最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:た

「た」に属する武将:160件

武将概要
太原雪斎たいげんせっさい太原雪斎は今川義元を支えた「黒衣の宰相」。軍事・外交・教育で活躍し、甲相駿三国同盟を締結。徳川家康の師でもあった。彼の死後、今川氏は衰退した。
田結庄是義たいのしょうこれよし田結庄是義は但馬の国人領主で山名四天王の一人。織田派に傾倒し、宿敵垣屋氏と対立。垣屋続成を暗殺するも、野田合戦で敗れ自刃。田結庄氏は滅亡した。
平清盛たいらのきよもり平清盛は武士として初の太政大臣となり、日宋貿易を推進し貨幣経済を導入。しかし、後白河法皇との対立や福原遷都の失敗で孤立。源氏の挙兵の中、病死。旧時代の破壊者であり新時代の創造主でもあった。
平将門たいらのまさかど平将門は平安中期の武将。関東で反乱を起こし「新皇」と称したが、藤原秀郷・平貞盛に討たれた。怨霊として恐れられ、後に神田明神に祀られた悲劇の英雄。
平盛長たいらのもりなが平盛長は大和の国人領主。畠山氏家臣から織田・豊臣に仕え、宇智郡一揆盟主も務めた。秀次事件で高野山へ隠棲。乱世を生き抜いた地方武士の典型。
高来善三郎たかきぜんざぶろう戦国時代の淡路の船問屋。須崎の商人。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、水軍の要請を受けて百艘もの船を対馬へと回漕する重責を担った、実務能力に優れた豪商。
高木鑑房たかぎあきふさ戦国時代の武将。肥前高木城主。龍造寺隆信に抵抗し一時追放するも敗れて降伏。前田家定に裏切られ謀殺されるが、首無きまま戦ったという凄絶な伝説を残した。
高木貞久たかぎさだひさ美濃国の国人領主。斎藤氏や織田氏の狭間で家を守り、織田信孝に仕えた。信孝の自刃後は退くが、子孫は家康に召し抱えられ美濃衆高木三家の礎となった。
高城胤辰たかぎたねとき戦国時代の下総小金城主。胤吉の子。原氏被官から自立を強め、台頭する後北条氏の支配下で他国衆として重用され、葛飾郡周辺の重要な防衛・戦略的役割を担った。
高城胤則たかぎたねのり戦国時代の下総小金城主。後北条氏に臣従した国衆。小田原征伐で敗れて所領を失い信濃に蟄居され、後に豊臣氏への仕官が叶わぬまま死去した悲運の武将。
高城胤吉たかぎたねよし戦国時代の下総小金城主。原氏被官から自立。小金城を築き、第一次国府台の戦いで北条氏に与して活躍。大国の狭間で生存戦略を展開し高城氏を発展させた。
高木盛兼たかぎもりかね高木盛兼は美濃の国人から豊臣秀吉に仕え、高須城主1万石となる。関ヶ原では西軍に与し、高須城を攻められ、堀尾吉晴を頼り出雲へ。その生涯は豊臣恩顧大名の栄光と没落を象徴する。
高三隆喜たかさぶりゅうき堺の有力薬種商。息子・隆達の才能を見抜き、私財を投じて顕本寺に高三坊を建立。隆達節誕生の文化的土壌を築き、戦国期の堺の経済と文化を支えた影のパトロン。
高島正重たかしままさしげ長宗我部元親の近習。主家の改易後、山内家に仕官。旧主元親の三十三回忌に際し、その生涯を記した『元親記』を著した。文筆の才に長けた忠臣。
高島正澄たかしままさずみ戦国武将の高島正澄は播磨赤松氏の庶流。織田信長の播磨侵攻で甥の赤松政範と共に上月城に籠城し、天正5年(1577年)に殉死。その死は旧秩序の終焉と新時代の到来を象徴する。
高瀬忠行たかせただゆき佐野家臣の高瀬忠行は免鳥城代。戦死説と生存説が併存するが、1591年の文書から激動の時代を生き抜き、巧みな政治手腕で一族を存続させた可能性が高い。
高田憲頼たかだのりより高田憲頼は上野の国衆。父は小田井原で戦死。子・繁頼は武田信玄に仕え三方ヶ原で負傷死。高田氏は激動の時代を生き抜き、後に徳川旗本となった。
高田又兵衛たかだまたべえ槍の又兵衛こと高田吉次は伊賀出身の槍術家。大坂の陣で豊臣方として戦い、後に小笠原家に仕官。島原の乱で武功を挙げ、将軍家光に槍術を披露。宮本武蔵との対決も伝説的。
鷹司兼輔たかつかさかねすけ鷹司兼輔は戦国時代の公卿で、関白・左大臣を歴任。財政難の朝廷を支え、後柏原天皇の即位式遅延を経験。嫡男早世で家系が一時断絶するも、織田信長の政治的意図で再興された。
