族を再興。しかし、豊臣秀吉の中国攻めによる和睦で高田城を明け渡し、失意のうちに生涯を閉じた悲運の武将。 |
| 三浦元忠 | 毛利輝元の側近。吉川元春の孫娘を娶り周防三浦氏を継承。輝元の「取次役」として毛利家の内政・外交を統括し、豊臣政権下での地位確立に貢献。関ヶ原後も重用され、萩藩の礎を築いた「宰相」と称される。 |
| 三浦義同 | 三浦義同(道寸)は相模の名門三浦氏の当主。複雑な出自と家督争いを経て実権を掌握。北条早雲との覇権争いに敗れ、新井城で壮絶な最期を遂げた。その血脈は徳川将軍家へと繋がる。 |
| 三浦義意 | 三浦義意は相模三浦氏最後の当主。北条早雲との新井城攻防戦で壮絶な最期を遂げた。伝説では鬼神の武勇を誇り、その首は三年死ななかったとされる。彼の生涯は、旧時代の終焉と新時代の到来を象徴する。 |
| 三木近綱 | 飛騨の名門・姉小路氏の末子三木近綱は、一族滅亡後も人質として生き延び、大坂の陣で武功を挙げ徳川旗本となる。滅びた家名を再興し、泰平の世に血脈を繋いだ。 |
| 三木通秋 | 播磨国英賀城主。浄土真宗の強い信仰心を背景に、織田信長の天下布武に真っ向から敵対した反骨の武将。後に羽柴秀吉から異例の赦免を受けた。 |
| 三雲定持 | 三雲定持は六角氏宿老で甲賀郡中惣の独立領主。明貿易で経済力を築き、三雲城を拠点に織田信長に抵抗。野洲川の戦いで討死し、六角氏抵抗の終焉を象徴。子孫は家名を存続させた。 |
| 三雲成持 | 戦国末期の近江武将。六角六宿老の一人として『六角氏式目』に署名。主家滅亡後は織田信雄や蒲生氏郷に仕え、のちに徳川家康に接近し家を旗本として存続させた。 |
| 三沢為清 | 出雲国の国人。父の戦死後、幼くして家督を継ぐ。大内氏と尼子氏の間で巧みに立ち回り、尼子晴久の娘を正室に迎える。毛利氏の出雲侵攻時には早期に降伏し、激動の時代を生き抜いた生存戦略家。 |
| 御宿勘兵衛 | 戦国末期の武将、御宿勘兵衛は今川、武田、北条氏に仕え滅亡を経験。結城秀康に召し抱えられるも、松平忠直と不和になり出奔。大坂の陣で豊臣方として活躍し討死。 |
| 水谷胤重 | 戦国から江戸初期の武将。常陸水谷氏の一族。結城氏の重臣。関ヶ原の戦いや大坂の陣に従軍して多くの武功を挙げ、一族の勢力維持に大きく貢献した。 |
| 水越勝重 | 水越勝重は越中の築城家。神保氏の家臣として富山城などを築く。一向一揆と連携し上杉謙信に抗戦するも、後に降伏し、その首謀者を引き渡して助命された。 |
| 水野勝成 | 水野勝成は徳川家康の従兄弟。「鬼日向」と恐れられた猛将で、放浪生活を経て徳川に帰参。関ヶ原・大坂の陣・島原の乱で活躍。備後福山藩初代藩主として善政を敷き、88歳で大往生を遂げた。 |
| 水野重央 | 水野重央は徳川家康の従兄弟。家康の側近として関ヶ原・大坂の陣に従軍。紀州藩付家老として新宮3万5千石を領し、藩政に貢献。その死後、付家老の身分を巡る問題が浮上した。 |
| 水野忠清 | 水野忠清は水野忠重の四男。徳川秀忠に仕え、大坂の陣で武功。論功行賞で閉門となるも家康の赦免で刈谷藩主。吉田藩、松本藩主を歴任し、堅実な統治で水野家繁栄の礎を築いた。 |
| 水野忠重 | 水野忠重は徳川家康の叔父。兄信元と決別し家康に仕え、三河一向一揆や小牧・長久手で活躍。刈谷城主となるも、関ヶ原前夜に暗殺された。その死は水野家繁栄の礎となった。 |
| 水野忠政 | 水野忠政は徳川家康の外祖父。尾張・三河国境の国衆として、刈谷城を築き水運と塩で経済基盤を確立。織田・松平・今川の間で巧みな外交を展開し、水野家繁栄の礎を築いた戦略家。 |
