最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:う

「う」に属する武将:95件

武将概要
三浦按針うぃりあむあだむす三浦按針は1600年に日本に漂着した英国人航海士。徳川家康に仕え、造船・航海術を教え、外交・貿易に貢献。旗本となり、日本の国際関係に影響を与えた。
植木秀資うえきひですけ植木秀資は備中の豪族。毛利・宇喜多氏の狭間で佐井田城主として離合集散を繰り返し、一時城を失うも奪回。関ヶ原で毛利氏敗北と共に城を失った。
植木秀長うえきひでなが植木秀長は戦国時代の備中国の国人領主。細川・尼子・三村・宇喜多と主君を変え、淀堤の戦いや佐井田城の攻防で活躍。激動の乱世を生き抜いた典型的な地方武将である。
上坂家信うえさかいえのぶ上坂家信は京極氏の内紛に乗じ、主君を傀儡化し北近江を支配。その強権的な統治は平和をもたらすも、子の代で失脚し、浅井亮政の台頭を許した。
上坂信光うえさかのぶみつ上坂信光は京極家執権として北近江に君臨したが、京極家督問題で高吉を推し、国人衆と対立。浅井亮政らの反乱で今浜城を追われ、尾張へ亡命。再起を図るも敗れ、上坂氏の権勢は終焉した。
上杉顕定うえすぎあきさだ上杉顕定は関東管領として享徳の乱を収束させるも、家宰・太田道灌を謀殺。これにより長享の乱が勃発し、越後へ出兵するも長尾為景に敗死。山内上杉家衰退の要因となった。
上杉景勝うえすぎかげかつ上杉景勝は上杉謙信の養子で、御館の乱を制し家督を継承。豊臣秀吉に臣従し五大老となるが、関ヶ原で西軍につき米沢へ減封。直江兼続と共に藩政を確立した。
上杉景虎うえすぎかげとら北条氏康の七男。上杉謙信の養子となり「景虎」の名を賜る。謙信死後、上杉景勝との家督争い「御館の乱」で敗北。武田勝頼の離反や北条氏の支援不足により劣勢となり、鮫ヶ尾城で妻子と共に自害した悲劇の武将。
上杉景信うえすぎかげのぶ上杉景信は栖吉長尾家出身で、上条上杉家の名跡を継いだ。上杉謙信の従兄弟とされる。御館の乱では上杉景虎方につき、戦死。その子も戦死し、上杉十郎家は断絶した。
上杉謙信うえすぎけんしん上杉謙信は越後の戦国大名。長尾景虎として越後を統一後、上杉憲政から関東管領職を継承。武田信玄との川中島の戦い、関東遠征、織田信長との手取川の戦いで活躍。「義」を重んじ、毘沙門天を信仰した。
上杉定勝うえすぎさだかつ上杉定勝は米沢藩二代藩主。父景勝と直江兼続の遺産を継ぎ、総検地や法令で藩政を安定化。文武両道に秀で、後の上杉鷹山による改革の礎を築いた。
上杉定実うえすぎさだざね上杉定実は戦国期の越後守護。守護代長尾為景に擁立されるも実権を奪われ、傀儡となる。伊達氏との養子問題や長尾兄弟の家督争いに翻弄され、嗣子なく没し越後守護上杉家は断絶した。
上杉定正うえすぎさだまさ上杉定正は扇谷上杉家当主。家宰太田道灌を暗殺し、山内上杉家との長享の乱で活躍。しかし、傲慢さから孤立し、伊勢宗瑞の台頭を招き、関東戦国時代を本格化させた。
上杉朝興うえすぎともおき上杉朝興は扇谷上杉氏の当主。北条氏綱と長年抗争し、江戸城を失い河越城へ退却。小沢原の戦いでも敗れるなど苦戦を強いられた。北条氏の勢いを止められず、扇谷上杉氏衰退期の武将。
