最終更新日 2026-06-16

武将読み一覧:か

「か」に属する武将:168件

武将概要
快川紹喜かいせんじょうき快川紹喜は戦国時代の禅僧。武田信玄の師として仕え、その死後、織田信忠による恵林寺焼き討ちの際、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残し、炎の中で殉教した。
甲斐宗運かいそううん甲斐宗運は肥後阿蘇家の重臣。「不敗の将」と称され、60余戦無敗。強大な周辺勢力との外交で阿蘇家を存続させ、知略と武勇で乱世を生き抜いた。
甲斐親宣かいちかのぶ甲斐親宣は日向の国人。肥後阿蘇氏の内紛で亡命した阿蘇惟豊を庇護し、その復権に尽力。阿蘇家筆頭家老として活躍し、不敗の将・甲斐宗運の父としても知られる。
甲斐親英かいちかひで甲斐親英は肥後阿蘇家臣。父・宗運の遺言を破り島津氏と戦うが敗北、八代に抑留。肥後国人一揆に加担し、豊臣軍に敗れ討死。死後「足手荒神」として祀られた。
戒能通森かいのうみちもり伊予河野氏重臣・戒能通森は、大野利直との合戦で武勇と戦略を発揮。主家滅亡後も忠義を貫き、一族存続の道を開いた。武勇と忠誠、現実的判断を兼ね備えた武将。
海部友光かいふともみつ海部友光は阿波の国人領主。長宗我部元親の弟を討ち、阿波侵攻の口実を与え海部城は落城。友光は消息不明だが、城はその後も重要拠点として利用された。
海北綱親かいほうつなちか海北綱親は浅井氏三代に仕えた武者奉行。小谷城の戦いで討死。豊臣秀吉が「軍法の師」と称した逸話や、画家の海北友松の父としても知られる。
香川親和かがわちかかず長宗我部元親の次男。香川氏の養子となり讃岐平定に大功を挙げたが、豊臣秀吉の四国征伐で所領を失い、後に長宗我部家の家督争いに巻き込まれ失意のまま夭折した。
香川光景かがわみつかげ香川光景は安芸香川氏当主。安芸武田氏衰亡期に毛利元就に帰属し、厳島の戦いで武功を挙げ毛利水軍の中核を担った。子孫は岩国藩家老として繁栄し、『陰徳太平記』編纂にも関わった智将。
香川元景かがわもとかげ香川満景の子かがわみつかげのこ香川元景は讃岐国人領主。父満景の戦死後、細川京兆家の内紛で立場を変え、最終的に細川晴元方に属した。讃岐国内政に着手し自立化を模索したが、晩年や死因は不明な点が多い。
香川之景かがわゆきかげ香川元景の子かがわもとかげのこ香川之景は讃岐の武将。三好・織田・長宗我部と渡り合い、信長から偏諱も。秀吉の四国征伐で改易、土佐へ。激動の時代を生き抜いた国人領主。
柿崎景家かきざきかげいえ越後の猛将、柿崎景家は上杉謙信の腹心として活躍。川中島で武功を挙げ、謙信から絶大な信頼を得た。その死因は諸説あり、謎に包まれている。
蠣崎季広かきざきすえひろ蠣崎季広は蝦夷地の蠣崎氏4代当主。アイヌとの融和政策「夷狄之商舶往還之法度」を制定し、交易を独占。巧みな外交で蠣崎氏の基盤を確立し、松前藩成立の礎を築いた。
蠣崎信広かきざきのぶひろ蠣崎信広は、コシャマインの戦いを鎮圧し、蝦夷地和人社会の覇者となった。出自は不明だが、勝山館を拠点に交易を掌握し、松前藩の礎を築いた。
蠣崎光広かきざきみつひろ蠣崎光広は蝦夷地統一の礎を築いた武将。父信広の跡を継ぎ、謀略と戦略で松前守護職を掌握。徳山館を築き、安東氏から交易独占権を得て、後の松前藩の経済基盤を確立した。
蠣崎基広かきざきもとひろ戦国時代の武将。勝山館城代。蠣崎季広のアイヌ融和策に反発して天文十七年に謀反を起こし討たれた。死後は怨霊を鎮めるため勝山館跡に荒神として祀られている。
蠣崎守広かきざきもりひろ松前藩家老蠣崎守広は、藩主の子氏広饗応中の火災責任を負い、炎の中に身を投じて壮絶な最期を遂げた。その死は武士の責任感と忠誠を体現し、守広系蠣崎家の栄光と悲劇の連鎖の始まりとなった。
蠣崎吉広かきざきよしひろ蠣崎吉広は松前藩主松前慶広の弟。兄の仮養子として藩の基盤確立に貢献。豊臣・徳川両政権への拝謁に同行し、福山館築城にも尽力。その子孫は松前藩重臣として活躍した。
蠣崎義広かきざきよしひろ戦国時代の武将。蠣崎氏三代当主。交易独占を狙い、タナサカシらアイヌの有力首長を和議と偽り相次いで謀殺。武力と謀略により蝦夷地における支配権を確立した。
垣見一直かきみかずなお垣見一直は豊臣秀吉の側近で、朝鮮出兵で軍目付を務め、豊後富来2万石の大名となる。関ヶ原の戦いで西軍につき、大垣城籠城中に味方の裏切りで謀殺された。