| 水野信元 | 水野信元は徳川家康の伯父。今川から織田へ転じ、清洲同盟を仲介。三方ヶ原で家康を救うなど活躍するも、武田内通嫌疑で信長に誅殺された。後に名誉回復し、水野家は繁栄した。 |
| 水谷勝隆 | 江戸初期の備中松山藩主。外様ながら幕府の信頼が厚く城番などを歴任。玉島新田開発や高瀬通しの開削、製鉄業振興を行い、藩の経済基盤を築いた開発領主。 |
| 水谷正村 | 水谷正村(蟠龍斎)は結城四天王の一人。宇都宮氏との戦で常勝を誇り、領民を慈しみ、秀吉の天下統一に乗じて独立大名となった智勇兼備の将。 |
| 水野分長 | 水野分長は徳川家康の従兄弟。小牧・長久手や九戸政実の乱で武功。大番頭、緒川藩・新城藩主を歴任。水戸藩付家老となるも、死後、領地は無嗣として収公された。 |
| 溝江長逸 | 溝江長逸は越前金津城主。朝倉氏に仕え、対一向一揆の最前線を担った。主家滅亡後、織田信長に帰順するも、越前一向一揆の復讐により金津城で自刃。 |
| 溝尾茂朝 | 戦国時代の武将。明智五宿老の一人。三沢秀次と同一人物とされる。越前代官などを務め行政能力に秀でる。山崎の戦いの敗戦後、小栗栖で主君光秀を介錯し自害した。 |
| 溝口貞泰 | 信濃小笠原氏の忠臣。武田信玄に追われた主君貞慶の旧領回復に尽力し、文武両面で活躍。その生涯と小笠原家の歴史を記した『溝口家記』を編纂した。 |
| 溝口長勝 | 信濃国の国人で溝口城主。武田信玄の侵略に対して主君の小笠原長時を保護して徹底抗戦した。落城後も流浪の身となった主君に付き従い、忠節を尽くし続けた。 |
| 溝口長友 | 溝口長友は信濃小笠原氏の家臣。武田信玄の侵攻に対し、主君・小笠原信定と共に鈴岡城で戦死。忠節を貫いた武将として後世に語り継がれた。 |
| 溝口宣勝 | 戦国から江戸初期の武将。越後新発田藩の第二代藩主。父の溝口秀勝を補佐して領国支配を固め、大坂の陣での活躍などを通じて藩政の確立に尽力した。 |
| 溝口秀勝 | 溝口秀勝は織田・豊臣・徳川に仕え、巧みな処世術で乱世を生き抜いた。越後新発田藩初代藩主となり、関ヶ原では東軍に与し、藩の礎を築いた。 |
| 溝口善勝 | 溝口善勝は越後沢海藩の初代藩主。父秀勝の死後、兄宣勝の分与と将軍秀忠の裁可により立藩。大坂の陣で武功を挙げ、幕府の信頼を得た。しかし、藩はわずか4代で改易された。 |
| 三田井親武 | 日向高千穂の領主。島津氏と結ぶも、豊臣秀吉の九州仕置後に高橋元種と対立し、家臣の甲斐宗摂に暗殺され一族は滅亡した。後に親武大明神として祀られた武将。 |
| 三木顕綱 | 三木顕綱は飛騨の戦国大名・姉小路良頼の次男。養父を毒殺し鍋山城を乗っ取るなど非情な手腕で勢力を拡大したが、兄・頼綱への謀反嫌疑で暗殺された。 |
| 三木国綱 | 飛騨一宮水無神社の神官一族出身。姉小路頼綱の妹婿となり武将へ転身。山下城を築城し謀臣として活躍。豊臣秀吉の飛騨侵攻後、旧領回復を掲げ「三沢の乱」を起こすも金森長近に敗れ戦死。劇的な生涯を送った。 |
| 三木直頼 | 飛騨の国人。永正の「国錯乱」を機に台頭し、桜洞城を拠点に勢力を拡大。全方位外交を展開し飛騨国内の覇権を確立。子・良頼が姉小路家の名跡を継承する礎を築き、飛騨の戦国史における真の「創業者」と評される。 |
| 三淵晴員 | 三淵晴員は室町幕府の幕臣で、足利将軍家に忠誠を尽くした。子に細川藤孝(幽斎)がおり、その出自には将軍御落胤説がある。晴員の生涯は、旧体制の終焉と新時代の到来の狭間を生きた武士の姿を象徴する。 |
