最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:に

「に」に属する武将:47件

武将概要
新関久正にいぜきひさまさ戦国から江戸初期の最上家臣。庄内地方の藤島城主を務める。赤川から取水する因幡堰の開削に着手し、庄内平野の開拓に尽力。最上氏改易後は土井利勝に仕えた。
新井田隆景にいたたかかげ新井田隆景は大崎氏家臣。主君義隆の寵愛争いが大崎内紛の引き金となり、伊達・最上介入の大崎合戦へ発展。大崎氏滅亡後、隆景の消息は不明。
井田隆景にいだたかかげ井田隆景は大崎義隆の寵愛を受けた小姓。彼を巡る派閥争いが大崎家中の内紛「大崎合戦」に発展。伊達政宗の介入を招き、大崎家滅亡の引き金となった。
仁井田弥兵衛にいだやへえ「仁井田弥兵衛」は史料にないが、戦国期塩釜の商人として再構築。港町・門前町の塩釜で、藩の政策に翻弄されつつも塩業・海運・水産流通を経営。地域貢献も担い、記録されぬ多くの商人の営みを象徴する。
新野親矩にいのちかのり今川一門の遠江新野領主。井伊直親の謀殺後、その遺児・虎松(後の井伊直政)の命を身を挺して救った恩人。後に今川の秩序を守るため引馬城攻めで討死した。
新見国経にいみくにつね新見国経は備中の国人領主。細川氏との繋がりで代官職を得て、鉄の利権を掌握。尼子氏に帰順し勢力拡大したが、毛利・三村氏に攻められ滅亡した。
新見貞経にいみさだつね新見貞経は備中国の国人領主で東寺領新見庄代官。尼子氏に従属し毛利・三村氏と対立。本拠楪城落城後行方不明となるが、翌年京都東寺を訪問。
新納忠武にいろただたけ戦国時代の武将。島津庶流・新納氏の当主。志布志津を拠点に交易の富で強大な経済力を築いた。島津宗家と対立し自立を維持するも、のちに嫡流は没落した。
新納忠元にいろただもと島津氏の重臣。「鬼武蔵」の異名を持つ猛将。三州統一や沖田畷の戦いで活躍。和歌や茶の湯に通じ教育規範を著し薩摩武士道の精神的支柱を築いた。
贄川重有にえかわしげあり贄川重有は木曾氏の譜代家臣。天正壬午の乱で主君木曾義昌を裏切り、宿敵小笠原貞慶に内通。小笠原軍を木曾谷へ先導するも、木曾軍の鉄砲に倒れ非業の死を遂げた。
二階堂輝行にかいどうてるゆき二階堂輝行は須賀川二階堂氏当主。天文の乱で稙宗方から晴宗方へ寝返る。田村氏に今泉城を奪われた。死後、二階堂氏は蘆名氏に従属し伊達政宗に滅ぼされたが、記憶は「松明あかし」として継承。
二階堂晴行にかいどうはるゆき二階堂晴行は須賀川二階堂氏当主。将軍足利義晴から偏諱を賜り、伊達・蘆名と連合し勢力拡大。田村氏と抗争。嫡男輝行の正室に伊達稙宗の娘を迎える。死後、二階堂氏は天文の乱で衰退。
二階堂盛義にかいどうもりよし二階堂盛義は伊達家と血縁も蘆名氏に屈し嫡男を人質に。息子が蘆名家を継ぎ権勢回復するも、自身の死と後継者の悲劇で一族は滅亡。戦国時代の非情な生涯。
二階堂行詮にかいどうゆきあき二階堂行詮は須賀川二階堂氏15代当主。蘆名氏との長沼合戦で敗北し、勢力圏を縮小。彼の死後、蘆名氏との関係は深まるが、最終的に伊達政宗に滅ぼされた。
仁賀保挙晴にかほきよはる出羽由利十二党の一員。赤尾津氏から仁賀保氏へ養子入りし、宿敵矢島氏を滅ぼす。関ヶ原で東軍に与し、最上氏の嫌疑で一時移封されるも、旧領に復帰し仁賀保藩を立藩した。
仁賀保挙誠にかほたかのぶ仁賀保挙誠は出羽由利郡の国人領主。関ヶ原で東軍に転じ、大坂の陣の功で旧領に復帰し大名となる。死後、領地を分知し旗本として家名を存続させた。