垣屋続成かきやつぐなり垣屋続成は但馬の守護代で、山名氏を凌ぐ勢力を持つ武将。主君と対立し実権を握るも、田結庄是義の奇襲で自刃。子孫は織田方へ転じ家名を存続。
垣屋恒総かきやつねふさ垣屋恒総は豊臣秀吉に仕え因幡桐山城主となる。関ヶ原で西軍につき自害したが、分家は東軍につき存続。孫の代には紀州徳川家に仕え、垣屋宗家は再興された。
垣屋政忠かきやまさただ但馬国の国人領主。垣屋光成の弟。当初は山名氏の配下として活動し、織田信長の但馬征伐の際には羽柴秀吉に協力して勢力維持に努めた武将。
垣屋光成かきやみつなり垣屋光成は但馬の有力国人から豊臣秀吉に仕え、因幡桐山城主となる。父の仇討ちや因幡銀山の管理に関与。関ヶ原で西軍につき、嫡流は滅亡したが分家は存続した。
加来統直かくむねなお豊前国の国人。大友氏の家臣として島津勢と戦い、大畑城を拠点に活躍。豊臣秀吉の九州平定後、黒田官兵衛の政策に反発し豊前国人一揆に加担。敗走中に討たれた悲運の武将。
筧十蔵かけいじゅうぞう真田十勇士の筧十蔵は、種子島銃の名手として真田幸村に仕え、上田城や大坂の陣で活躍。史実性は低いが、その専門性と忠誠心は現代まで語り継がれる。
懸田俊宗かけだとしむね伊達稙宗の娘婿・懸田俊宗は、天文の乱で岳父に忠義を尽くし奮戦。乱終結後の処遇に不満を抱き反旗を翻すが、家臣の裏切りで滅亡。伊達氏変革期の悲劇の国人領主。
葛西親信かさいちかのぶ葛西親信は奥州葛西氏第16代当主。病弱とされ、短い治世は伊達氏の台頭や家臣団の統制困難に直面。実子なく、弟晴信が養子として家督を継承。葛西氏の衰退を象徴する人物。
葛西俊信かさいとしのぶ葛西俊信は伊達政宗に仕えた馬術の達人。奥州葛西氏の血を引く。元和年間に御所で「関貫通」の妙技を披露し、伊達家の権威を高めた。実子なく甥を養子とし、仙台と宇和島に葛西家の血脈を繋いだ。
葛西晴重かさいはるしげ戦国時代の奥州の大名。葛西氏当主。探題大崎氏の衰退と奥州の動乱の中で、周辺の伊達氏などと提携・抗争を重ね、名門葛西氏の領国維持と家名存続に努めた武将。
葛西晴胤かさいはるたね戦国時代、陸奥国を支配した葛西氏の第十五代当主。伊達氏の浸透に抗いつつ本拠地を寺池城へ移し、領国基盤を再構築。天文の乱では家中を統制し、一族の存続を完遂した。
葛西晴信かさいはるのぶ葛西晴信は奥州葛西氏最後の当主。内紛と大崎氏との抗争に苦しむ。キリスト教布教を許可。小田原不参陣で改易され、葛西大崎一揆で旧臣に担がれるも滅亡。
葛西政信かさいまさのぶ葛西政信は、戦国時代の奥州葛西氏当主。系譜は錯綜し、甥毒殺説も。伊達氏の浸透と内部対立に苦闘し、永正合戦や明応の合戦を経験。葛西氏の衰退を決定づけた悲劇的な武将。
笠原清繁かさはらきよしげ笠原清繁は信濃の豪族。志賀城主として武田信玄に徹底抗戦。援軍が壊滅し、城は落城、清繁は討死。その死は武田の支配戦略に影響を与えた。
笠原綱信かさはらつなのぶ笠原綱信は後北条氏の伊豆衆筆頭・伊豆北郡代として伊豆統治を担った行政官僚。小机城代の笠原氏とは別系統。彼の死後、家は後継者問題と内通で終焉。
笠原信為かさはらのぶため笠原信為は後北条氏の宿老。早雲・氏綱・氏康三代に仕え、小机城代として武蔵統治に貢献。鶴岡八幡宮再建を指揮し、文武両道で後北条氏の礎を築いた。
笠原政尭かさはらまさたか笠原政尭は松田憲秀の長男で笠原氏の養子。武田氏への離反、小田原征伐での内応を企てるも弟の密告で殺害された。生存説も存在する悲劇の武将。
笠原康勝かさはらやすかつ笠原康勝は後北条氏の譜代家臣。父・信為の代から仕え、北条五色備「白備」旗頭、小机城代を務めた。養子の裏切りで実子を失う悲劇に見舞われた。
笠間綱家かさまつないえ笠間綱家は常陸笠間城主。宇都宮一門ながら独立志向が強く、内憂外患に苦しんだ。小田原征伐で豊臣方参陣も、戦後主家と豊臣政権の思惑で計画的に滅ぼされた悲劇の将。その最期は謎に包まれる。
花山院忠輔かさんのいんただすけ花山院忠輔は戦国期の公家。経済困窮で官職を辞し地方へ下向。家存続のため九条家から養子を迎え、家格再興に成功。彼の生涯は、激動の時代を生き抜いた公家の苦闘と戦略を映す。
柏山明助かしやまあきすけ没落した葛西旧臣から南部氏に仕えた武将。岩崎一揆の鎮圧で比類なき武功を挙げ岩崎城代に抜擢されるも、実力を主君に恐れられ酒宴にて毒殺された悲劇の将星。