高遠頼継たかとおよりつぐ戦国時代の信濃の国衆。諏訪氏庶流。武田信玄と同盟して諏訪惣領家を滅ぼしたが、後に自らの野心から信玄に叛旗を翻して返り討ちに遭い、滅亡した高遠城主。
高梨澄頼たかなしすみより高梨澄頼は、父政盛が築いた高梨氏の全盛期と、子政頼が直面する武田信玄の侵攻の間の当主。記録は少ないが、越後長尾氏との血縁強化や村上氏との和睦で、来るべき動乱に備えた。
高梨内記たかなしないき真田信繁の傅役を務め、九度山配流にも同行した忠臣。大坂の陣では信繁と共に奮戦し、最期まで主君に仕え討ち死にした。その忠義は後世に語り継がれる。
高梨秀政たかなしひでまさ北信濃の名族高梨氏の武将。川中島の戦いで上杉軍の先鋒として奮戦するも、旧領回復の夢破れ上杉家を離反。遠江高天神城で武田軍と戦い討ち死にした。
高梨政盛たかなしまさもり高梨政盛は北信濃の国人領主。越後長尾氏と同盟し、関東管領を討ち取るなど活躍。その外交戦略は上杉謙信の台頭と川中島の戦いへ繋がった。
高梨政頼たかなしまさより北信濃の名門高梨氏当主。武田信玄の侵攻に抗し、宿敵村上義清と和睦。上杉謙信を頼り川中島の戦いを引き起こすも、旧領回復は叶わず、上杉家臣として生涯を終えた。
高梨頼親たかなしよりちか高梨頼親は北信濃の国衆。武田信玄に本拠を奪われ、上杉謙信に仕える。旧領回復後も上杉氏に忠義を尽くし、米沢藩士として家名を存続させた。
多賀山通続たかのやまみちつぐ戦国時代の備後国の武将。蔀山城主。尼子氏や毛利氏の間で勢力を保つ。山内氏の家督争いに介入して次男を惣領に据え、一族の血脈を長州藩重臣として後世に残した。
高橋鑑種たかはしあきたね戦国時代の武将。大友氏の重臣から毛利氏と結んで謀叛を起こした反逆の将。筑前宝満城主などを務めたが、最後は毛利氏に属して初代小倉城主となった。
高橋興光たかはしおきみつ石見高橋氏の若き当主。大内・尼子・毛利の狭間で翻弄され、毛利元就の謀略により一族は滅亡。その悲劇は「剣大明神」として地元で語り継がれる。
高橋紹運たかはしじょううん戦国時代の武将。大友氏の重臣。立花道雪と主家を支える。岩屋城にて島津軍五万の猛攻に対し、僅か七百余の兵で徹底抗戦し玉砕。秀吉から乱世の華と称賛された。
高橋久光たかはしひさみつ戦国時代の武将。石見国人領主。毛利興元の外戚となり、幼主幸松丸の後見人として毛利家中に干渉し全盛期を築く。備後で戦死し、死後は毛利元就の台頭を許した。
高橋弘厚たかはしひろあつ石見高橋氏の高橋弘厚は、父・久光の死後、若年の興光を後見し実権を掌握。大内氏から尼子氏へ寝返るも、毛利元就の攻撃を受け安芸松尾城で自害。高橋氏滅亡の転換点となった。
高橋統増たかはしむねます高橋紹運の次男、立花宗茂の弟。岩屋城の悲劇を乗り越え、豊臣秀吉から三池大名に。関ヶ原で改易後、徳川旗本として復活し、三池藩の礎を築いた。
高橋元種たかはしもとたね秋月種実の次男。高橋氏を継ぎ、豊臣秀吉の九州平定、関ヶ原の戦いを生き抜く。日向延岡藩主となるも、幕府の政争に巻き込まれ改易された波乱の生涯。
高原次勝たかはらつぐかつ直島領主高原次利の子。関ヶ原の戦いで東軍に与し、徳川幕府の旗本として高原氏の存続を決定づけた。大坂の陣後には小豆島で豊臣残党追捕の任務にあたった。
高原次利たかはらつぐとし讃岐直島を拠点とした水軍の将。豊臣秀吉の中国攻めで活躍し、直島領主となる。関ヶ原では東軍に与し、徳川幕府の旗本として高原氏の存続を図った。
高森惟直たかもりこれなお高森惟直は肥後阿蘇氏の重臣。主家の島津氏従属に反発し、大友氏と結び徹底抗戦。高森城で奮戦し討死。その義は「高森殿の杉」として伝わる。
高山右近たかやまうこん高山右近はキリシタン大名。高槻・明石城主として信仰を広める。豊臣秀吉の禁教令で領地を捨て、マニラへ追放され客死。2017年に福者となる。
高山友照たかやまともてる高山友照は摂津の土豪。松永久秀に仕え沢城主となる。キリスト教に改宗し、息子右近と共に信仰を広めた。荒木村重の謀反で右近と袂を分かつも、後に和解。