上杉朝定うえすぎともさだ扇谷上杉家おうぎがやつうえすぎけ上杉朝定は扇谷上杉家最後の当主。父の死後、若くして家督を継ぐも、後北条氏の攻勢に苦戦。河越夜戦で北条氏康に大敗し戦死、扇谷上杉家は滅亡した。
上杉朝良うえすぎともよし扇谷上杉朝良は太田道灌謀殺後の混乱で家督を継ぎ、山内上杉家と戦う。伊勢宗瑞と同盟し立河原で勝利。和睦後は永正の乱で調停役を務め、知略で激動の時代を生き抜いた。
上杉憲房うえすぎのりふさ戦国期の関東管領。永正の乱を制し山内上杉家の家督を継ぐ。扇谷家と結び後北条氏に抗戦するが、旧態依然とした統治により衰退し、死後は深刻な後継者争いを招いた。
上杉憲政うえすぎのりまさ上杉憲政は山内上杉家最後の関東管領。河越夜戦で北条氏康に大敗し、越後へ亡命。長尾景虎(上杉謙信)に家督と関東管領職を譲渡。御館の乱で景虎を支持し、非業の死を遂げた。
上杉房能うえすぎふさよし越後国守護。守護権力の一元化と戦国大名化を図るも、守護代長尾為景らの反発を招き自害に追い込まれた、越後下克上を象徴する悲劇の守護。
上田重安うえだしげやす上田重安は丹羽長秀、豊臣秀吉、浅野長晟に仕えた武将。関ヶ原で西軍につき浪人するも、大坂の陣で活躍。茶道上田宗箇流の流祖であり、作庭家としても知られる。
上田朝直うえだともなお武蔵国松山城主。武蔵七党西党の末流で、当初は扇谷上杉家に仕えるも、勢力図の変化に伴い後北条氏の家臣となり、外交や内政で活躍した国衆。
上田憲定うえだのりさだ武蔵国松山城主。後北条氏の家臣として優れた領国経営を行う一方、小田原征伐では豊臣軍を相手に籠城戦を闘い、激動の時代を生き抜いた武将。
上田政広うえだまさひろ武蔵七党西党の流れを汲む武将。扇谷上杉氏の家臣として武蔵松山城主を務める。河越夜戦で扇谷上杉家滅亡後、後北条氏に帰順。天文16年に嫡男・朝直に家督を譲り隠居し、元亀2年に没した。
上田政盛うえだまさもり上田政盛は永正七年(1510年)に権現山城で反乱。伊勢宗瑞と通じ、扇谷上杉氏に反旗を翻した。この戦いは関東の歴史を大きく変え、上田氏嫡流は没落したが、庶流は後北条氏に仕え生き残った。
植田万三郎うえだまんざぶろう植田万三郎は戦国備前の豪商で、黒田重隆を支援し、その後の黒田家発展の礎を築いた。彼の故郷「福岡」は、後に黒田長政が築いた都市の名となる。
植田光次うえだみつじ伊賀の豪族、植田光次は伊賀十二評定衆の一員。第一次天正伊賀の乱で織田信雄軍を撃退。第二次天正伊賀の乱で敗北し三河へ逃れ、徳川家康に仕えた。
上野隆徳うえのたかのり上野隆徳は備中常山城主。三村家親の娘・鶴姫を妻とし、備中兵乱で三村方に加担。常山城に籠城し奮戦するも、毛利軍の攻撃により一族と共に自害した。
植松所平次うえまつしょへいじ戦国期の品川の商人。実在は未特定。半士半商の有力者・宇田川氏の伝承と、家康の代官となった植松氏(小泉次大夫)の事績が後世に混同されて生まれたとされる。
上村長国うえむらながくに上村長国は肥後の賢臣。婿・頼興が相良氏の実権を握る過程で、実弟や長国の子を謀殺。長国は『洞然居士状』を著し文化人として歴史を記録したが、血族の悲劇に直面した。
上村長種うえむらながたね肥後相良氏の有力な一族。相良義滋に重用され、犬童一族の乱を鎮圧し相良氏の安定に貢献。しかし、その武功と人望が実兄・上村頼興の警戒心を招き、天文4年、頼興の策略により暗殺された悲劇の武将。