柏山明長かしやまあきなが葛西氏の重臣・柏山明吉の三男。兄の家督継承を武力で支えて家中屈指の荒武者と評され、内訌を調停しようとした家老・三田将監を殺害した小山城主。
柏山明久かしやまあきひさ陸奥国の有力な国人領主。葛西氏の重臣。折居館主。秀吉の奥州仕置で主家が改易されると、葛西・大崎一揆の総帥として反乱軍を率い、徹底抗戦した猛将。
柏山明吉かしやまあきよし葛西氏の有力重臣で胆沢郡を支配した驍将。大林城を本拠に半ば独立した権威と家中屈指の軍事力を誇ったが、死後は息子たちの内紛により一族自壊の道を辿った。
果心居士かしんこじ戦国時代の幻術師、果心居士は織田信長や豊臣秀吉らの前で不可思議な術を披露。実在は謎だが、その幻術は権力者を翻弄し、後世の創作に影響を与えた。
勧修寺尚顕かじゅうじひさあき勧修寺尚顕は戦国期の公卿。戦乱と困窮を避け能登へ下向し出家。娘の婚姻で武家と繋がり、その血脈は後陽成天皇へ。文化と血縁を駆使し家を存続させた「生存戦略家」である。
梶原景時かじわらかげとき鎌倉幕府創成期の武将、梶原景時は源頼朝の懐刀として活躍。義経との確執で悪役とされたが、実像は有能な忠臣。頼朝死後、御家人弾劾により滅亡した。
梶原景宗かじわらかげむね紀伊出身。北条氏康に招聘され水軍総帥として安宅船を導入し制海権を握る。主家滅亡後も旧主・氏直に従い高野山へ随行、晩年まで物資を贈り支援し続けた忠義の海の将。
春日元忠かすがもとただ戦国から江戸初期の武将。当初は上杉氏の家臣として活躍するも、のちに徳川家康に仕え、佐渡奉行として金山開発や佐渡の行政基盤確立に尽力した。
糟屋源三郎かすやげんざぶろう「糟屋源三郎」は戦国時代の品川に実在した有力商人の典型像。糟屋は屋号、源三郎は格式ある通称。武士・商人・神官の複合的役割を担い、後北条氏の公的役務も果たした。
糟屋武則かすやたけのり糟屋武則は賤ヶ岳七本槍の一人として勇名を馳せた武将。秀吉に仕え加古川城主となるも、関ヶ原で西軍に与し改易。その後の消息は諸説あり謎に包まれるが、武勇と槍術に優れた生涯であった。
上総広常かずさひろつね上総広常は房総平氏の棟梁。源頼朝挙兵時に大軍を率いて参陣し鎌倉幕府創設に貢献。しかし、その強大な力と独立志向が頼朝の猜疑心を招き、謀殺された。
片桐且元かたぎりかつもと片桐且元は豊臣秀吉の重臣。賤ヶ岳七本槍の一人。秀吉死後、豊臣秀頼の後見役となるが、徳川家康との板挟みで豊臣家を去り、大坂の陣で徳川方として参戦した。
片桐貞隆かたぎりさだたか片桐貞隆は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原では秀頼を護持。大坂の陣で徳川方につき、小泉藩初代藩主となる。兄の家系が断絶する中、藩の礎を築き、茶道石州流の祖となる息子を育て、家を存続させた。
片倉景綱かたくらかげつな片倉景綱は伊達政宗の智将。傅役として政宗を支え、人取橋や摺上原で活躍。小田原征伐では秀吉を説得し、伊達家存続に貢献。白石城主として統治し、片倉家の礎を築いた。
片倉重長かたくらしげなが伊達政宗の重臣、片倉重長は「鬼小十郎」と称された猛将。大坂夏の陣で活躍し、真田幸村の娘・阿梅を保護し継室に迎えた。白石城主として治世に尽力し、武勇と治世を兼ね備え伊達家の安泰に貢献した。
堅田元慶かただもとよし戦国・江戸初期の武将。毛利輝元の側近として重用され、内政や外交で活躍。関ヶ原後は約二十年にわたり江戸で人質生活を送り、外交の最前線で毛利氏を支え客死した。
勝田八右衛門かつたはちえもん勝田八右衛門は、土佐の豪商。長宗我部元親の御用商人として木材交易や海運で巨富を築き、浦戸城築城を主導。長宗我部氏の「財布」として四国統一を支えたが、豊臣政権下の商業統制で影響力を失った。
桂元澄かつらもとずみ安芸国の武将。毛利氏の宿老。厳島の戦いにおいて、毛利元就の調略に従い陶晴賢を厳島に誘い出す偽りの内応を成功させ、毛利水軍の大勝利に貢献した智将。
葛山氏元かつらやまうじもと葛山氏元は駿河の国衆。今川・北条・武田の狭間で巧みな外交を展開し、領国を経営。武田信玄に誅殺され一族は滅亡したが、境目国衆の生存戦略を体現した。
加藤明利かとうあきとし加藤明利は名将・嘉明の三男で二本松藩主。有能な統治者だったが、兄・明成の会津騒動に巻き込まれ急死。死後、兄への連座を理由に改易。武断政治の犠牲者として再評価されるべき。