高屋良栄たかやよししげ丹後国の武将。名門守護一色氏の重臣として義道、義俊、義清の三代にわたり忠節を尽くす。織田軍による丹後侵攻の中、主家の滅亡に殉じた悲運の臣。
多賀貞能たがさだよし戦国・安土桃山時代の武将。近江の国人領主。浅井氏、織田氏に仕える。本能寺の変では明智方に与するが、堀秀政との人脈で助命された。茶の湯にも通じた文化人。
多賀秀種たがひでたね安土桃山・江戸初期の大名。多賀貞能の次男。豊臣政権下で大和竜田藩主となるが、関ヶ原で西軍に属し改易。後に前田利常に仕え加賀藩の重臣となり家名を繋いだ。
多賀谷重経たがやしげつね戦国・安土桃山時代の大名。常陸下妻城主。結城氏から独立し佐竹氏と結び全盛期を築く。小田原征伐で所領を得るが、関ヶ原の戦いで西軍に同調し改易され没落した。
多賀谷政広たがやまさひろ戦国・江戸初期の武将。結城氏の家臣。家康の次男結城秀康の養子縁組を成功させ主家存続に貢献。後に秀康に従い越前福井藩に移り、重臣として家名を残した。
滝川一益たきがわかずます滝川一益は織田信長の重臣。鉄砲術に長け、伊勢平定や長篠の戦いで活躍。関東管領となるも、本能寺の変後、神流川で敗れ不遇の晩年を送った。
滝川辰政たきがわときまさ滝川辰政は滝川一益の子。小田原征伐で武功を上げ、朝鮮出兵、関ヶ原で活躍。小早川秀秋のもとを離れ池田家に仕え、岡山藩番頭として泰平の世で大往生を遂げた。
滝川益重たきがわますしげ織田信長の関東方面軍司令官滝川一益の甥。甲州征伐で武田勝頼を討ち取り、沼田城代となる。本能寺の変後、神流川の戦いで敗れるも、豊臣秀吉に仕え九州征伐に従軍した。
田北鎮周たきたしげかね田北鎮周は大友家の重臣として武功を重ねたが、耳川の戦いで軍令を無視し突撃、壮絶な討死を遂げた。その行動は大友氏没落の序曲となり、悲劇の猛将として語り継がれる。
滝野吉政たきのよしまさ滝野吉政は伊賀国人衆の指導者。天正伊賀の乱で織田軍に抵抗し、柏原城で籠城。人命保護のため降伏。本能寺の変後は旧敵に追われ消息不明。
沢彦宗恩たくげんそうおん沢彦宗恩は臨済宗妙心寺派の禅僧。織田信長の教育係を務め、「岐阜」命名や「天下布武」印の発案に関わったとされる。信長の精神的・文化的パートナーとして影響を与えた。
田鎖光守たくさりみつもり奥州閉伊源氏の宗家田鎖氏の当主田鎖光守は、南部氏の圧迫に抵抗。天正15年、南部信直への出仕を拒み討ち死にしたとされる。その死後、子光好は南部氏に臣従し、田鎖氏は盛岡藩士として存続。
多久安順たくやすとし戦国・江戸初期の武将。佐賀藩の執政。龍造寺一門ながら鍋島体制の確立を支持し藩政安定に貢献。陶工の李参平を支援し、有田焼の誕生を後押しした。
竹口孫十郎たけぐちまごじゅうろう竹口孫十郎は桑名の荷駄商人。自由都市「十楽の津」で育ち、織田信長や関ヶ原の戦い、本多忠勝の「慶長の町割」を経験。激動の時代に翻弄されつつも、新たな秩序に適応し生き抜いた。
竹崎季長たけざきすえなが鎌倉御家人、竹崎季長は元寇で武功を立て、恩賞を求め鎌倉へ直訴。安達泰盛に認められ地頭職を得た。自らの戦功を『蒙古襲来絵詞』に遺し、武士の鑑として名を刻む。
武田勝頼たけだかつより武田勝頼は信玄の四男。高天神城攻略で武威を示すも、長篠の戦いで大敗。御館の乱での外交失敗や家臣の離反が重なり、甲州征伐で滅亡した。
武田逍遥軒たけだしょうようけん武田逍遥軒信廉は信玄の同母弟。親族衆筆頭として武田家を支え、信玄の影武者も務めた。画才に優れ、父信虎・母大井夫人の肖像画は傑作。甲州征伐で処刑された。
武田信玄たけだしんげん甲斐国の戦国大名。「甲斐の虎」と畏怖された戦国最強の騎馬軍団を率い、上杉謙信と川中島の戦いで覇を競い、織田信長をも恐れさせた偉大なる英主。
武田高信たけだたかのぶ因幡の梟雄・武田高信は、山名氏の客将から下剋上を成し遂げ因幡国主となる。毛利氏を背景に権勢を誇るも、尼子再興軍に敗れ失脚。最期は諸説あり、戦国乱世の地方権力者の悲哀を映す。
武田信勝たけだのぶかつ武田信勝は武田勝頼の嫡男で、織田信長の姪を母に持つ。信玄の遺言で形式的に家督を継ぐも、権威の空洞化を招いた。甲州征伐で父と共に天目山で自害。その死は武田家嫡流の血の清算という儀式であった。
