最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:つ
「つ」に属する武将:41件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 塚原卜伝 | 塚原卜伝は戦国時代の剣聖。鹿島新當流創始者で生涯無敗。足利義輝らに剣を指南し、神託で「一の太刀」を開眼。無手勝流や活人剣を提唱し、後世の武術に影響。 |
| 津軽建広 | 津軽建広は後北条氏の外科医から津軽為信の婿養子となり大光寺城代に。津軽騒動で追放されるも、本多正信の病を治し幕府御典医として再起した。 |
| 津軽為信 | 津軽為信は戦国時代の武将。南部氏から独立し津軽を統一、弘前藩を創設。秀吉・家康に認められ、弘前城築城を開始。石田三成の遺児を庇護した。 |
| 津軽信建 | 津軽信建は弘前藩祖為信の嫡男。豊臣秀頼の小姓を務め、石田三成と親交。関ヶ原で西軍に属し、石田重成を庇護。父に先立ち病死し、津軽騒動の遠因となる。 |
| 津軽信牧 | 弘前藩二代藩主。内紛を制して継承し、弘前城築城や青森港開港で藩の礎を築く。徳川の養女を正室に迎えつつ、愛する石田三成の娘の血脈を後継に据えた卓越した政治家。 |
| 津川義冬 | 津川義冬は斯波氏の貴種。織田信雄の家老として伊勢松ヶ島城主となるが、小牧・長久手の戦い直前に秀吉への内通を疑われ信雄に粛清された。 |
| 築山清左衛門 | 築山清左衛門は架空の人物。上杉氏の御用商人「蔵田一族」がモデル。蔵田五郎左衛門は青苧交易を掌握し、領国経営にも関与した経済の巨人。蔵田清左衛門尉は京都と越後を繋ぐ使者。 |
| 筑紫惟門 | 筑紫惟門は肥前・筑前の国衆。大内氏滅亡後、毛利氏と結び大友氏と対立。侍島合戦で「釣り野伏せ」を駆使し大友軍を撃退。五箇山城で自害。子の広門が家名を存続。 |
| 筑紫広門(筑紫惟門の長男) | 筑紫広門は肥前の国衆。大友・龍造寺・島津の間で離合集散を繰り返し、勝尾城主として活躍。関ヶ原で西軍につき改易されるも、養子により家名再興。激動の時代を生き抜いた。 |
| 筑紫広門(筑紫広門の養子) | 筑紫広門(主水正)は、関ヶ原で西軍につき改易された筑紫広門(上野介)の養子。大坂の陣で徳川方として戦功を挙げ、旗本として筑紫家を再興。三千石の寄合席に列した。 |
| 佃十成 | 佃十成は加藤嘉明の筆頭家老。関ヶ原の戦いで伊予の三津浜夜襲を指揮し、毛利勢を撃破。松山藩筆頭家老として栄華を極めたが、久万山での圧政により失脚した。 |
| 柘植宗家 | 伊賀北部を本拠に勢力を築いた国人領主。守護・仁木氏を武力で排除して傀儡を擁立する下剋上を体現し、一族から徳川旗本や松尾芭蕉を輩出した惣領家当主。 |
| 辻玄哉 | 辻玄哉は戦国時代の茶人で、紹鴎のわび茶を利休に繋いだ重要人物。山上宗二記では酷評されるも、台子伝授や茶会記録からその実像を再評価。松尾流の始祖。 |
| 津田算長 | 戦国時代の武将。紀伊国小倉城主。別名津田監物。種子島から鉄砲を導入し、津田流砲術の祖として鉄砲の普及や独自の戦術確立に多大な影響を与えた。 |
| 津田重久 | 津田重久は戦国時代の渡り奉公人。三好・細川・足利・明智・豊臣・前田家に仕え、本能寺の変で先鋒を務める。86歳まで長寿を保ち、加賀藩の重鎮となった。 |
| 津田宗及 | 津田宗及は堺の豪商・天王寺屋の三代目。茶の湯を極め、織田信長や豊臣秀吉の茶頭を務めた。唐物名物への審美眼に優れ、『天王寺屋会記』で茶会を記録。利休切腹の翌年に天寿を全うした。 |
| 津田宗達 | 津田宗達は堺の豪商・天王寺屋の二代目。三好政権の政商として活躍し、武野紹鴎に茶の湯を学んだ茶人。茶会記『天王寺屋会記』を創始し、時代の記録者となった。 |
| 津田秀政 | 津田秀政は織田一門の武将。信長・信雄・秀吉・家康に仕え、関ヶ原で東軍につき大身旗本となる。90歳まで長寿を保ち、津田家の安泰を築いた。 |
| 土持親成 | 土持親成は日向土持氏最後の当主。大友氏から島津氏へ寝返り、大友宗麟に滅ぼされた。松尾城で奮戦し自害。智勇兼備と評され、子孫は存続。 |
| 土持親佐 | 日向国の有力な国人領主。縣土持氏の当主。松尾城主。伊東氏との激しい抗争において「夏田の戦い」で伊東軍を撃退する武功を挙げた戦国時代の武将。 |