| 三淵光行 | 三淵光行は足利将軍家譜代の名門三淵氏の出身。父藤英の死後、叔父細川藤孝に庇護され、丹後田辺城籠城戦で奮戦。徳川家康に忠節を認められ旗本として三淵家を再興。その血脈は現代に続く。 |
| 三刀屋久扶 | 三刀屋久扶は出雲の国人領主。尼子・大内・毛利と主家を変え、巧みな政治手腕で乱世を生き抜いた。しかし、毛利輝元の政策により本領を追放され、京都で死去。 |
| 皆川俊宗 | 皆川俊宗は下野の国人領主。宇都宮氏に属しながら北条氏と結び、宇都宮城を占拠するも失敗。北条方として戦死。彼の野心と挫折は、息子広照の処世術に影響し、皆川家は存続した。 |
| 皆川成勝 | 下野国の国衆。父が宇都宮氏との戦いで戦死し家督を継ぐ。宇都宮氏の内紛を機に関係を修復し、周辺勢力との合従連衡を駆使して衰退した皆川氏を再興させた賢将。 |
| 皆川広照 | 皆川広照は下野国の戦国武将。北条氏に服属しつつ徳川家康と結び、小田原征伐で本領安堵。松平忠輝付家老となるも改易。大坂の陣での子の活躍で大名に復帰した。 |
| 南方就正 | 安芸国の武将。毛利氏の重臣。大内輝弘の乱において、敗走する輝弘軍を追撃して乱の鎮圧に決定的な役割を果たし、毛利氏の防長支配を陰で支えた功臣。 |
| 南長義 | 南長義は南部一門の重鎮。南部信直擁立に尽力し、浅水城主として強大な勢力を誇る。九戸政実の乱を乗り越え、南一族繁栄の礎を築いた知将。 |
| 源為朝 | 源為朝は平安末期の武将。九州で「鎮西八郎」と称され、保元の乱で活躍。伊豆諸島へ流され、琉球王家の祖となる伝説も。各地で武勇と仁徳の英雄として語り継がれる。 |
| 源義家 | 源義家は「八幡太郎」と称された武家の棟梁。前九年・後三年の役で活躍し、私財を投じて東国武士との絆を築き、鎌倉幕府の礎を築いた。その武勇と知略、そして冷徹な一面は後世に語り継がれる。 |
| 源義経 | 源義経は源平合戦で活躍した天才軍略家。兄頼朝との確執で悲劇的な最期を遂げるが、その生涯は『平家物語』や『義経記』で英雄化され、「判官贔屓」の象徴として現代まで語り継がれる。 |
| 源頼朝 | 鎌倉幕府初代征夷大将軍。伊豆での流人生活を経て挙兵。平氏や弟の義経らを排除し全国に守護・地頭を設置。「御恩と奉公」の武家政権システムを確立した。 |
| 源頼光 | 源頼光は平安時代の武士で、摂関政治を支えつつ、酒呑童子などの怪異を討つ伝説的英雄。史実と伝説の二面性を持ち、その物語は後世の文化に大きな影響を与えた。 |
| 壬生綱雄 | 壬生綱雄は下野国の戦国武将。父・綱房の築いた権勢を継ぎ、後北条氏に接近して独立を図るも、叔父・周長との対立や小田原征伐により壬生氏は滅亡した。 |
| 壬生綱房 | 戦国時代の下野国の武将。日光山の掌握で財政基盤を築き、主家の宇都宮氏で主君三代の追放や抹殺を画策。主君の戦死後に宇都宮城を強奪し下剋上を遂げた梟雄。 |
| 壬生義雄 | 下野国の戦国大名。壬生氏最後の当主。宇都宮氏から自立して後北条氏に属し、小田原征伐では小田原城に籠城するも、開城直後に病死した悲劇の将。 |
| 三村家親 | 三村家親は備中の戦国大名。毛利氏と同盟し備中を統一するも、宇喜多直家の謀略により鉄砲で暗殺される。その死は三村氏滅亡の引き金となった。 |
| 三村実親 | 三村実親は戦国備中の武将。兄の毛利離反で鬼身城に孤立。城兵助命のため自ら命を絶ち、その自己犠牲は敵将にも感銘を与え、武士の鑑として語り継がれた。 |
| 三村親成 | 三村親成は備中三村氏の重臣。甥の元親が毛利氏に反旗を翻した際、一族存続のため毛利氏に内通。後に福山藩家老となり、三村氏の血脈を後世に繋いだ。 |
