最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:わ

「わ」に属する武将:32件

武将概要
若林鎮興わかばやししげおき若林鎮興は大友水軍の中核を担い、豊後水道の制海権確保に貢献。大内輝弘の乱や土佐一条家救援で活躍し、「豊後船監」として海事全般を統括。主家大友氏の改易後、二間津で悲劇的な最期を遂げた。
若宮藤三郎わかみやとうぞうろう戦国期の米子で活動した商人。米子八幡宮の神人として特権を得て、鉄の廻船問屋を営んだと推測される。記録は少ないが、戦国時代の地方経済を支えた存在。
和賀忠親わがただちか和賀忠親は奥羽の名門和賀氏の末裔。秀吉の仕置で没落後、伊達政宗の支援で旧領回復を期し「和賀兵乱」を起こすも敗北。仙台で自刃、新時代の到来を象徴する悲劇の武将。
和賀義勝わがよしかつ和賀義勝(義忠)は陸奥和賀郡の国人領主。南部氏との抗争に忙殺され、小田原征伐に不参陣し改易。和賀・稗貫一揆を率いるも敗れ、領民に討たれる悲劇的な最期を遂げた。戦国末期に滅びた東北国人領主の典型。
和賀義忠わがよしただ戦国・安土桃山時代の陸奥国の武将。和賀氏当主。秀吉の奥州仕置で改易されると、旧領奪還のため和賀・稗貫一揆を率いて蜂起したが敗れ、最期は土民に殺害された。
脇坂安治わきさかやすはる脇坂安治は賤ヶ岳七本槍の一人。明智光秀から豊臣秀吉へ転身し、水軍の将として活躍。関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り、脇坂家を存続させた。乱世を生き抜いた現実主義の生存戦略家。
脇坂安元わきさかやすもと脇坂安元は賤ヶ岳七本槍・安治の嫡男。大坂の陣で戦功を挙げ、信濃飯田藩主として55年間善政を繁栄させた。島原の乱で一番乗りを果たすなど武勇も兼ね備え、100歳で大往生した堅実な名君。
和久宗是わくそうぜ和久宗是は豊臣秀吉の祐筆。伊達政宗との間に恩義を結び、浪人後政宗の客将となる。大坂の陣では豊臣家への恩義を貫き、81歳で壮絶な討死。その「義」は後世に語り継がれた。
和栗源五兵衛わぐりげんごべえ和栗源五兵衛は戦国備前福岡の商人。黒田官兵衛の祖父・重隆が福岡に滞在時、目薬製造販売で財を成した伝承と関連。直接史料はないが、黒田家飛躍の経済的基盤を支えた象徴的存在。
分部光高わけべみつたか分部光高は伊勢の土豪で長野家臣。織田信長の伊勢侵攻時、親織田派として信包の長野家養子縁組を画策し、羽野合戦で戦死。彼の決断は、養子光嘉に継承され、分部家が近世大名となる礎となった。
分部光信わけべみつのぶ分部光信は戦国から泰平の世を繋ぎ、大坂の陣で武功を挙げた。比叡山復興奉行を務め、近江大溝藩主として先進的な都市計画と善政を敷き、その遺産は今も息づく。
分部光嘉わけべみつよし分部光嘉は伊勢の土豪出身。長野家臣から織田・豊臣直臣へ出世し、伊勢上野城主となる。関ヶ原では東軍として安濃津城籠城で貢献し加増。激動の時代を生き抜き、分部家を近世大名として存続させた適応の達人。
渡辺通わたなべかよう渡辺通は毛利元就の家臣。父が元就に粛清されたが、吉田郡山城で武功を挙げ信頼を得る。月山富田城撤退戦で元就の身代わりとなり討死。その忠義は渡辺家の永続と栄誉の礎となった。
渡辺了わたなべさとる渡辺了は「槍の勘兵衛」と称された武将。阿閉、羽柴、中村、増田、藤堂と主君を転々とし、数々の戦功を挙げたが、藤堂高虎との確執で奉公構を受け、晩年は京都で隠棲した。
渡辺宗覚わたなべそうかく渡辺宗覚は豊後の石火矢師。明国でポルトガル由来のフランキ砲技術を習得し、大友宗麟に仕え「国崩し」を製造。大坂の陣で徳川家康に重用され、幕府御用達の地位を確立。その技術は後世に継承された。