加藤明成かとうあきなり加藤嘉明の嫡男。陸奥会津藩主となるも、父の家風と時代の変化に適応できず、家臣との対立や悪政で藩政が混乱。会津騒動を経て、40万石を改易され悲運の生涯を閉じた。
加藤清正かとうきよまさ加藤清正は秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳七本槍。朝鮮出兵で活躍し肥後熊本藩主。築城・治水に手腕を発揮。関ヶ原で東軍に貢献しつつ豊臣家への忠誠を貫いた。
加藤貞泰かとうさだやす加藤光泰の嫡男。父の急死後、甲斐24万石から美濃黒野4万石へ減封される逆境から出発。関ヶ原で東軍に与し、伊予大洲藩初代藩主となり、藩の礎を築いた。
河東田清重かとうだきよしげ河東田清重は白河結城氏庶流の武将。天王館を拠点に佐竹氏と攻防を繰り広げ、主家滅亡後は伊達政宗に仕えた。子・親顕は慶長遣欧使節船の造船奉行を務め、武勇と統治能力で伊達家中に家名を存続させた。
加藤正方かとうまさかた加藤正方は清正重臣。藩政を掌握し八代城と城下町を整備、治水事業で功績。主家改易後も文化・経済で活躍し、息子を旗本として家を存続させた。
加藤政貞かとうまささだ尼子経久の曾孫。祖父の反乱により「加藤」姓を名乗る。尼子再興軍に加わり、羽柴秀吉の与力として上月城に籠城。毛利の大軍に包囲され、主君・尼子勝久に殉じて自害した。
加藤光泰かとうみつやす美濃の土豪から豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いで功を立て甲斐国主24万石にまで出世。朝鮮出兵中に急死するも、石田三成による毒殺説が囁かれ、加藤家は減封された。
加藤嘉明かとうよしあき豊臣秀吉に仕え賤ヶ岳の七本槍に数えられた武将。関ヶ原の戦功で伊予松山藩主となり松山城を築き、後に会津藩主に転封されるが、没後にお家騒動で改易された大名。
加藤忠広かとう・ただひろ加藤清正の三男。11歳で家督を継ぎ肥後熊本藩主となるも、幕府の介入と藩内の騒動で統治能力を失う。嫡男の不行跡も重なり、五十四万石を改易され、配流先で生涯を閉じた。
加藤段蔵かとう・だんぞう「飛び加藤」の異名を持つ伝説の忍者。上杉謙信、武田信玄に仕官を試みるも、能力を恐れられ暗殺されたとされる。史実と伝説の狭間に生きる謎多き異能者。
上遠野藤兵衛かとおのとうべえ上遠野藤兵衛(盛秀)は磐城国の国人領主。白河結城氏家臣として赤館城代を務め、佐竹氏と対峙。軍馬や鉄砲の売買にも関与した可能性。病死後、一族は帰農、佐竹氏や伊達氏に仕え近世へ繋がる。
角屋元秀かどやもとひで角屋元秀は伊勢大湊で廻船問屋を創業。神官の出自と地の利を活かし、徳川家康の御用商人となり飛躍。多角化と海外展開も行い、その名は現代の伊勢角屋麦酒にも継承される。
門脇政吉かどわきまさよし門脇政吉は浅利氏家臣から鷹匠・鷹絵師へ転身。織田信高、蒲生氏郷、豊臣秀吉に仕え、鷹絵師「橋本長兵衛」としても活躍。晩年は佐竹氏に仕え、浅利氏の存続に貢献した。
金上盛実かながみもりざね金上盛実は蘆名氏の重臣で、津川城主。摺上原合戦で父を失い、蘆名氏滅亡後も津川城に籠城し伊達政宗に抵抗。降伏後、城主を罷免され消息不明となるが、その後の人生には諸説ある。
金上盛備かながみもりはる金上盛備は蘆名氏の執権。卓越した政治・外交手腕で主家を支えるも、後継者問題で家中分裂。摺上原で忠義を貫き討死、蘆名氏滅亡の悲劇を飾った。
金鑽宮寺呑竜かなさなぐうじどんりゅう金鑽宮寺呑竜は架空の人物。武蔵の金鑽宮寺は武装した寺社で、呑龍上人は徳川家康に庇護された慈悲深い僧。戦国から近世への宗教の役割変化を象徴。
神余親綱かなまりちかつな神余親綱は上杉謙信の外交・経済を担った重臣。謙信死後、御館の乱で上杉景虎を支持し、上杉景勝と対立。三条城に籠城し抵抗を続けたが、謀略により討たれた。
金光文右衛門かなみつぶんえもん金光文右衛門は父を宇喜多直家に謀殺されながらも、その仇である直家・秀家に仕え武功を挙げた。主家没落後は隠棲したが、一族は後に岡山藩に仕官し再興。悲劇と実直さを併せ持つ武将。
金森可重かなもりありしげ金森可重は戦国・江戸初期の武将。飛騨高山藩主として藩政を確立し、茶人としても活躍。関ヶ原・大坂の陣で功を挙げ、家の存続に尽力した。