仁賀保誠政にかほのぶまさ仁賀保誠政は出羽仁賀保氏出身の旗本。「二千石家」祖。家光の諱を避けて改名し、幕府要職や特命任務を歴任。泰平の世を支えた有能な官僚。
仁木義親にきよしちか仁木義親は伊賀守護だが実権はなく、伊賀惣国一揆に阻まれていた。織田信長に協力し、天正伊賀の乱で織田軍の手引き役を務め、伊賀国内に所領を得る。その後は織田信雄に仕え、子孫は旗本として存続した。
仁木義治にきよしはる阿波国の武将。旧守護細川氏の家臣。中富川の戦いで長宗我部元親と戦い敗戦後隠棲。後に蜂須賀家政に「紺屋司」として登用され藩の経済を支える。晩年には「二鬼島道智」と号し、『昔阿波物語』を著した。
二曲輪猪助にぐるわいすけ二曲輪猪助は河越夜戦で活躍したとされる伝説の忍者。風魔一党に連なり、敵陣に潜入し情報を持ち帰ったとされるが、同時代史料には登場せず、後世の軍記物語で創作された可能性が高い。
西尾忠永にしおただなが西尾忠永は酒井重忠の三男。西尾吉次の養子となり武蔵原市藩主を継承。関ヶ原・大坂の陣で武功を挙げ、白井藩、土浦藩へと加増移封。37歳で急逝も西尾家の礎を築いた。
西尾光教にしおみつのり西尾光教は美濃の国人から斎藤、織田、豊臣、徳川と主家を変え、関ヶ原の功績で揖斐藩3万石の藩祖となる。しかし実子に恵まれず、養子も早世し、彼の死後わずか8年で家は改易された。
西尾嘉教にしおよしのり西尾嘉教は美濃揖斐藩二代藩主。実父没落後、外祖父西尾光教の養子に。大坂の陣で武功を挙げ家督を継ぐも、34歳で嗣子なく急逝し揖斐藩は改易された。
仁科盛明にしなもりあき仁科盛明は信濃仁科氏当主。塩尻峠合戦で主君小笠原長時と対立し戦線離脱、武田信玄に帰順。武田氏の養子を迎え家名を存続させた。その行動は裏切りと評されるが、乱世の生存戦略であった。
仁科盛信にしなもりのぶ武田信玄の五男で信濃仁科氏を継いだ武将。織田信長による甲州征伐の際、高遠城で降伏勧告を拒絶し、寡兵で徹底抗戦を展開した末に玉砕し武田家終焉に殉じた忠義の将。
西野道俊にしのどうしゅん西野道俊は出羽小野寺氏重臣。最上氏との合戦で武功を挙げ、豊臣政権下で国政を代行。最上義光からも一目置かれた。小野寺氏改易後、佐竹氏に仕えたとされる。
西牟田鎮豊にしむたしげとよ西牟田鎮豊は筑後の国人領主。大友氏に反発し龍造寺隆信に帰属。生津城を築き武功を挙げた。沖田畷で嫡男を失い消息不明に。西牟田氏の支配は終焉を迎えた。
西山旦左衛門にしやまたんざえもん西山旦左衛門は、因幡の武将・矢田七郎左衛門が戦に敗れ、商人として米子で再起した人物。武士の経験を活かし、毛利氏との関係を維持しつつ、茶湯にも通じた文化人として成功。
二条尹房にじょうただふさ二条尹房は戦国期の摂関家当主。二度関白に就任するも、経済困窮で地方へ下向。大内義隆を頼るが、陶晴賢の謀反「大寧寺の変」に巻き込まれ殺害された。その死は公家の権威の限界を象徴する。
新田義貞にったよしさだ新田義貞は源氏嫡流ながら幕府に冷遇され、倒幕に挙兵し鎌倉を滅ぼす。足利尊氏と対立し、南朝の将として戦い悲劇的な最期を遂げた。忠義の生涯は後世に語り継がれる。
仁木高長につきたかなが仁木高長は、足利一門の京武者として中央政界で活躍。伊賀守護は名目上で、細川高国との盟約に生き、その没落と共に歴史から姿を消した悲劇の武将。