武田信実たけだのぶざね武田信実は安芸武田氏11代当主。尼子氏の意向で家督を継ぐも家臣を統制できず、毛利元就に敗れ領国を失う。後に幕府御供衆として流転の生涯を送った。
武田信繁たけだのぶしげ武田信繁は信玄の実弟。武勇と知略、仁徳を兼ね備え、兄を支え武田家発展に貢献。川中島で壮絶な最期を遂げ、「まことの武将」と称された。家訓は武士の模範。
武田信重たけだのぶしげ武田信重は安芸武田氏の武将。当主光和の甥。家督争いに敗れるも、佐東銀山城落城時に最後の城主として毛利軍に抵抗し自刃。安国寺恵瓊の父とされる。
武田信縄たけだのぶつな武田信縄は武田信玄の祖父。父信昌と弟信恵との家督争いに終始し、甲斐国を内乱状態に陥れた。その苦闘は次代信虎による甲斐統一の土壌となった。
武田信豊たけだのぶとよ甲斐武田氏かいたけだし武田信豊(甲斐武田氏)は武田信繁の子で信玄の甥。勝頼政権の重鎮。長篠の戦いにも参戦。甲州征伐で小諸城にて母・子と共に自刃。享年34歳。
武田信豊たけだのぶとよ若狭武田氏わかさたけだし若狭国の守護大名。若狭武田家当主。室町幕府と緊密に連携して畿内政治に影響を及ぼすも、後に家中や国人の離反を招き勢力を衰退させた悲劇の守護。
武田信虎たけだのぶとら武田信虎は信玄の父。甲斐国を統一し甲府を開府。強硬な統治で「暴君」と評されるも、武田氏隆盛の礎を築いた。後に嫡男・晴信に追放された。
武田信昌たけだのぶまさ武田信昌は武田信玄の曾祖父。守護代跡部氏を討伐し「武田家中興の祖」と称されたが、晩年に次男信恵を寵愛し、嫡男信縄との家督争いを引き起こし、甲斐を長期の内乱に陥れた。
武田信吉たけだのぶよし徳川家康の五男・武田信吉は、武田家名跡を継ぎ、関ヶ原で江戸城留守居役を務め、水戸藩初代藩主となるも21歳で病死。徳川の天下統一に貢献した。
武田信義たけだのぶよし武田信義は甲斐源氏の棟梁。源頼朝と並び立つ独立勢力として挙兵し、富士川の戦いで活躍。頼朝の警戒を受け嫡男を誅殺され、失意のうちに没するが、武田信玄の祖として後世に名を残す。
武田光和たけだみつかず武田光和は安芸武田氏当主。父の死後、尼子氏と結び大内氏と対立。佐東銀山城防衛で武威を示すも、家臣の離反と急死により安芸武田氏は滅亡した。
武田元明たけだもとあき武田元明は若狭武田氏最後の守護。朝倉氏に幽閉され、信長に領国を奪われる。本能寺の変で明智光秀に与するも敗死。旧名門の悲劇を体現した。
武田元繁たけだもとしげ武田元繁は安芸武田氏の猛将。「西国の項羽」と称され、安芸国統一を目指したが、有田中井手の戦いで毛利元就に敗死。彼の死は毛利氏台頭の契機となった。
武田元信たけだもとのぶ武田元信は若狭守護。細川政元と結び中央政局で活躍。領国では土一揆や一色氏との戦いに苦悩するも、若狭武田氏の戦国大名化の礎を築いた。文化人としても一流。
武田元光たけだもとみつ武田元光は若狭守護。後瀬山城を築き領国を固めるも、桂川原の戦いで大敗し権威を失墜。中央政局に翻弄され、若狭武田氏衰退の契機となった。
武田義信たけだよしのぶ武田信玄の嫡男。勇猛な武将として期待されたが、外交方針を巡り父と対立。廃嫡され幽閉の末に30歳で病没した。武田家滅亡の遠因となった悲劇の世子。
武田義統たけだよしむね若狭国の守護大名。若狭武田氏の当主。室町幕府と結んで畿内政治に関与するも、領内国人の台頭や家督争いによる内乱を抑えきれず勢力を衰退させた。
竹中重門たけなかしげかど竹中重門は竹中半兵衛の嫡男。関ヶ原で東軍に転じ小西行長を捕縛。旗本交代寄合として家名を存続させ、林羅山に師事し『豊鑑』を著すなど文化人としても活躍した。
竹中重利たけなかしげとし竹中重利は豊後府内藩初代藩主。竹中半兵衛の縁者。関ヶ原で東軍に転じ、府内城と城下町を整備し大分市の礎を築く。文化人。子の重義失脚で家は断絶。
竹中重義たけなかしげよし竹中重義は豊後府内藩主、竹中半兵衛の甥。松平忠直監視後、長崎奉行に就任しキリシタン弾圧を推進。密貿易や妖刀村正所持嫌疑で失脚、一族断絶。