金森重近かなもりしげちか金森重近は武家の嫡男から茶人宗和へ転身。京都で「姫宗和」の茶風を確立し、仁清を後援。飛騨春慶塗にも関与し、宗和流を後世に継承した。
金森重頼かなもりしげより金森重頼は飛騨高山藩三代藩主。鉱山開発で藩を富ませ、飢饉で家宝を売り領民を救った名君。幕府の信頼も厚く、文化人でもあったが、繁栄が転封の遠因に。
金森長近かなもりながちか戦国から江戸初期の武将。三代の天下人に仕える。軍事功績のみならず、大野や飛騨高山、美濃の美しい城下町と都市建設を成し遂げた卓越した手腕を持つ民政家。
嘉成重盛かなりしげもり嘉成重盛は安東家臣で米内沢城主。安東氏の鹿角攻めで功を立て、阿仁郡代となる。南部氏の攻撃を撃退し、大館城奪還戦に参加したが、その最期は不明。
可児才蔵かにさいぞう槍の名手。討首に笹を含ませ「笹の才蔵」の異名を持つ。福島正則に仕え、関ヶ原の戦いで十七の首級を挙げるなど、特定の家に縛られず己の武勇で乱世を駆け抜けた豪傑。
金子元宅かねこもとたく伊予の国人領主。金子城主。人格・識見ともに優れた義将。豊臣秀吉の四国征伐に際し、圧倒的な兵力差を前に降伏を拒み徹底抗戦して玉砕し、最期は義に殉じた。
金田弘久かねだひろひさ金田弘久は美作三浦氏の重臣。永禄2年、主君貞勝を擁し尼子氏から高田城を奪還した功労者で、旭川で溺死した忠臣とされる。裏切り説は同族別人の逸話が混同されたものと推測される。
兼平綱則かねひらつなのり兼平綱則は津軽為信の重臣「大浦三老」の一人。津軽統一に貢献し、隠居後も藩政に影響力を持った。特に川中島移封に反対し、津軽の地を守った。
鐘捲自斎かねまきじざい鐘捲自斎は富田流を学び、鐘捲流を創始した剣豪。伊藤一刀斎の師であり、佐々木小次郎の師とも伝わる。その生涯は謎が多いが、剣術史の重要な結節点となった。
印牧美満かねまきよしみつ印牧美満は越前朝倉氏の家臣で、府中の奉行職を務め、朝倉家の基盤を支えた能吏。加賀一向一揆攻めにも従軍したが、1560年以降は記録から姿を消す。
兼松正吉かねまつまさよし織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三天下人に仕えた武将。「小豆坂七本槍」の一人。刀根山の戦いで信長から「足半」を拝領。関ヶ原では旧友との一騎打ちで武士の義理を示し、尾張藩士として天寿を全うした。
狩野秀治かのうひではる上杉景勝政権の執政。御館の乱後に直江兼続と二頭体制を構築し、取次役として織田氏や羽柴秀吉との外交など重要政務を主導したが、天正12年頃に病死した。
神生通朝かのうみちとも神生通朝は常陸江戸氏の重臣。「神生の乱」を起こし、徳政令を巡り江戸通澄と対立。嫡男を失い敗走。乱は佐竹・伊達の代理戦争となり、江戸氏滅亡の遠因となった。
狩野泰光かのうやすみつ狩野泰光は後北条氏の重臣。評定衆筆頭として政務を担い、後に北条氏照の懐刀として八王子城を守る。小田原征伐で八王子城が落城し、壮絶な最期を遂げた。
鹿子木鎮有かのこぎしげあり鹿子木鎮有は肥後の国人領主。祖父が築いた大友氏との協調路線を破り、旧主を担ぎ反旗。大友宗麟に敗れ隈本城で戦死。その生涯は、中央権力に飲み込まれる地方勢力の宿命を象徴する。
鹿子木親員かのこぎちかかず鹿子木親員は肥後の国人。隈本城を築き、菊池氏から大友氏へ転身。藤崎八旛宮復興や源氏物語購入など文化事業も。その死後、一族は没落するも「寂心さん」として慕われた。
樺山忠助かばやまただすけ樺山忠助は島津家重臣。武勇と教養を兼ね備え、三州統一に貢献。岩屋城で奮戦し、佐土原城を守った。島津家の内情を記した『樺山紹剣自記』を残す。
樺山久高かばやまひさたか樺山久高は島津家重臣。九州平定や朝鮮出兵で武功を挙げ、琉球侵攻の総大将を務めた。文武両道に秀でたが、晩年は主君との確執に苦しんだ。
樺山善久かばやまよしひさ島津氏の重臣、樺山善久は武勇と教養を兼ね備えた武将。宗家と姻戚関係を結び、武功を挙げた。京文化にも造詣が深く、島津氏の発展に貢献した。
鹿伏兎定秀かぶとさだひで鹿伏兎定秀は伊勢の豪族。織田信長に服属後、姉川の戦いで浅井方に加わり討死。その後の鹿伏兎一族も信長・秀吉との抗争で滅亡した悲運の家。
鎌田政年かまたまさとし鎌田政年は島津氏の重臣。馬越城攻めで義弘を救い、日新斎から激賞。各地の地頭を歴任し、武功と統治手腕を発揮。看経所の四功臣の一人。島津氏の飛躍を支えた。