蜷川親長にながわちかなが室町幕府の幕臣で、代々政所代を務めた名門蜷川氏の当主。十三代将軍足利義輝に仕え父と共に政所代を務めて活躍するが、永禄の変で主君が横死し没落した。
二宮惟宗にのみやこれむね土佐一条氏の重臣、二宮惟宗は格式高い家柄を誇り、二ノ宮城主として一条氏を支えた。主家滅亡後、長宗我部軍の攻撃を受け、武士の誇りを守るため自刃。
二宮経方にのみやつねかた安芸吉川家臣の二宮経方は、毛利元就の謀略で没落した主君・吉川興経に最後まで忠義を貫き、わずか十数名の家臣と共に幽閉先に随行。その最期は歴史の闇に消えた忠臣。
仁保隆慰にほたかやす大内氏の奉行人から毛利元就に仕え門司城督となった武将。大友氏の猛攻から要衝・門司城を守り抜くなどの軍功を挙げた一方、和歌を嗜む教養人としての一面も持っていた。
二本松家泰にほんまついえやす奥州探題の末裔で二本松城主。天文の乱で伊達稙宗に与して自領に迎えるも、乱の最中に三十五歳で急逝。のちの稙宗方の敗北により、二本松氏没落の契機となった武将。
二本松常頼にほんまつつねより二本松常頼は奥州の名門畠山氏の誇りを背負い、伊達政宗の配下となる屈辱を拒否。高玉城に籠城し、わずかな兵で奮戦するも討ち死に。武士の意地を貫いた悲劇の将。
二本松村国にほんまつむらくに奥州の名門、二本松畠山氏の当主・村国は、伊達氏の圧迫と内紛に苦悩。その治世は戦国時代の地方権力の苦難を象徴し、一族は天文の乱を経て滅亡へと向かった。
二本松義氏にほんまつよしうじ二本松義氏は奥州の動乱「天文の乱」で伊達稙宗方に与し、18歳で早世。病死説が有力だが、戦況悪化による政治的失脚の可能性も指摘されている。
二本松義国にほんまつよしくに二本松義国は名門畠山氏の当主として、伊達・蘆名・田村に囲まれ苦闘。外交手腕で講和を斡旋し、権威回復を図るも、伊達氏に屈し家督を譲る。彼の死後、二本松氏は滅亡した。
二本松義孝にほんまつよしたか二本松義孝は二本松畠山氏当主。父義継が伊達輝宗を拉致し死亡、二本松城落城。兄義綱も暗殺。その後、会津の歴代領主に客分として仕え、名門の血筋を活かし激動の時代を生き抜いた。
二本松義継にほんまつよしつぐ二本松義継は奥州の名門・畠山氏の末裔。伊達政宗の父・輝宗を拉致する凶行に及び、政宗の覚醒と人取橋の戦いを誘発。二本松氏は滅亡したが、その死は奥州の歴史を大きく動かした。
二本松義綱にほんまつよしつな二本松義綱は二本松畠山氏最後の当主。父義継の伊達輝宗拉致事件「粟ノ巣の変」で家督を継ぎ、伊達政宗の猛攻と人取橋の戦いを経験。二本松城を追われ、蘆名氏を頼るも、最終的に蘆名盛重に殺害された。
入田親誠にゅうたちかのぶ入田親誠は大友氏の重臣。大友義鑑の廃嫡計画の中心人物とされ、二階崩れの変で殺害された。その死は、大友宗麟の権力確立と、後の大友氏衰退の遠因となった。
丹羽長重にわながしげ丹羽長重は織田信長の重臣・丹羽長秀の嫡男。秀吉の圧力で所領を減らされるも、関ヶ原で西軍に属しながらも徳川秀忠の助命で大名に復帰。白河藩主として築城や藩政に尽力し、丹羽家の礎を築いた。
丹羽長秀にわながひで丹羽長秀は織田信長に忠誠を尽くした宿老。「米五郎左」と称され行政・築城に貢献、「鬼五郎左」と恐れられ武功も顕著。信長死後も秀吉を支えた。
丹羽長正にわながまさ丹羽長正は丹羽長秀の次男。豊臣秀吉に独立大名として取り立てられるも、関ヶ原で西軍につき改易。その後豊臣秀頼に仕えるが、大坂の陣直前に脱出。越前福井で没し、子孫は兄・長重の家臣として存続した。