竹中半兵衛たけなかはんべえ竹中半兵衛は「今孔明」と称された天才軍師。16人で稲葉山城を乗っ取り主君を諫めた。秀吉の軍師として活躍し、黒田官兵衛と「両兵衛」と並び称された。松寿丸を救うなど固い絆で結ばれ、36歳で病死。
竹貫広光たけぬきひろみつ竹貫広光は戦国期南奥州の豪族。史料が乏しいため、一族や主家岩城氏、息子重光の生涯から実像を再構築。岩城家臣として佐竹・白河結城間の調停役を務めたとされる。
竹内久盛たけのうちひさもり美作一ノ瀬城主。宇喜多直家に敗れ下野後、日本最古の柔術・竹内流を創始した。武家奉公を禁ずる家訓を遺し、技を民衆に広めて後世の柔術の源流を築いた稀代の武術家。
竹腰正信たけのこしまさのぶ竹腰正信は家康側室お亀の方の連れ子。尾張藩付家老として義直を補佐し藩政を主導。家康救出、大坂の陣で武功、砲術披露で秀忠から加増。武功と行政手腕で徳川体制を支えた。
武野紹鴎たけのじょうおう戦国時代の堺の豪商・茶人。別名武野新右衛門。茶の湯における「わび茶」の創始者の一人であり、千利休の師として茶道形成に多大な影響を与えた達人。
竹俣慶綱たけのまたよしつな竹俣慶綱は越後揚北衆。謙信家臣として川中島で武功、御館の乱で景勝を支持し甲越同盟に貢献。魚津城で織田軍と戦い、本能寺の変翌日に自刃した忠臣。
竹若常房たけわかつねふさ竹若常房は博多織の革新者で、その子重利(伊右衛門)と共に秀吉や黒田長政に献上し、博多織を「献上博多織」として確立。彼らは激動の時代を技術と戦略で生き抜いた職人商人。
多功長朝たこうながとも多功長朝は下野宇都宮氏の重臣。喜連川五月女坂の戦いで主君尚綱が討死後、宇都宮城を奪還。多功ヶ原の戦いでは上杉謙信の侵攻を撃退し、宇都宮氏の危機を救った。
多功房朝たこうふさとも戦国・安土桃山時代の武将。宇都宮氏の家臣。多功城主。宇都宮氏の「南の盾」として、領国を窺う北条氏の軍勢を幾度も多功城で撃退し、主家の存続に大きく貢献した。
多胡辰敬たごときたか戦国時代の武将。尼子家臣。刺賀岩山城主。合理的な生存の心得を説いた『多胡辰敬家訓』の著者。子孫は津和野藩亀井家の筆頭家老を代々務めた。
田坂全慶たさかぜんけい安芸沼田小早川氏の執権で稲村山城主。毛利元就の三男である小早川隆景の家督相続に激しく反対したため謀殺され、居城も毛利軍に攻められて落城した悲劇の将。
田尻鑑種たじりあきたね田尻鑑種は筑後の国人。大友氏に仕え、後に龍造寺隆信に帰順。蒲池氏滅亡に加担後、龍造寺氏に反旗を翻すも和睦。豊臣秀吉の九州平定後、鍋島直茂に仕え、文禄の役で戦死した。
多田三八郎たださんぱちろう戦国時代の武将.武田信虎、信玄に仕えた足軽大将。「武田の五名臣」の一人。信濃侵攻時の諸戦で先鋒として活躍し、妖怪「火車」を退治したという伝説でも知られる。
立原久綱たちはらひさつな立原久綱は尼子氏の智将で「尼子三傑」の一人。白鹿城の戦いで殿軍を務め、月山富田城開城交渉役。毛利氏の仕官を断り、山中幸盛と共に尼子再興運動を支えた。
立花鑑載たちばなあきとし立花鑑載は旧立花氏最後の当主。大友宗麟に二度反旗を翻し、毛利氏と結び立花山城に籠城。家臣の裏切りで城が陥落し死去。彼の死後、戸次鑑連が立花氏を継承した。
立花忠茂たちばなただしげ立花忠茂は宗茂養嗣子で柳川藩二代藩主。将軍秀忠から厚遇され、島原の乱で武功。藩政安定化、文教振興に尽力し、伊達騒動にも関与。64歳で死去。
立花種次たちばなたねつぐ立花種次は、筑後柳河藩主立花宗茂の養子。大坂夏の陣で初陣を飾り、島原の乱でも活躍。宗茂の死後、家督を継ぎ、柳河藩の安定に尽力した。文武両道に秀でた武将。
立花道雪たちばなどうせつ立花道雪は大友氏の重臣で「雷神」と恐れられた猛将。二階崩れの変で宗麟を支持。多々良浜の戦いで毛利軍を破り、立花山城を守り抜いた。落雷で半身不随となるも輿で指揮を執り続けた。
立花宗茂たちばなむねしげ立花宗茂は高橋紹運の子で立花道雪の養子。九州平定や朝鮮出兵で活躍し「九州の逸物」と称された。関ヶ原で西軍につき改易されるも、後に旧領柳河に復帰。義を貫いた名将。
橘屋三郎左たちばなやさぶろうざ越前の豪商、橘屋三郎左は朝倉氏に薬種業の特権を得て台頭。信長による越前平定後も、経済力と情報網を評価され、柴田勝家のもとで活躍した戦国期の政商。