上村頼興うえむらよりおき上村頼興は肥後相良氏の有力庶家。相良宗家の家督争いに介入し、実子・晴広を宗家当主とした。権力掌握のため実弟・長種を暗殺するなど謀略を尽くしたが、死後、息子たちが反乱を起こし上村氏は没落した。
上村頼孝うえむらよりたか上村頼孝は肥後相良氏の武将。父・頼興の死後、甥の相良義陽に反乱を起こすも敗れ、日向飯野へ逃亡。後に帰参を許されるも、永禄10年に義陽の命により自刃した。
魚住景固うおずみかげかた越前朝倉氏家臣の魚住景固は、奉行として活躍し、姉川合戦にも参戦。朝倉氏滅亡後、織田信長に降伏するも、旧同僚に謀殺された悲運の武将。
宇喜多興家うきたおきいえ戦国期の備前国の武将。宇喜多直家の父とされるが、具体的な事績に乏しく実在性をめぐり諸説ある。主家の浦上氏に仕えたが後に没落し、流転の末に病没したと伝わる。
浮田国定うきたくにさだ備前の武将、浮田国定は宇喜多氏の一族で浦上政宗に仕え砥石城主。宇喜多直家と敵対し、砥石城攻防戦で討死。その死は直家の勢力拡大の契機となった。
宇喜多忠家うきたただいえ戦国期から江戸初期の武将。宇喜多直家の弟。兄の謀略活動を軍事面から支え、兄の死後は幼い甥の秀家を後見して家中の存続に奔走。宇喜多騒動を機に大坂に隠居した。
宇喜多直家うきたなおいえ戦国時代の備前・美作の大名。没落した家を再興し、謀略や暗殺を駆使して領地を広げた「戦国三大梟雄」の一人。岡山城と城下町の基礎を築き、後に織田信長に臣従した。
宇喜多秀家うきたひでいえ宇喜多秀家は豊臣秀吉の寵愛を受け五大老となるが、関ヶ原で西軍につき敗北。八丈島へ流罪となるも、妻豪姫の実家前田家の援助で長寿を全う。
宇喜多能家うきたよしいえ備前国の有力な国人領主。砥石城主。浦上氏の重臣。卓越した軍略で浦上氏を支え勢力拡大に尽力したが、のちに一族の内紛により落城の果てに自害した。
宇佐見左衛門うさみさえもん直接の史料はないが、伊豆ルーツの姓と豪商を示す通称から、戦国期の諏訪で日根野氏による城下強制移住などを経験したとされる、伝承上の新来の豪商。
宇佐美定満うさみさだみつ宇佐美定満は上杉謙信の家臣。長尾政景との野尻湖での謎の死が有名。軍師「宇佐美駿河守定行」は後世の創作で、史実の定満は謙信に不満を漏らすなど人間的な一面も。
宇佐美房忠うさみふさただ上杉守護家の重臣。長尾為景の下剋上に抗い守護上杉定実を擁立。小野城や岩手城で徹底抗戦を展開するも、一族と共に敗死した戦国越後の旧秩序に殉じた琵琶島城主。
牛尾幸清うしおよしきよ尼子氏重臣で牛尾城主。尼子氏の興隆から滅亡まで仕え、月山富田城籠城後、毛利氏に降伏。その後安芸国院内城主となり、子孫は毛利氏に仕えるか帰農した。
氏家光氏うじいえあきうじ氏家光氏は最上家臣。養父守棟の跡を継ぎ、最上義光の娘婿となる。慶長出羽合戦で奮戦し、最上家改易後は毛利家に仕え、氏家家を長州藩士として存続させた。
氏家定直うじいえさだなお氏家定直は最上氏の宿老。最上義守・義光二代に仕え、天文の乱や最上家家督相続問題で活躍。特に義守・義光父子の和解に尽力し、義光への家督継承を実現させた。
氏家守棟うじいえしゅとう氏家守棟は美濃三人衆の一人。斎藤・織田・豊臣三代に仕え、伊勢桑名城主となる。激動の時代を生き抜き、武将としての能力と統治手腕を兼ね備えた。
氏家隆継うじいえたかつぐ氏家隆継は奥州大崎氏の家臣で三丁目城主。伊達氏との外交交渉に関与し、大崎合戦後には息子・吉継と主君・大崎義隆の和解に尽力。激動の奥州を生き抜いた武将である。
