最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:ひ

「ひ」に属する武将:44件

武将概要
比叡山覚恕ひえいざんかくじょ安土桃山時代の天台座主。後奈良天皇の二男。比叡山延暦寺の維持に尽力するも、織田信長による比叡山焼き討ちに遭い、のちに甲斐武田氏を頼った高僧。
稗貫稙重ひえぬきたねしげ稗貫稙重は陸奥の豪族・稗貫氏の当主。将軍足利義稙から偏諱を受け、葛西・伊達氏との戦略的養子縁組で一族の再興を図ったが、その死後、稗貫氏は求心力を失い、豊臣秀吉の奥州仕置で滅亡した。
稗貫輝時ひえぬきてるとき稗貫輝時は奥州の国人領主。斯波氏からの養子で、将軍義輝から偏諱を賜る。南部氏の脅威に苦闘し、奥州仕置で改易。和賀・稗貫一揆で抵抗するも滅亡した。
稗貫晴家ひえぬきはるいえ稗貫晴家は奥州の国人領主。葛西氏出身で伊達氏の血を引く。鳥谷ヶ崎城を本拠とし、南部氏に対抗するため和賀氏・斯波氏と同盟。後継者問題で一族は弱体化し、豊臣秀吉の奥州仕置で滅亡した。
稗貫広忠ひえぬきひろただ稗貫広忠は奥州の国人領主。和賀氏出身で稗貫氏を継ぐ。豊臣秀吉の小田原征伐に不参陣で改易され、和賀・稗貫一揆を起こすも鎮圧され滅亡。その末路は諸説ある。
日笠頼房ひかさよりふさ備前の浦上氏宿老で日笠青山城主。宇喜多直家の謀反に際しても忠節を尽くし堅城を守った。天神山城落城後も主君宗景に付き従い、異郷の播磨で最期を迎えた不屈の忠臣。
樋口兼豊ひぐちかねとよ樋口兼豊は直江兼続の実父。上杉景勝の腹心として御館の乱で活躍し、直峰城主となる。米沢移封後は城代として藩政を支え、最上氏への諜報活動も担った。
彦山喜安ひこやまきあん修験道の聖地・英彦山の住持。大内氏や大友氏などが争うなか、平時は信仰を広めて坊舎を維持し、有事には一軍を率いて合戦に参加したと伝わる宗教者であり戦士。
久武親直ひさたけちかなお久武親直は長宗我部家の有能な武将だが、権力欲と策謀で忠臣を粛清し、主家滅亡を招いた奸臣と評される。後世の物語で悪役化された側面も。
久武親信ひさたけちかのぶ長宗我部氏の筆頭家老で佐川城主。元親の信頼厚い智勇の将。南伊予攻略中に、岡本城の戦いで土居清良の鉄砲部隊による奇襲を受け、壮絶な戦死を遂げた武将。
菱刈隆秋ひしかりたかあき菱刈隆秋は北薩摩の国人領主。島津氏に徹底抗戦し、相良氏と結ぶ。大口・菱刈の戦いで敗れ、人吉へ亡命。菱刈宗家は滅亡したが、家は存続。
土方雄氏ひじかたかつうじ土方雄氏は豊臣政権下で出世するも家康暗殺計画の嫌疑で失脚。関ヶ原の戦いを機に復活し、伊勢菰野藩祖となる。激動の時代を生き抜いた武将の生涯。
土方雄重ひじかたかつしげ土方雄久の次男。徳川秀忠の小姓を務めて父の遺領を継ぐ。大坂夏の陣で首級八つを挙げる抜群の武功を立て、戦後に二万石に加増され陸奥窪田藩主となるも、早世した武将。
土方雄久ひじかたかつひさ織田信雄の懐刀。岡田重孝ら三家老を誅殺し、後に家康暗殺疑いで改易。関ヶ原で前田利長を東軍に導いて復帰し多古藩主となり、晩年は将軍・秀忠の御伽衆を務めた。