| 三村宗親 | 備中三村宗親は、戦国黎明期に鶴首城を築き、八幡宮を勧請。中央政争を利用し勢力を拡大、子・家親の飛躍の礎を築いた。その戦略は、後の三村氏の最盛期に繋がる。 |
| 三村元親 | 三村元親は備中松山城主。父の仇宇喜多直家への復讐を誓い、毛利氏に反抗。織田氏と結ぶも備中兵乱で敗れ自刃。義と情に殉じた悲劇の武将。 |
| 三村元範 | 備中杠城主で長刀の達人。三村家親の三男。兄・元親の毛利氏離反に伴う備中兵乱で小早川隆景軍と交戦。落城後に脱出を図るも、追撃されて早乙女岩で討死した。 |
| 宮川弥九郎 | 「宮川弥九郎」は誤認で、長宗我部元親の末弟「島弥九郎」が実像。彼の悲劇的な死が長宗我部氏の四国統一を加速させ、子孫が約300年後に長宗我部家を再興した。 |
| 宮城豊盛 | 戦国末期から江戸初期の武将。豊臣秀吉の側近から大名へと昇進。秀吉死去の密使などを務めた。関ヶ原後は徳川家に仕え大坂の陣にも参加し、激動の過渡期を生き抜いた。 |
| 宮城政業 | 武蔵国の国人領主。豊島氏の分流である宮城氏の当主。後北条氏に仕えて領国支配や軍事で活動し、一族の勢力維持に腐心した戦国時代の武将。 |
| 三宅国村 | 三宅国村は摂津の国人領主。細川氏の内紛に乗じて三好長慶に属し、三宅城主となる。江口の戦いなどで活躍するが、教興寺の戦いで長慶を裏切り畠山・六角連合に与するも敗北。城を放棄し堺へ逃亡、消息不明となる。 |
| 三宅総広 | 能登畠山氏の重臣。畠山七人衆の一員として権力の中枢に座る。温井総貞と結び権勢を誇るも、主君・畠山義綱に反旗を翻し「弘治の内乱」を引き起こす。勝山城の戦いで敗れ戦死し、能登畠山氏衰退の一因となった。 |
| 三宅康信 | 徳川家康の譜代家臣。関ヶ原では横須賀城番、大坂の陣では駿府城・淀城の守備を務めるなど、徳川政権の「守り」の要として活躍。徳川和子入内の功で伊勢亀山藩主となり、泰平の世の礎を支えた堅実な武将。 |
| 宮崎隆親 | 戦国時代の武将。大崎氏の家臣で宮崎城主.奥州仕置後の葛西・大崎一揆で総大将に推され、宮崎城で伊達政宗の軍と激戦を展開。落城後は最上氏に仕え笠原織部と名乗った。 |
| 宮部継潤 | 宮部継潤は比叡山の僧から武将となり、浅井家臣を経て秀吉に仕えた。武勇と統治能力に優れ「日ノ本無双」と称されたが、関ヶ原で家は改易された。 |
| 宮部長房 | 宮部長房は豊臣秀吉の家臣。父継潤の功績で大名となるが、関ヶ原の戦いで西軍への寝返りを図り失敗、改易される。その後は南部藩に預けられ、盛岡で生涯を終えた。 |
| 宮本武蔵 | 戦国末期から江戸初期の兵法家、芸術家。二天一流を創始し巌流島などの決闘で知られる。水墨画や彫刻など芸術面でも傑出した才能を示した、戦国自由の気風を引く達人。 |
| 妙本寺日親 | 安房妙本寺14世日我や15世日侃、および室町中期に将軍を諫めて拷問に耐えた鍋かむり日親という、実在する複数の高僧の事績や法号が混同されて生じた複合的歴史像。 |
| 三好為三 | 三好為三は三好氏傍流の武将。織田、豊臣、徳川に仕え、関ヶ原や大坂の陣では徳川方として参陣。96歳で没し旗本となる。真田十勇士の三好伊三入道のモデルとされるが、真田氏との史実上の関係はない。 |
| 三好咲岩 | 三好康長。三好長慶の叔父(異説あり)。阿波三好家の重鎮として活躍。教興寺の戦いで功を挙げ高屋城主となる。織田信長に徹底抗戦するも降伏し、「四国方面担当官」として重用。乱世を巧みに生き抜いた知将。 |
| 三好実休 | 三好長慶の弟で、本国阿波を統治して三好政権を支えた副王。冷徹な大名としての一面と、武将茶人として芸術を愛した二面性を持つ悲劇の勇将。 |