渡辺糺わたなべただす渡辺糺は豊臣秀頼の乳兄弟で槍の名手。母の影響力で主戦派として権勢を振るうも、冬の陣で屈辱を味わう。夏の陣で名誉回復を期し奮戦、壮絶な最期を遂げた。その忠義は子孫の立身に繋がった。
渡辺綱わたなべのつな渡辺綱は源頼光四天王筆頭。鬼退治伝説で知られるが史実の記録は少ない。嵯峨源氏の貴種で、子孫は渡辺党として水軍を率い全国に広まった。
渡辺教忠わたなべのりただ渡辺教忠は土佐一条家出身で伊予西園寺氏重臣。実家と主家の争いで主君を裏切り降伏。長宗我部氏には抗戦するも家臣に追放され消息不明に。忠誠と血縁の板挟みに苦しんだ悲劇の武将。
渡辺守綱わたなべもりつな渡辺守綱は徳川家康の譜代家臣。「槍半蔵」の異名を持つ槍の名手で、三河一向一揆で一時敵対も赦免され、数々の戦功を挙げた。晩年は尾張藩付家老として活躍。
亘理重宗わたりしげむね亘理重宗は伊達政宗の大叔父。伊達三代に仕え、対相馬戦線で活躍。涌谷城主として領国経営に尽力し、伊達家存続のため家督を分割、二つの亘理家を創設した。
亘理宗隆わたりむねたか伊達稙宗の子の元宗らを養子とし伊達家との血縁関係を築いた武将。天文の乱後に隠居すると国境の小平城に入り、宿敵・相馬氏への防人として生涯伊達領を守護した。
亘理宗元わたりむねもと亘理宗元は伊達稙宗の十二男。天文の乱で兄の死により亘理氏を継承。伊達晴宗・輝宗・政宗の三代に仕え、対相馬戦線の指揮や最上氏との和平交渉で活躍。涌谷伊達家の祖となり、仙台藩重臣として家名を残した。
亘理元宗わたりもとむね亘理元宗は伊達稙宗の十二男で、四代に仕えた智勇兼備の将。対相馬戦線総指揮や外交で活躍し、人取橋の戦いで政宗を支えた。子孫は涌谷伊達家として繁栄した。
和田昭為わだあきため和田昭為は佐竹氏三代に仕えた智将。讒言で出奔し息子を失う悲劇を経験するも、敵将捕縛の大功で帰参。三奉行として藩政改革を主導し、秋田移封にも従う。佐竹氏の戦国から近世への移行期を支えた宿老。
和田惟長わだこれなが和田惟長は、室町幕府の奉公衆で、細川晴元に仕え、三好長慶と対立。摂津芥川山城主として活躍したが、最終的に長慶に敗れ、その生涯は戦国乱世の複雑な人間関係を映す。
和田惟政わだこれまさ和田惟政は甲賀出身の武将。足利義昭を擁立し、織田信長に重用され摂津高槻城主・京都代官となる。フロイスから「都の副王」と称され、キリスト教を保護。白井河原で戦死。
和田業繁わだなりしげ和田業繁は上野の国衆。上杉・北条・武田の間で主君を変え、武田信玄に仕える。長篠の戦いで鳶ヶ巣山砦を守り討死。乱世を生き抜いた現実主義者。
和田信業わだのぶなり和田信業は武田家臣の子で上野和田氏の養子。武田滅亡後、織田・後北条氏に仕え、破格の待遇を受ける。小田原征伐で没落し浪人となるが、子孫は会津藩士として家名を存続。大勢力の狭間で生き抜いた国衆。
和田通興わだみちおき和田通興は伊予国の国人領主。河野氏の家臣ながら自立性を強め、天文23年に反乱を起こす。平岡房実の計略で敗れ自害したが、河野氏は和田氏の家名を存続させた。戦国期の国人領主の自立と主家との関係性を示す。
和田義盛わだよしもり鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛は、源頼朝の忠臣。北条義時との対立で一族が連座し、挑発に乗せられ挙兵。和田合戦で奮戦するも三浦義村に裏切られ敗死。彼の死は北条氏の執権政治確立を決定づけた。
和知直頼わちなおより和知直頼は白河結城氏の忠実な奉行。しかし、子孫の美濃守は主家の衰退と天下統一の波の中で、一族存続のため主君を追放。忠誠から離反へと変貌した戦国末期の在地領主の生き残り戦略を象象徴する。
和智誠春わちまさはる和智誠春は備後の名門国衆。毛利隆元急死で毒殺を疑われ誅殺されたが、これは毛利氏が中央集権化を進めるための政治的粛清だった。怨霊伝説も残る悲劇の武将。