蒲池鑑久かまちあきひさ蒲池鑑久は筑後十五城の旗頭として柳川城を本拠に勢力を拡大。大友義鑑に仕えるも、その強大さを警戒され、将軍への供奉怠慢を口実に粛清された悲劇の武将。
蒲池鑑盛かまちあきもり蒲池鑑盛は筑後の名族当主で「義心は鉄のごとし」と称された義将。大友氏に忠誠を尽くし、龍造寺隆信を二度保護。耳川の戦いで壮絶な討死を遂げ、その死は一族の悲劇の序章となった。
蒲池鎮漣かまちしげなみ蒲池鎮漣は筑後の名族当主。父の死後、龍造寺隆信に属するも対立。隆信の謀略により佐賀で謀殺され、蒲池宗家は滅亡した。その悲劇は戦国九州の非情さを物語る。
蒲池治久かまちはるひさ蒲池治久は、大友氏との主従関係を確立し、柳河城築城や崇久寺再興で蒲池氏の基盤を固めた。二家分立で勢力拡大とリスク分散を図り、一族の繁栄の礎を築いた。
上泉信綱かみいずみのぶつな上泉信綱は戦国時代の剣聖。新陰流の創始者で、足利義輝に兵法を上覧。柳生宗厳や丸目長恵らを育て、諸国を遍歴し新陰流を広めた。没年や終焉の地には諸説ある。
上泉泰綱かみいずみやすつな上泉泰綱は剣聖・上泉信綱の孫。後北条氏滅亡後、上杉景勝に仕え、直江兼続の配下となる。慶長出羽合戦の長谷堂城攻防戦で奮戦し戦死。会津一刀流の開祖とされる。
神屋寿禎かみやじゅてい神屋寿禎は石見銀山を発見し灰吹法を導入した博多の豪商。彼の事業は日本の銀生産を飛躍させ、16世紀の東アジア経済に大きな影響を与えた。
神屋宗湛かみやそうたん神屋宗湛は博多の豪商・茶人。石見銀山開発で富を築き、豊臣秀吉の博多復興事業を主導。茶の湯を通じて天下人と交流し、黒田藩の御用商人として活躍した。
亀井茲矩かめいこれのり尼子氏遺臣から秀吉に仕え因幡鹿野城主となった武将。朱印船貿易を行い日光生姜を導入したほか、大井手用水路建設などの土木事業で領国を富ませた稀代の経世家。
亀井秀綱かめいひでつな亀井秀綱は尼子氏の宿老。毛利元就の家督介入を画策するも失敗。その謀略が尼子氏衰退の遠因となる。娘婿の亀井茲矩が家名を継ぎ、津和野藩主となった。
亀井政矩かめいまさのり亀井茲矩の次男で津和野藩主。徳川秀忠の近習として大坂の陣に従軍し、高台寺月真院を建立する。しかし上洛中に病を得て、伏見の狼谷で落馬し三十歳で急逝した武将。
亀ヶ森光広かめがもりみつひろ陸奥国稗貫郡の有力な国人領主。主家稗貫氏に対して自立を求めて反旗を翻し、稗貫郡内の亀ヶ森城を拠点に激動の時代を戦い抜いた反骨の武将。
亀田高綱かめだたかつな亀田高綱は柴田勝家、浅野家に仕えた武将。蔚山城や大坂夏の陣で活躍。同僚との手柄争いで浅野家を致仕。晩年は自らの武功を記録し、武士の意地を貫いた。
蒲生茂清かもうしげきよ蒲生茂清は大隅の国人領主。島津貴久に反旗を翻したが鎮圧。義弘負傷は息子範清の戦いと混同。反乱は大隅合戦の導火線となり、蒲生氏は滅亡したが分家は存続。
蒲生範清かもうのりきよ蒲生範清は大隅の豪族で、島津氏の三州統一に抵抗。岩剣城の戦いでは両軍が鉄砲を使用する激戦を繰り広げた。最終的に降伏し、蒲生氏の領地支配は終焉を迎えるも、血筋は存続した。
鴨長明かものちょうめい鴨長明は乱世に生きた知識人で、『方丈記』で無常観を説いた。挫折を経験し隠棲したが、歌人・音楽家としても活躍。その生涯は普遍的な文学へと昇華された。
萱場元時かやばもととき戦国から江戸初期の伊達氏の家臣。通称は源兵衛。同名を称する武将が親子二代にわたって存在し、軍事や内政で伊達政宗の覇業を支え続けた謎多き一族の当主。
加陽国親かようくにちか加陽国親は但馬国の国人領主とされるが、史実には存在せず、ゲーム「信長の野望」の架空武将。円山川水運と生野銀山を背景に、軍馬や鉄砲の売買に関与した可能性が示唆される。
河合七郎次郎かわいしちろうじろう河合七郎次郎は架空の桑名商人だが、戦国時代の桑名の特質を凝縮。桑名は「十楽の津」と呼ばれ、自由な商業と町衆自治が特徴。激動の時代を生き抜き、茶の湯や刀剣文化も担った。
河合吉統かわいよしむね越前朝倉氏の重臣。奉行人として行政を担い、武将としても姉川の戦いで先鋒を務めるなど文武両道に活躍。刀禰坂の戦いで討死し、主家と運命を共にした。
川上忠克かわかみただかつ川上忠克は、島津氏庶流の川上氏出身。薩州島津実久に与し、串木野城主となる。実久降伏後、甑島へ配流されるも、島津貴久に赦免され家老に抜擢。貴久の子弟の傅役を務め、忠節を尽くした。86歳で没。