立石正賀たていしまさよし立石正賀は長宗我部氏の家臣。関ヶ原後、降伏使者を務め、浦戸一揆鎮圧に協力。細川忠興に破格の待遇で仕官し、家名を再興した。軍記物『長元記』の著者とされる。
楯岡満茂たておかみつしげ楯岡満茂は最上義光の重臣。最上八楯に反旗を翻した楯岡氏の分家出身。慶長出羽合戦で活躍し、由利郡を領した。最上家改易後は酒井忠世に仕えた。
田中甚五郎たなかじんごろう田中甚五郎は土佐須崎の商人としては史料未確認。後北条氏家臣に同名武士が実在。須崎は津野氏・長宗我部氏支配下の港町で、堺商人とも交易。
田中忠政たなかただまさ田中吉政の四男で筑後柳川藩二代藩主。治水等に尽力するが、禁教令下でキリシタンを保護し大坂夏の陣に遅参、元和6年に36歳で嗣子なく病没し改易された武将。
田中吉興たなかよしおき筑後柳河藩主・田中吉政の三男。病弱を理由に弟の忠政に家督を譲るも、本家改易の際に父の関ヶ原の功により二万石で家名を特別に再興し、名跡を継承した武将。
田中吉次たなかよしつぐ戦国から江戸初期の武将。田中吉政の二男。筑後柳川藩の支藩である久留米城主などを務め、一族の勢力維持や領国統治の安定化に努めた戦国時代の武将。
田中吉政たなかよしまさ豊臣秀次の筆頭家老。近江八幡堀開削や岡崎城下町整備など土木手腕に優れ「土木の神」と称された。関ヶ原で石田三成を捕縛し筑後柳川藩主となるも、子の代で改易された。
田中与兵衛たなかよへえ戦国時代の堺の有力商人。茶聖として知られる千利休の父親。堺で魚問屋や倉庫業を営み、自治都市の町衆として活躍して一族の経済と文化的基盤を支えた。
谷柏直家たにがしわなおか谷柏直家は最上義光の忠臣。慶長出羽合戦で谷柏城を守り、寡兵で上杉軍を翻弄。討ち取られた友軍の将の首を奪還するなど、智勇兼備の活躍を見せた。
谷忠澄たにただずみ谷忠澄は土佐の神官出身で長宗我部元親の重臣。四国征伐で元親に降伏を勧告し主家を救う。戸次川戦後処理や民政に尽力。関ヶ原直後に病死し、長宗我部家改易の一因となった。
谷衛友たにもりとも谷衛友は美濃の土豪出身。信長・秀吉・家康に仕え、三木合戦で初陣。関ヶ原で西軍に属しながら細川幽斎と内通し本領安堵。丹波山家藩初代藩主となり、血脈は皇室に繋がった。
種子島恵時たねがしましげとき種子島恵時は島津貴久に加勢し、禰寝氏と抗争。鉄砲伝来時の当主で、高額で購入・国産化を主導。内訌や敗戦を経験しつつ、日本の歴史を変える決断を下した。
種子島忠時たねがしまただとき種子島忠時は12代当主。琉球との交易で富を築き、屋久島に楠川城を築城。島津氏との同盟や「大的始式」創始で領国を安定させ、孫の時堯による鉄砲伝来の礎を築いた。
種子島時堯たねがしまときたか種子島時堯は鉄砲伝来時の種子島領主。16歳で鉄砲2挺を高額購入し、国産化を主導。その技術は全国に広まり、戦国時代の戦術・城郭・武具に革命をもたらした。
種子島久時たねがしまひさとき種子島久時は鉄砲伝来の種子島家当主。沖田畷・朝鮮出兵で活躍。太閤検地で移封も復帰。鉄砲記編纂を主導し、家の由緒を確立。遺腹の子により家名存続。
田原重綱たはらしげつな田原重綱は伊勢の国人領主。浜田城主。父元綱が滝川一益軍と戦死後、美濃へ逃れる。織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いで討死し、田原家は断絶した。
玉置小平太たまきこへいた紀伊国衆・玉置小平太(永直)は、豊臣秀吉の紀州征伐で手取城を失う。関ヶ原で西軍につき改易されるも、大坂の陣で豊臣方に加担。その後、徳川家康の命で尾張藩士となり、家名を再興した。
玉木吉保たまきよしやす玉木吉保は毛利家臣で、戦国末期から江戸初期を生きた文武両道の士。自叙伝『身自鏡』は当時の社会を克明に記す。医術にも専心し、その家系は幕末の教育者・玉木文之進へ繋がる。
玉越三十郎たまこしさんじゅうろう尾張の具足屋で桑名の商人。織田家を追放された長谷川橋介らに武田軍の接近を急報し、退去の勧めを拒んで三方ヶ原の戦いに参陣、武士と共に討死した忠義の町人。
