最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:の

「の」に属する武将:17件

武将概要
納富信景のうとみのぶかげ納富信景は龍造寺家の家老で文武両道。沖田畷の戦いでの最期は諸説あるが、子孫は佐賀藩重臣として存続し、近代日本の「図案」創出にも貢献した。
野崎市右衛門のざきいちえもん野崎市右衛門は戦国末期から江戸初期の秋田湊の商人。湊騒動や佐竹氏の転封など激動の時代を生き抜き、地場商人として秋田杉や米の交易、上方からの輸入品扱いで富を築いたと推測される。
能勢頼次のせよりつぐ能勢頼次は摂津の武将。明智光秀に加担し失領するも、徳川家康に仕え旧領を回復。大坂の陣で宿敵を滅ぼし大身旗本となる。信仰に篤く、一族の再興と永続に尽力した稀有な生涯を送った。
野中鎮兼のなかしげかね野中鎮兼は豊前の国人。黒田孝高の九州国分に反発し、長岩城で三日三晩抵抗。裏切りにより落城し自害。その血脈は途絶えたが、地域の祭りに記憶が残る。
野仲鎮兼のなかしげかね豊前国下毛郡の国人領主。大内氏滅亡後、大友氏に抵抗と臣従を繰り返す。豊臣秀吉の九州平定後、黒田氏に反発し豊前国人一揆の中核となる。長岩城で奮戦後、自刃し一族は滅亡した。
野長瀬盛秀のながせもりひで紀伊国の豪族。清和源氏の末裔と伝わる。豊臣秀吉の紀州征伐に際し、湯河直春らと抵抗。風伝峠で和睦交渉に赴くも謀殺された。その死は紀伊の旧体制終焉を象徴する。
野々村雅春ののむらまさはる野々村雅春は豊臣秀吉の黄母衣衆、大坂七手組頭として豊臣家を支えた。兄は織田信長の黒母衣衆。大坂の陣で主君に殉じ壮絶な最期を遂げた。
延永春信のぶながはるのぶ丹後守護代・延永春信は、主家を凌ぐ権勢を築き、下克上を試みた。しかし、周辺大名の介入を招き、倉橋城で敗北。その死には諸説あるが、彼の挑戦は丹後を戦国時代へと導いた。
延原景能のぶはらかげよし延原景能は浦上宗景の筆頭重臣から宇喜多直家へ寝返り、美作平定戦で活躍。知勇兼備の士だが、八浜合戦で戦死し歴史に埋もれた。戦国乱世の非情な選択を体現した武将。
延沢満延のべさわみつのぶ出羽国の有力な国人領主。最上義光の重臣。延沢銀山の経営や軍事で大いに活躍し、最上家の内政や版図拡大に多大な貢献をした武勇に優れた猛将。
延沢光昌のべさわみつまさ延沢光昌は、最上義光の婿として最上家臣となり、慶長出羽合戦で武功を挙げる。最上騒動で主家改易後、肥後へ配流され不遇の晩年を送るも、故郷では敬愛され続けた武将。
乃美景興のみかげおき乃美景興は毛利両川体制確立に貢献した小早川家臣。小早川隆景の擁立に尽力し、毛利元就からも高く評価された。しかし、備中宮路山城を失陥し失意のうちに死去。
乃美隆興のみたかおき乃美隆興は小早川家重臣。毛利元就の継室に妹を嫁がせ、隆景の擁立に尽力し、両小早川家統合を実現。毛利両川体制確立に貢献し、安寧の晩年を送った戦略家。
乃美宗勝のみむねかつ毛利水軍を率いた乃美宗勝は、厳島の戦いで村上水軍を味方につけ、第一次木津川口の戦いでは織田水軍を破る。智勇兼備の海の将として毛利氏の覇業を支えた。
野村直隆のむらなおたか浅井長政の家臣。近江国友の鉄砲頭として横山城防衛戦で活躍。浅井家滅亡後、織田信長、豊臣秀吉に仕え、小田原征伐や朝鮮出兵に従軍。関ヶ原で西軍に与し、消息不明となった。
野村弥八郎のむらやはちろう野村弥八郎は架空の人物。徳川家臣の弥八郎と、長浜の船奉行、日野の豊臣直轄地を管理した長束正家、京都の有力商人の要素が融合した伝承。
則武六郎のりたけろくろう則武六郎は架空の諏訪商人だが、戦国諏訪の有力商人の典型。街道の要衝で「鹿食免」を扱い、武田氏の経済を支えた。多角経営と自己演出で乱世を生き抜き、後の諏訪発展の礎を築いた。