川上忠実かわかみただざね川上忠実は島津氏陪臣。沖田畷や泗川で武功を挙げ、垂水島津家を支えた。最期は公式記録と異なり、主家への諫言で誅殺された悲劇の忠臣と伝わる。
川上久朗かわかみひさあき戦国時代の島津家臣。若くして家老に抜擢され外交等で活躍。島津忠良に将来を嘱望されたが、堂ヶ崎の戦いで島津義弘を救うため殿となり、戦傷で夭折した。
河上用介かわかみようすけ河上用介は戦国飛騨の商人。紅粉を扱い、江馬氏の御用商人として経済・外交を担った。同族に武士の河上富信がおり、一族で江馬氏の両面外交を支えた可能性。江馬氏滅亡後、消息不明。
川口宗勝かわぐちむねかつ戦国から江戸初期の武将。織田信長や豊臣秀吉に仕え、弓部隊を率いる弓将として活躍。関ヶ原で西軍に属し蟄居となるが、家康との血縁により許され旗本となった。
河越重頼かわごえしげより平安末期から鎌倉初期の武将。武蔵武士団の惣領。源頼朝の挙兵に従い、娘を源義経に嫁がせて権勢を誇るも、後に義経との連座で処刑された悲劇の将。
川崎祐長かわさきすけなが川崎祐長は日向伊東氏の重臣。主家が豊後へ退去する苦難を共にし、濁酒で貧窮を救う。伊東氏再興後は清武城主となり、その政治手腕で家を中興した。
川崎時盛かわさきときもり川崎時盛は戦国時代の越前の武芸者で、東軍流の創始者。富田勢源に師事し、剣術・柔術・軍学を含む総合武術を確立。東軍流は全国に広まり、現代まで継承される。
革島一宣かわしまかずのり戦国時代の山城国人、革島一宣の生涯と革島氏の興亡。三好氏に追われ信長に帰順、本能寺の変で明智方に加担し没落。帰農後も家系と文書を継承。
川島宗泰かわしまむねやす備前国の国人領主。名門川島氏の当主。浦上宗景の家臣として活躍し、宇喜多直家と結んで勢力維持を図るも、戦乱の中で没した戦国時代の武将。
河尻秀隆かわじりひでたか河尻秀隆は織田信長の重臣。黒母衣衆筆頭。信長の弟・信行暗殺を遂行。美濃岩村城主。信忠の後見役として甲州征伐で活躍し甲斐国主となる。本能寺の変後、武田遺臣に討たれた。
河尻秀長かわじりひでなが河尻秀長は織田信長の家臣・河尻秀隆の子。父の死後、豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手、九州平定、小田原征伐などに従軍。摂津代官や方広寺大仏殿建設奉行も務めた。関ヶ原で西軍に属し戦死。
河副久盛かわそえひさもり河副久盛は尼子氏の譜代家臣で、美作方面軍司令官。尼子氏滅亡後も再興軍に参加し、月山富田城攻略中に病没。文武に秀でた忠臣として知られる。
河田長親かわだながちか近江国出身の武将。上杉謙信の側近として異例の抜擢を受け、内政や外交で活躍。北陸方面軍の総指揮官に任命され織田軍と対抗した有能な戦国武将。
河津隆家かわづたかいえ河津隆家は筑前宗像氏に仕え、大内氏郡代として権勢を確立。大友氏との戦いで活躍するも、和睦条件として主君氏貞の命で謀殺された悲劇の将。その死は西郷党の遺恨となり、小金原の合戦へと繋がった。
河原綱家かわはらつないえ河原綱家は真田家に仕えた重臣。真田家の存続と発展に貢献し、主君の家族保護や領地統治で活躍。後世の創作逸話もあるが、NHK大河ドラマで再評価された。
川端道喜かわばたどうき川端道喜は戦国期の京の餅屋。朝廷に献上し信頼を得、信長・秀吉・利休と交流。両陣営に粽を献上し乱世を生き抜き、500年続く老舗の礎を築いた。
川村重吉かわむらしげよし伊達政宗に仕えた卓越した土木技術者。北上川の改修や石巻港の整備、貞山運河や四ツ谷用水の建設、新田開発を指揮し、仙台藩の実質百万石の基盤を築いた治水の名手。
河原田盛次かわらだもりつぐ陸奥国の国人領主。河原田氏当主。三春城主。伊達氏や南部氏などの強大国に対抗しながら、勢力維持と領国統治に努めた戦国時代初期の有能な宿将。
川原具信かわらとものぶ浪岡氏当主・北畠具信は川原御所を再興し、氏の存続に尽力。しかし大浦為信に滅ぼされ、その生涯は浪岡氏の興亡と密接に関わる。川原御所記に記される。
神吉頼定かんきよりさだ神吉頼定は播磨神吉城主。三木合戦で別所長治に与し、織田信長の大軍に抵抗。壮絶な籠城戦の末、城は落城し頼定は戦死。血脈は奇跡的に現代まで継承された。