| 三好清海 | 三好清海入道は、真田十勇士の豪傑。剛力無双の僧体で、真田幸村に忠誠を誓い活躍。歴史的実在性はなく、創作上の人物だが、幸村伝説を彩る。 |
| 三吉隆亮 | 備後の国人領主三吉隆亮は、戦国時代に大内氏に属し、後に毛利氏傘下に入った武将。その生涯は激動の時代を生き抜いた知略と武勇に満ちている。 |
| 三好長治 | 三好長治は父の遺産と後見人・篠原長房に支えられつつも、長房粛清や強制改宗で自滅。家臣離反と外部介入を招き、阿波三好家を滅亡させた悲劇の君主。 |
| 三好長秀 | 三好長秀は三好長慶の祖父。父之長と細川澄元を支え永正の錯乱で活躍。澄元政権執事となるも、如意ヶ嶽の戦いで敗走し伊勢で自害。彼の死は三好氏に衝撃を与えつつも、後の飛躍の礎となった。 |
| 三好長逸 | 三好長逸は三好三人衆の筆頭。長慶の死後、若年の義継を補佐し、松永久秀と対立。永禄の変で将軍義輝殺害に関与。織田信長に抵抗したが、消息不明となった。行政官としても有能だった。 |
| 三好長慶 | 三好長慶は戦国時代の武将。父の死後、細川晴元に仕え、畿内を制圧。将軍を追放し、堺を拠点に経済力を築き、文化人としても活躍。しかし、兄弟や嫡男の死により政権は衰退した。 |
| 三吉広高 | 三吉広高は備後国の国人領主。毛利氏に仕え、比熊山城を築城し三次を整備。関ヶ原で毛利氏が減封されると出奔、後に広島藩士となり、子孫は幕末まで続いた。 |
| 三好政勝 | 三好政勝は、兄・宗渭と弟・為三の二人の生涯が混同された武将。兄は三好三人衆として戦乱に散り、弟は巧みに乱世を生き抜き旗本となった。 |
| 三好政長 | 三好政長は細川晴元政権を支えた武将。三好本家と対立し、江口の戦いで敗死。茶人「宗三」としても知られ、名刀「宗三左文字」の最初の所有者。 |
| 三好政康 | 三好政康(宗渭)は三好三人衆の一人。将軍義輝を殺害し、織田信長に抵抗したが病没。大坂の陣で豊臣方に殉じた「三好清海入道」の伝説は後世の創作。 |
| 三好元長 | 三好元長は三好長慶の父。阿波の三好氏を率い、細川晴元を擁立して細川高国を討ち、堺に「堺公方府」を樹立。しかし、晴元と対立し、一向一揆に攻められ堺で自害。その死は息子・長慶の天下人への道標となった。 |
| 三好之長 | 三好之長は阿波の国人から細川澄元の後見役として中央政界に進出。永正の錯乱で活躍し実権を握るも、細川高国との戦いに敗れ斬首。彼の生涯は三好氏が天下人となる礎を築いた。 |
| 三好義興 | 三好義興は三好長慶の嫡男。若くして三好政権の中核を担い、将軍義輝とも親密な関係を築いた。教興寺の戦いで大勝するなど武将としても活躍したが、22歳で病死。彼の死が三好政権衰退の大きな要因となった。 |
| 三好義賢 | 三好義賢は三好長慶の弟で、阿波を統治し畿内を支援。細川持隆を暗殺し、久米田の戦いで戦死。その死は三好政権衰退を早めた。武と文化を兼ね備えた武将。 |
| 三好義継 | 三好義継は三好長慶の後継者。三好三人衆と松永久秀の権力争いに翻弄され、永禄の変で足利義輝を殺害。信長包囲網に加わるも若江城で敗れ自刃。その死は三好宗家の終焉を意味した。 |
| 三輪藤兵衛 | 「三輪藤兵衛」は架空の商人だが、戦国時代の直江津の有力商人の実像を蔵田五郎左衛門の活動から探る。直江津は日本海交易の要衝で、上杉氏の財政を支えた。蔵田は財政・行政・軍事も担う重臣だった。 |
| 明叔慶浚 | 戦国時代の臨済宗妙心寺派の禅僧。飛騨の三木氏や美濃の遠山氏を繋ぐ結節点となり、今川義元や武田信玄の招聘を受け臨済寺・恵林寺などの住職を務めた禅傑。 |