田丸直昌たまるなおまさ北畠氏庶流の武将。織田信雄に仕えた後、蒲生氏郷の妹婿となり三春城主等を歴任。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため改易となり、配流先の越後で出家して没した。
田村顕盛たむらあきもり三春田村氏の一門。小野城主。通説では相馬派の反逆者とされるが、近年の研究では伊達氏との協調を目指した忠臣と再評価。天正田村騒動で権力闘争に敗れ失脚した。
田村清顕たむらきよあき田村清顕は陸奥田村氏の当主。伊達政宗の岳父。娘愛姫を政宗に嫁がせ伊達氏と同盟。後継者なく死去し、田村家は改易されたが、後に愛姫の尽力で再興された。
田村隆顕たむらたかあき陸奥三春城主で田村氏24代当主。伊達稙宗の娘を娶り従属するも、天文の乱後に自立。蘆名や佐竹ら強国を相手に巧みな外交を展開し領国を維持した策略家の武将。
田村友顕たむらともあき当主・田村清顕の弟。嗣子のない兄に代わり唯一の男子後継者候補とされたが、天正十二年に大内定綱との戦いで戦死。彼の死が田村家滅亡へ至るお家騒動の契機となった。
田村宗顕たむらむねあき陸奥三春城主。伯父清顕の死後、伊達政宗に擁立され名代となる。小田原征伐に参陣せず秀吉に改易され、後に牛縊定顕と改名し伊達家臣の片倉氏の庇護下に入った。
田村義顕たむらよしあき田村義顕は陸奥の戦国大名。三春城を築き、領国支配の基盤を確立。伊達氏や岩城氏との婚姻外交で勢力を安定させ、田村氏発展の礎を築いた。
多目元忠ためもとただ戦国時代の武将。後北条氏の重臣。早雲以来の「御由緒家」当主。河越夜戦で退き太鼓を鳴らして主君氏康を救ったと伝わる、北条「黒備え」を率いた伝説的な軍師。
多羅尾光俊たらおみつとし戦国・江戸初期の近江の武将。徳川家康の伊賀越えを支援。豊臣秀次に接近し一時失脚したが、かつての功で家康に許され旗本として家名を繋いだ。
田原紹忍たわらじょうにん戦国時代の大友氏の重臣。宗麟の義兄として重用され、耳川の戦いで敗将となるも軍事行政で活躍し、大友氏の滅亡後は主家のために殉じた忠義の武将。
田原親家たわらちかいえ田原親家は大友宗麟の次男。キリシタン。田原家を継承するも兄義統と対立し、島津氏に内通。大友家改易後、細川氏に仕え、松野氏の祖となる。
田原親盛たわらちかもり田原親盛は大友宗麟の三男。田原親賢の養子となり、豊前方面で活動。戸次川の戦いに従軍。大友氏改易後、細川家に仕え、松野氏の祖となる。
大掾清幹だいじょうきよもと大掾清幹は常陸大掾氏最後の当主。佐竹氏と対立し、後北条氏と結ぶ。小田原征伐不参陣で所領没収、府中城落城で自害。大掾宗家は滅亡した。
大掾貞国だいじょうさだくに戦国時代の武将。常陸の名族大掾氏の当主。府中城主。佐竹氏の侵攻や圧力を防ぎ領国を維持したが、小田原征伐での不参を契機に佐竹氏に攻められ本宗家は滅亡した。
大掾慶幹だいじょうよしもと大掾慶幹は常陸の豪族。1546年長者原で小田政治を撃退し小高城を奪還。彼の死後、大掾氏は佐竹氏に圧迫され衰退、曽孫清幹の代に滅亡した。
大山寺乗晄だいせんじじょうこう伯耆国の大山寺の武僧。戦乱に巻き込まれる大山寺の維持と勢力防衛に尽力し、尼子氏や毛利氏などの大国の狭間で寺院支配を維持した不屈の宗教指導者。
大泉寺竜玄だいせんじりゅうげん歴史史料に存在が確認されない人物。一向宗の僧侶とされるが、実在の越後大泉寺は真言宗であり、ゲーム等の創作から生じた架空の人物と推測される。
大道寺直次だいどうじなおつぐ大道寺直次:後北条氏旧臣。主家滅亡後、遠山姓を名乗り諸大名に仕える。関ヶ原で戦功を挙げ、徳川幕府旗本として大道寺姓を再興。81歳で没した。
大道寺直英だいどうじなおひで大道寺直英:後北条氏旧臣。築城技術に優れ、名古屋城築城に携わる。津軽信枚に招聘され弘前藩家老となり、弘前城築城に貢献。船橋騒動収拾にも尽力した。
大道寺直昌だいどうじなおまさ大道寺政繁の次男で、直重とも名乗る戦国武将。後北条氏の滅亡後は前田利長を経て徳川義直の家臣となり、尾張藩重臣として名家の礎を築いた。
大道寺政繁だいどうじまさしげ大道寺政繁:後北条氏宿老。河越・松井田城主を歴任し、内政・軍事両面で活躍。小田原征伐で降伏後、秀吉の命で自害。子孫は諸大名に仕え存続。