日高喜ひだかこのむ波多氏の家臣。御家騒動で父を毒殺され復讐を誓う。岸岳城を奪取し壱岐を制覇して「壱岐守護」を称した。松浦氏に属し壱岐の帰属を決定づけた下剋上の体現者。
仁杉五郎三郎ひとすぎごろさぶろう仁杉五郎三郎は土佐の商人ではなく、後北条氏の武士。須崎の商人という情報は、関東の武士の物語と四国の港町の歴史が混同された伝承である。
一栗高春ひとつくりたかはる一栗高春は奥州大崎氏の家臣。葛西・大崎一揆で奮戦後、最上義光に仕え千石を与えられる。鶴岡城番も務めたが、最上家の内訌に巻き込まれ誅殺されたと伝わる。
一柳直盛ひとつやなぎなおもり戦国から江戸初期の武将。一柳直末の弟。関ヶ原の戦いでは東軍に味方して功績を挙げ、伊勢神戸藩主や伊予西条藩の初代藩主として一柳家の礎を築いた。
日夏三郎兵衛ひなつさぶろうべえ戦国期米子の商人・日夏三郎兵衛は、近江武士から転身。六角氏滅亡で流浪後、中村氏の米子入封を機に移住し再起。武士の誇りを胸に商才を発揮、商都米子の発展を支えた。
日根野高弘ひねのたかひろ豊臣秀吉に仕えた実務家大名。信濃諏訪の領主となり、先進工法を用いて「諏訪の浮城」と称される高島城を築城し、柔軟な税制等の優れた治績を残した戦国武将。
日根野弘就ひねのひろなり日根野弘就は斎藤・今川・浅井・織田・豊臣に仕え、乱世を生き抜いた武将。革新的な兜を考案し、武勇と現実主義で一族を大名に押し上げた。
日根野吉明ひねのよしあき日根野吉明は徳川家康に仕えた大名。関ヶ原・大坂の陣で功績。豊後府内藩主として初瀬井路を開削し名君と称されたが、嗣子なく日根野家は断絶。
百武賢兼ひゃくたけともかね百武賢兼は龍造寺隆信の四天王筆頭。武勇に優れ「百武」姓と「賢」の偏諱を賜る。主君の非道に涙しつつも、沖田畷の戦いで隆信に殉死。その家名は鍋島藩士として存続し、子孫は多方面で活躍した。
下間頼次ひょうご下間頼次(兵庫)は茶人として本願寺の経済・外交を支え、頼龍(按察使)は石山合戦で活躍し東本願寺創設に貢献。混同されがちな二人の下間像を明確化する。
平井経治ひらいつねはる肥前須古城主。有馬氏の姻戚で、難攻不落の須古城を拠点に「肥前の熊」龍造寺隆信の猛攻に十数年も抵抗し、「当代無双の勇将」と称えられた誇り高き国人領主。
平岩親吉ひらいわちかよし平岩親吉は家康の幼馴染みで忠臣。信康・義直の傅役を務め、甲斐統治や尾張徳川家の礎を築いた。私心なき忠誠は「三河武士の鑑」と称される。
平岡直房ひらおかなおふさ伊予国の武将。河野氏の重臣。荏原城主。主家滅亡後は関ヶ原の戦いにおいて旧主家再興を掲げ蜂起するも敗北。のちに長州藩士として存続した戦国武将。
平岡房実ひらおかふさざね平岡房実は戦国伊予の武将。衰退する河野氏の執政として、智勇と政略で主家を支えた。その死後、河野氏は滅亡へ向かうが、一族は存続した。
平岡頼勝ひらおかよりかつ平岡頼勝は関ヶ原で小早川秀秋を東軍に寝返らせた功労者。美濃徳野藩主となるも二代で改易。家は旗本として存続。乱世を生き抜いた策略家。