| 土屋昌続 | 土屋昌続は武田信玄の寵臣で、武田二十四将の一人。竜朱印状奉者として政務にも関与。三方ヶ原で鳥居忠広を討ち取る武功を挙げたが、長篠の戦いで戦死した。 |
| 土屋昌恒 | 土屋昌恒は武田勝頼の忠臣。兄と養父の死後、二つの土屋家を継承。天目山で勝頼の殿を務め、「片手千人斬り」伝説を残し壮絶な戦死。遺児忠直は徳川家で大名として家名を再興。 |
| 筒井定次 | 筒井定次は筒井順慶の養子。伊賀上野20万石を領するも、家臣団との対立や徳川家康の政策により改易。大坂冬の陣での内通嫌疑で自刃。悲劇的な生涯を送った。 |
| 筒井定慶 | 筒井定慶は、大和筒井氏最後の当主。豊臣家臣から徳川家康により家督を継ぐも、大坂夏の陣で郡山城を放棄し自刃。その生涯は謎に包まれ、二つの名前で記録される。 |
| 筒井順慶 | 筒井順慶は大和の武将。松永久秀と抗争し、信長・秀吉に仕え大和を統治。本能寺の変での日和見で「日和見順慶」と揶揄された。36歳で病死。 |
| 筒井順賢 | 筒井順賢は大和の国人領主。赤沢朝経の侵攻で苦境に陥るが、宿敵越智氏と婚姻同盟を結び国人一揆を結成。永正の錯乱後、高国方に属し安定を得るも、晩年の動向は不明。 |
| 筒井順弘 | 福住順弘は筒井順興の四男。福住氏を継ぎ、甥の筒井順慶を支えた。次男定慶は筒井家を継ぐも断絶、三男慶之は徳川旗本として家名を存続させた。 |
| 筒井順興 | 筒井順興は、疲弊した筒井氏を再興。宿敵越智氏と和睦し、一向一揆を撃退して大和の盟主となる。巧みな婚姻政策で次代の筒井順昭の飛躍の礎を築いた。 |
| 筒井順国 | 筒井順国は、筒井氏の枢要な武将。兄の死後、甥・順慶を支え、松永久秀の侵攻から慈明寺城を守る。息子・定次が宗家を継ぎ、晩年は大和に残り一族の結束に尽力した。 |
| 筒井順昭 | 筒井順昭は大和国の戦国武将。興福寺衆徒の筆頭として、木沢長政の死後、大和を一時的に統一。わずか28歳で病死し、その死は「元の木阿弥」伝説の語源となった。 |
| 筒井順政 | 筒井順政は大和国の筒井氏当主順昭の弟。兄の死後、幼い順慶の後見人となり、松永久秀の侵攻に抵抗。堺で客死するも、筒井氏存続の礎を築いた。 |
| 筒井順盛 | 筒井順盛は筒井氏の重臣で、兄の死後、幼い甥・順賢の後見役を務めた。興福寺衆徒の筆頭として大和国人一揆を主導し、宿敵越智氏と和睦。興福寺と対立し、大和武士の自立を促した。 |
| 津野勝興 | 津野勝興は土佐の名門津野氏の当主。長宗我部元親の侵攻に対し抵抗するも敗北。元親の三男親忠を養子に迎え隠居したが、津野氏の嫡流は途絶えた。 |
| 角隈石宗 | 大友宗麟に仕えた軍配者角隈石宗は、兵法・天文学・易学に精通し「道学兼備」と評された。無謀な日向出兵を諫めるも聞き入れられず、耳川の戦いで壮絶な討死を遂げた悲劇の忠臣。 |
| 津野定勝 | 津野定勝は土佐の豪族。長宗我部元親の降伏勧告を拒否し、家臣団に追放される。晩年は故郷で過ごし、その存在は『長宗我部地検帳』に「御座」と記された。 |
| 角田一明 | 戦国時代の武将。里見氏家臣、葛ヶ崎城主。天正八年の正木憲時の乱の際、不在中に正木軍の急襲を受け、留守を守る病床の弟・一元が奮戦するも討死して落城した。 |
| 角田丹左衛門 | 角田丹左衛門は戦国期品川湊の有力商人。直接史料はないが、港の経済を支え、後北条氏の間接支配下で活躍した専門職商人。宇田川氏のような地域有力者層の下に位置したと推測される。 |
| 津野親忠 | 津野親忠は長宗我部元親の三男。津野家を継ぎ名君と慕われたが、父の変心と家臣の讒言で幽閉され殺害。彼の死が長宗我部家改易の遠因となった。 |
| 津野基高 | 土佐国の国人領主。津野氏当主。長宗我部氏の台頭に対して一時抗戦するも臣従し、のちに一族の存続と領国の安定のために忠義を尽くした戦国時代の武将。 |
| 妻木広忠 | 妻木広忠は明智光秀の血縁者(伯父または舅説あり)。本能寺の変後、山崎の戦いで敗れ、明智一族の菩提を弔った後に自刃。その死は妻木家の存続に繋がった。 |
| 妻木頼忠 | 美濃の武将・妻木頼忠は明智光秀の縁者。本能寺の変後の混乱を生き抜き、関ヶ原で徳川に貢献。7500石の交代寄合旗本として妻木氏を再興したが、宗家は断絶。 |