大道寺盛昌だいどうじもりまさ大道寺盛昌:後北条氏宿老。北条早雲・氏綱・氏康の三代に仕え、鎌倉代官や鶴岡八幡宮造営総奉行を歴任。河越城代として武蔵統治に貢献した。
大宝寺澄氏だいほうじすみうじ室町・戦国期の出羽国の領主。大宝寺政氏の子。将軍足利義澄から偏諱を賜り、中央の権威を利用して庄内支配を強化した。一方で砂越氏との対立を本格化させた。
大宝寺晴時だいほうじはるとき大宝寺晴時は出羽庄内の大名。砂越氏との内紛や周辺大名に苦しむ中、将軍から偏諱を受け権威を確立。尾浦城へ移転し、日本海交易で富を得るも早逝。
大宝寺政氏だいほうじまさうじ室町・戦国期の出羽の領主。幕府の権威を利用しつつ出羽三山の「羽黒山別当」を掌握。世俗と宗教の権威を融合した支配基盤を確立し、大宝寺氏の戦国大名化の礎を築いた。
大宝寺義氏だいほうじよしうじ大宝寺義氏は出羽庄内の大名。上杉謙信と関係を築き、織田信長に接近し屋形号を得る。強引な政策で「悪屋形」と呼ばれ、家臣の謀反で自害した。
大宝寺義興だいほうじよしおき大宝寺義興は庄内大宝寺氏当主。最上氏に対抗し上杉氏と連携、本庄氏から養子を迎える。最上軍に敗れ自害し、武藤系大宝寺氏の終焉を招いた。
大宝寺義増だいほうじよします出羽の戦国大名。大宝寺氏当主。最上氏の圧迫に対抗し周辺と連携するも、本庄繁長の乱に与し上杉謙信に降伏。人質を差し出し強制隠居させられた。
大物寺浄祐だいもつじじょうゆう大物寺浄祐は摂津国大物の一向宗指導者で、大物総道場を拠点とした。信仰と武力を兼ね備え、石山合戦で活躍。戦国畿内史の激動を体現した人物。
大林坊俊海だいりんぼうしゅんかい大林坊俊海は羽前の忍者頭領とされるが、史実性は低い。伊達政宗に仕えた黒脛巾組の一員として人取橋・摺上原で活躍したとされるが、江戸期の創作の可能性が高い。
太宰金助だざいきんすけ伊達政宗に仕えたとされる忍者集団・黒脛巾組の忍び。人取橋の戦いにおいて佐竹・蘆名連合軍の侵攻計画を看破し主君政宗へ早馬で注進した。
伊達小次郎だてこじろう伊達小次郎は政宗の弟。通説では兄に殺されたとされるが、生存説では政宗と母による偽装工作で僧となり天寿を全うしたとされ、後者が有力。
伊達実元だてさねもと陸奥国の戦国大名。伊達稙宗の三男。天文の乱では父を支えて晴宗方と抗戦。乱後は伊達家一門の重鎮として、甥の輝宗や政宗の三代にわたり家中を支えた。
伊達成実だてしげざね伊達成実は伊達政宗の従兄弟で「伊達の双璧」と称された猛将。人取橋や摺上原で活躍。一時出奔するも帰参し、亘理伊達家を創設。領国経営にも手腕を発揮し、晩年には『成実記』を著した。
伊達忠宗だてただむね伊達政宗の嫡男。徳川家との縁組で家督を継承し、仙台藩二代藩主となる。藩政改革を断行し、藩の安定と発展の礎を築いた「守成の賢君」と称される。
伊達稙宗だてたねむね伊達稙宗は伊達家14代当主。婚姻政策と武力で南奥羽に勢力を拡大し、分国法『塵芥集』を制定。しかし急進的な中央集権化が天文の乱を招き失脚。
伊達輝宗だててるむね伊達輝宗は伊達政宗の父。天文の乱後の伊達家を安定させ、巧みな外交と内政で基盤を築いた。政宗に家督を譲るも、二本松事件で畠山義継に拉致され非業の死を遂げた。
伊達晴宗だてはるむね伊達晴宗は伊達家15代当主。父稙宗との天文の乱、子輝宗との元亀の変という二度の内乱を経験。米沢に本拠を移し、婚姻外交で伊達家を再編した過渡期の統治者。
伊達尚宗だてひさむね伊達尚宗は内紛を乗り越え、将軍擁立を企図し、婚姻政策で伊達氏の地位を向上させたが、未解決の課題を残し、後の天文の乱の遠因を作った。
伊達秀宗だてひでむね伊達政宗の長男。豊臣秀吉の猶子となるも家督を失い、伊予宇和島藩主となる。藩政の苦悩から家臣を殺害するも、父との和解を経て藩の礎を築いた。
伊達政宗だてまさむね伊達政宗は奥州の独眼竜。戦国から江戸初期の武将で、戦略家・政治家・文化庇護者。仙台藩初代藩主として領土拡大、経済・文化振興に尽力。
伊達盛重だてもりしげ伊達盛重は政宗の叔父。国分氏を継ぐも実権を失い佐竹氏へ出奔。佐竹家臣として横手城代を務め、大坂冬の陣で奮戦。血脈は秋田伊達家と古内家へ。