氏家卜全うじいえぼくぜん氏家卜全は美濃の武将。斎藤氏に仕え、稲葉一鉄・安藤守就と共に西美濃三人衆として活躍。織田信長に内通し美濃平定に貢献。長島一向一揆で殿を務め戦死。子孫は明治維新まで存続。
氏家行広うじいえゆきひろ氏家行広は美濃の国人。織田・豊臣に仕え伊勢桑名城主となる。関ヶ原で西軍につき改易。大坂の陣では豊臣方に殉じ、家康の誘いを断り壮絶な最期を遂げた。
氏家吉継うじいえよしつぐ氏家吉継は大崎家臣。岩出山城主。大崎内乱で伊場野惣八郎と結び反主流派の中心となるが、伊達政宗に内通。主家滅亡後、伊達氏に仕えるも間もなく病没。
雲林院祐基うじいすけもと雲林院祐基は伊勢の国人。織田信包に仕えるも対立し追放。娘婿の縁で信長直臣となり、本能寺の変後は秀吉に臣従。激動の時代を生き抜いた。
碓井貞光うすいさだみつ頼光四天王の一人、碓井貞光の史実と伝説を探る。大江山の鬼退治や碓氷峠の大蛇退治といった武勇伝、四万温泉発見の伝説、後世の文化で英雄として描かれる過程を解説。
臼杵鑑速うすきあきすみ臼杵鑑速は大友氏の宿老で「豊後三老」の一人。軍事・外交・内政で活躍し、大友宗麟を支えた。特に筑前統治や博多管理、寺社政策に尽力。嫡男統景は耳川の戦いで戦死。
臼杵鑑続うすきあきつぐ臼杵鑑続は大友氏の重臣で、外交・筑前統治・博多都市整備に貢献。大内氏との交渉や大友義長養子縁組を斡旋。博多の房州堀・石堂川開削を主導した。
臼杵アンリケうすきアンリケ「臼杵アンリケ」は特定の人物ではなく、大友宗麟庇護下の豊後キリシタン文化の象徴。ノビシャド設立やイルマンの活躍、弾圧の歴史を内包する。
臼杵シモンうすきシモン臼杵シモンは戦国豊後のキリシタン。田原親虎の洗礼名、野津のリアンの布教活動、大友宗麟の武器貿易の記憶が融合した複合的歴史像である。
宇多頼重うだよりしげ宇多頼重は石田三成の義兄。本姓は尾藤氏。関ヶ原の戦いで佐和山城に籠城し、父と共に自害。石田家への忠義を貫き、一族の名誉を回復した。
宇多頼忠うだよりただ宇多頼忠は石田三成の義父。兄の失脚で尾藤姓を捨て宇多姓に改名。秀長・秀吉に仕え大名に。関ヶ原で佐和山城に籠城し自害。豊臣政権の興亡と一族の悲劇を映す。
内ヶ島氏理うちがしまうじさと飛騨白川郷の国人領主。金山などの鉱山経営で莫大な富を築き、織田信長や豊臣秀吉に仕えて本領を安堵されたが、天正地震の山崩れで城ごと一族滅亡した悲劇の将。
内ヶ島雅氏うちがしままさうじ飛騨国白川郷の国人。帰雲城主。豊富な鉱山資源を収入源に領地経営を安定させる。熱心な一向宗門徒で本願寺と連携し長尾為景と争う。子孫は天正大地震で帰雲城と共に埋没し、一族は悲劇的な終焉を迎えた。
内田実久うちださねひさ内田実久は筑前の戦国大名・秋月氏の宿将。主君・秋月種実を庇護し、休松の戦いで大友軍を撃退。秋月氏の日向移封後も高城の復興に尽力し、高鍋藩家老を務めた。
内田重兵衛うちだじゅうべえ内田重兵衛は戦国期の秋田湊の有力商人。安東氏の庇護下で秋田杉や米、鉱産物などを扱い、日本海交易や北方交易で活躍。佐竹氏の転封と強制移住で、その運命は大きく揺さぶられた。
内田卜庵うちだぼくあん内田卜庵は史料に存在しないが、戦国期加賀の一向一揆を支えた有力商人茶人の集合的記憶が結晶化した人物像。日本海交易で富を築き、茶会を通じ政治・軍事交渉に関与した実像を再構築。