平賀隆宗ひらがたかむね戦国時代の安芸の武将。祖父と共に親大内派を貫き、親尼子派の父を追放して家督を継承。大内氏の将として備後神辺合戦で活躍したが、陣中で病死した。
平賀広相ひらがひろすけ平賀広相は、安芸国の国人領主。一族の内紛と家督簒奪を乗り越え、毛利元就の支援で家督を奪還。厳島の戦いで活躍し、毛利家臣として地位を確立した。
平賀元相ひらがもとすけ平賀元相は戦国から江戸初期を生き抜いた武将。毛利家臣として活躍後、関ヶ原で減封され浪人。京で隠棲し茶の湯に傾倒、茂庵と号す。晩年は萩で99歳で大往生。
平瀬義兼ひらせよしかね戦国時代の信濃国人・平瀬義兼は、武田氏の侵攻に対し、主家への忠義と郷土防衛のため平瀬城で徹底抗戦し、壮絶な生涯を閉じた武将である。
平田舜範ひらたきよのり平田舜範は蘆名氏重臣。忠臣と裏切り者の二面を持ち、主家滅亡時に一族存続のため伊達政宗に内通。戦国武将の現実主義を体現し、一族は生き残った。
平田範重ひらたのりしげ平田範重は蘆名氏の宿老。父舜範の代から蘆名家を支え、松本行輔の乱鎮圧や伊達軍撃退で活躍。蘆名家滅亡後は伊達政宗に帰順。上杉家の減封後も一族を武士と農民に分け、したたかに存続させた。
平田光宗ひらたみつむね平田光宗は島津氏の老中。庶流から嫡流を継ぎ、島津貴久・義久に仕え、三州統一戦や九州制覇に貢献。肥後八代の守将や各地の地頭を歴任し、文化人としても活躍。
平田宗茂ひらたむねしげ平田宗茂は薩摩平田氏の庶流。島津宗家の内訌で薩州家に属したが、島津忠良に苦辛城を献じて帰順。忠良の家老に抜擢され、川辺・加世田の地頭として地方統治に貢献。
平塚為広ひらつかためひろ平塚為広は関ヶ原で大谷吉継に殉じた武将。秀吉に仕え、黄母衣衆として活躍。西軍として奮戦し、小早川の裏切り後も義を貫き壮絶な最期を遂げた。
平手政秀ひらてまさひで平手政秀は織田信秀・信長の重臣。外交・財政で活躍し信長の傅役も務めた。信長の奇行を諌めるための「諫死」は諸説あるが、信長は政秀寺を建立し悼んだ。
平戸ポルロひらどぽるろ平戸ポルロは肥前の宣教師とされるが、史料上実在しない。ヤジロウの平戸での活動と、パウロ三木の殉教、長崎のサントス堂の記憶が融合した集合的記憶の産物。平戸のキリシタン史は栄光と受難の歴史。
平野長泰ひらのながやす平野長泰は賤ヶ岳七本槍の一人。武功を立てるも大名にはならず、旗本として泰平を生き、関ヶ原は東軍、大坂の陣は豊臣への義を貫き、家を保った。
平林正恒ひらばやしまさつね戦国から江戸初期の武将。武田氏滅亡後に上杉景勝に仕える。直江兼続に実務能力を見出され伏見舟入普請等で活躍。初代米沢奉行として減封後の藩政再建を支えた。
広戸与右衛門ひろとよえもん戦国時代の備前福岡の商人、広戸与右衛門は黒田重隆を支援。記録は少ないが、町の繁栄と衰退、武士中心の歴史記述が背景にある。有力な後援者だった。
弘中隆兼ひろなかたかかね大内氏の重臣で安芸守護代。陶晴賢の謀反後は大内義長に仕える。厳島の戦いでは晴賢の渡海作戦に唯一反対するも容れられず、敗戦後は駒ヶ林に籠もり壮絶な自害を遂げた。