宇都宮興綱うつのみやおきつな下野国の戦国大名。宇都宮氏の当主。幼くして家督を継承するも、家中擁立や家臣団の離反といった内紛に翻弄されて若くして没した悲劇の当主。
宇都宮清綱うつのみやきよつな宇都宮清綱は戦国時代の伊予の武将。萩森城を築城し、隠居後も一族の勢力維持に努めた。子孫は激動の時代に翻弄され、最終的に独立した戦国領主としての地位を失った。
宇都宮成綱うつのみやしげつな宇都宮成綱は戦国時代の武将。没落した宇都宮氏を再興し、北関東の覇者となる。家中の粛清や外交戦略で権力を確立。稀代の切れ者と評される。
宇都宮忠綱うつのみやただつな戦国期の下野国の大名。宇都宮氏の第十八代当主。結城氏に勝利するなど武勇を示したが、傲慢さから家臣の芳賀氏や姉婿の結城政朝の裏切りに遭い、城を追われ急死した。
宇都宮豊綱うつのみやとよつな宇都宮豊綱は伊予宇都宮氏最後の当主。西園寺氏と戦い、一条氏と同盟するも、鳥坂峠合戦で毛利氏に敗れ、配流先で病死し伊予宇都宮氏は滅亡した。
宇都宮尚綱うつのみやひさつな戦国期の下野国の大名。宇都宮氏第二十代当主。周囲の戦国大名らと関東の覇権を争い勢力を拡大したが、那須氏との喜連川五月女坂の戦いで矢を受けて戦死し敗北した。
宇都宮広綱うつのみやひろつな宇都宮広綱は下野の名門宇都宮氏21代当主。幼少で家督を継ぎ、芳賀高定や佐竹氏の支援で宇都宮城を奪還。病弱ながらも佐竹氏との同盟を基軸に乱世を生き抜いた。
宇都宮房綱うつのみやふさつな戦国期の伊予国の武将。伊予宇都宮氏の一族で西園寺氏の家臣。萩森城主を務め、土佐の一条氏や長宗我部氏による伊予侵攻に対し、領内防衛の戦いで重要な一翼を担った。
宇都宮国綱うつのみや・くにつな宇都宮国綱は下野の名門宇都宮氏22代当主。幼少で家督を継ぎ、佐竹氏と同盟し後北条氏に対抗。豊臣秀吉に仕えるも、家臣の内紛などで改易された。
鵜殿氏長うどのうじなが今川家臣の鵜殿長照の子。上ノ郷城の落城で捕囚されるが、徳川家康の正室・築山殿らとの劇的な人質交換で帰還。のちに徳川氏に仕え直参旗本となった。
鵜殿長照うどのながてる鵜殿長照は今川氏に忠義を尽くした三河の武将。桶狭間後も今川方として家康と戦い、上ノ郷城で討死。子の捕縛が家康の妻子奪還に繋がった。
鵜殿長持うどのながもち戦国時代の三河の国人領主。上ノ郷城主。今川義元の下で東三河の防衛と支配を担った。桶狭間の戦い前に没したが、彼の死後一族は徳川氏の進出による激動に呑まれた。
宇野祐清うのすけきよ播磨の国人領主。赤松氏の重臣として守護代を務めた宇野氏の当主。長水城を拠点に毛利方として羽柴秀吉の中国侵攻軍に抵抗したが、敗れて父と共に自刃し一族は滅亡した。
宇野藤右衛門うのとうえもん下野日光で売薬を商った品川の商人の伝承と、北条早雲の招きで小田原に移住した外郎家五代目の陳外郎宇野藤右衛門定治という、二つの異なる人物像が伝わる戦国期の商人。
宇野政頼うのまさより宇野政頼は播磨の国人領主で、長水城を拠点とした。赤松氏から尼子氏に属し、羽柴秀吉の中国攻めに抵抗。長水城落城後、子と共に自刃した。
祖母井之重うばがいこれしげ祖母井之重は伊予宇都宮氏家臣。天文年間に祖母井城を築城。城名由来は下野国の地名伝説に由来。天正13年、豊臣秀吉の四国平定で祖母井城は落城し、祖母井氏の勢力は終焉。
祖母井之照うばがいこれてる祖母井之照は伊予宇都宮氏家臣。祖母井城主。天正13年、大野直光の夜襲で城が落城し、愛馬の首を刎ね自害。命日には首なし馬が走る伝説が残る。
梅津憲忠うめづのりただ梅津憲忠は佐竹義宣に仕え、久保田藩家老として活躍。大坂の陣では「佐竹の黄鬼」と称され、武勇と政治手腕、教養を兼ね備えた文武両道の忠臣。
梅津文蔵うめづぶんぞう戦国期の秋田の商人。実在は未詳。藩政の礎を築いた武士・梅津一族の威光と、交易拠点・土崎湊で活躍した商人たちの姿が混同され生まれた伝承上の人物とされる。
梅津政景うめづまさかげ梅津政景は佐竹義宣に仕え、久保田藩の家老として活躍。院内銀山経営や岩堰用水整備に尽力し、その詳細な記録『梅津政景日記』は貴重な史料。
宇山久兼うやまひさかね出雲尼子氏の老臣。三代の主に仕え、筆頭家老を務める。月山富田城籠城戦では私財を投じて兵糧を調達し主家を支えたが、讒言により主君尼子義久に誅殺された悲劇の忠臣。
浦上国秀うらがみくにひで浦上国秀は戦国時代の浦上氏庶流。幼主・政宗の後見人として実権を握り、富田松山城主として活動。兄弟対立で権勢を失うも、晩年は摂津で活動した。
浦上則宗うらがみのりむね浦上則宗は赤松氏を再興に導いた忠臣。応仁の乱で権勢を確立し、主君政則を追放する下剋上を敢行。晩年は一族の内紛に直面するも、その死後、浦上村宗が赤松氏を滅ぼし戦国大名浦上氏の礎を築いた。
浦上政宗うらがみまさむね浦上政宗は戦国時代の播磨・備前の大名。父の死後家督を継ぎ、弟・宗景や赤松氏と対立。尼子氏と同盟するも、婚礼中に赤松政秀に襲撃され、嫡男と共に非業の死を遂げた。
浦上宗景うらがみむねかげ浦上宗景は戦国時代の備前国大名。兄との対立を制し備前を支配。毛利・尼子・三好と複雑な外交を展開するも、家臣宇喜多直家の下剋上により没落した。
浦上村国うらがみむらくに備前国の有力な国人領主。浦上氏当主。家臣団の離反や近隣大名との絶え間ない紛争に対抗し、領国の維持と支配権の確立に努めた戦国時代の武将。
浦上村宗うらがみむらむね備前国の有力な国人領主。浦上氏当主。赤松氏を圧倒し、細川高国と結んで畿内政治に関与。しかし「大物崩れ」の合戦で討死した下克上の梟雄。
卜部季武うらべすえたけ卜部季武は源頼光四天王の一人。史実の記録は乏しいが、産女との遭遇や酒呑童子討伐伝説で知られる。その名は祭祀氏族「卜部」や武門「坂上」とも結びつき、後世の文化に影響を与えた。
上井覚兼うわいかくけん上井覚兼は島津氏の重臣。武将として活躍し、家老として政務も担当。特に『上井覚兼日記』は戦国時代の貴重な史料で、彼の信仰生活や文化活動も詳細に記されている。
海野棟綱うんのむねつな海野棟綱は信濃の有力国衆。武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍との海野平合戦で敗北し、上野国へ逃亡。真田幸隆の縁者としても知られる。
海野幸義うんのゆきよし信濃国の豪族で滋野一族の惣領。隣接する武田信虎や村上義清らの連合軍と戦った海野平の戦いで討死した。彼の敗死は、一族の真田幸隆が武田氏を頼る契機となった。
海野六郎うんのろくろう海野六郎は真田十勇士の一員。史実性は低いが、真田幸村の知将・参謀として物語に登場。冷静沈着な頭脳と忠誠心で幸村を支え、大衆文化で広く親しまれる。