上林久重かんばやしひさしげ上林久重は宇治茶師上林家の始祖。息子たちを核とした一族事業体を構築し、宇治茶業界の基盤を築いた。長男久茂が「神君伊賀越え」で徳川家康を助けた功により、上林家は宇治代官として栄華を極めた。
鎌原幸定かんばらゆきさだ鎌原幸定は真田幸隆の実弟。上州鎌原家へ養子入りし、真田氏の西上州進出の足がかりを築く。武田・真田軍の先鋒として活躍。その後の鎌原氏の繁栄の礎となった。
神戸具盛かんべとももり神戸長盛の子かんべながもりのこ神戸具盛(友盛)は神戸長盛の子。兄の急死で還俗し家督相続。織田信長に抵抗後、信孝を養子に迎えるも幽閉される。晩年は義弟・織田信包を頼り客死。
神戸具盛かんべとももり北畠材親の子きたばたけとものりのこ神戸具盛(楽三)は北畠材親の子で、神戸氏4代当主。神戸城築城と支城網整備、婚姻政策で勢力拡大。伊勢の戦国大名として神戸氏の基礎を築いた。
菅正利かんまさとし黒田二十四騎の一人。賤ヶ岳の戦いで初陣を飾り、朝鮮出兵では虎退治の武勇伝を残す。関ヶ原では島左近を狙撃し、戦後は筑前で新田開発を指揮した智勇兼備の猛将。
神馬忠春かんまただはる神馬忠春は下野佐野氏の重臣で浅利城主。河越合戦で戦死し、浅利城は廃城。彼の死は佐野氏の西方防衛線に打撃を与え、神馬一族の歴史を終焉させた。
菅達長かんみちなが菅達長は淡路水軍の将。毛利・長宗我部・豊臣・藤堂に仕え、九州・小田原征伐、朝鮮出兵で活躍。関ヶ原で西軍につき失領後、藤堂高虎に仕えた。菅流を創始。
神森出雲かんもりいずも土佐本山氏の家臣。長宗我部軍に抗い神森城に籠城。水の手を断たれ白米で馬を洗う偽計で敵を欺いたが、奇襲を受けて落城し自刃。死後は怪火が現れる伝説が残る。
鰐淵寺厳空がくえんじがんくう出雲国の天台宗古刹・鰐淵寺の住持。尼子氏や毛利氏が争う戦乱期に、大名の要請を受けて一軍を率いたと伝えられるが、史料が乏しい謎の僧将。
楽厳寺雅方がくがんじまさかた信濃国の国人領主で額岩寺駿河守と称される。当初は小笠原氏に仕えるも、のちに武田信玄に従い、信濃の統治や軍事で活躍した有能な僧兵武将。
楽巌寺雅方がくがんじまさかた楽巌寺雅方は北信濃の僧形武将。武田信玄に抵抗し村上義清に仕えるも、後に武田氏に臣従。武田家臣として活動したが、その後の消息は不明。
蒲生氏郷がもううじさと蒲生氏郷は織田信長に才を見出され、豊臣秀吉の下で会津92万石の大名に。武勇、統治、文化に秀で、利休七哲筆頭。40歳で病死、その早すぎる死は毒殺説も。蒲生家の飛躍と衰退の象徴。
蒲生賢秀がもうかたひで蒲生賢秀は戦国時代の武将。六角氏重臣として観音寺騒動を調停。織田信長に臣従し、本能寺の変では信長の妻子を保護。忠義と現実主義を兼ね備え、蒲生氏郷の飛躍の礎を築いた。
蒲生定秀がもうさだひで蒲生定秀は六角氏の重臣。日野城を築き、城下町を整備。観音寺騒動を調停し、織田信長に臣従。蒲生氏郷の祖父で、蒲生家発展の礎を築いた知勇兼備の将。
蒲生郷成がもうさとなり蒲生郷成は坂氏出身。氏郷に仕え「蒲生」姓を拝領し重臣に。氏郷死後、家中の騒動で主家減封。笠間城を改修。二度出奔後、家康斡旋で帰参決定も病死。波乱の生涯。
蒲生茂綱がもうしげつな蒲生茂綱は蒲生定秀の次男で青地氏の養子。六角氏家臣から織田信長に臣従。宇佐山城の戦いで森可成らと討死。喉の手拭いの逸話が残る忠勇な武将。
蒲生高郷がもうたかさと蒲生高郷は戦国時代の近江武将。六角氏の支援を得て蒲生宗家を簒奪し、その後の蒲生氏の発展の礎を築いた。その非情な権力掌握は、後の蒲生騒動の遠因ともなった。
蒲生忠郷がもうたださと蒲生忠郷は氏郷の孫、家康の曾孫。10歳で会津60万石を継ぐも、家中騒動と幕府の介入に苦しむ。26歳で嗣子なく死去し、蒲生家断絶の遠因となった。
蒲生秀行がもうひでゆき蒲生氏郷の子がもううじさとのこ蒲生秀行は蒲生氏郷の子。若くして会津92万石を継ぐも、家中騒動と豊臣秀吉の思惑で宇都宮へ減封。関ヶ原で東軍につき会津60万石に復帰。心労で30歳で死去、蒲生家断絶の遠因となる。
蒲生秀行がもうひでゆき蒲生貞秀の子がもうさだひでのこ蒲生秀行(刑部大輔)は蒲生貞秀の長男で15代当主。1513年に早世し、その死が家督争いを引き起こし、蒲生氏の主流が高郷系へ移る契機となった。
蒲生忠知がもう・ただとも蒲生忠知は蒲生氏郷の孫。兄忠郷の死後、伊予松山24万石へ減転封。寛永蒲生騒動で家臣団が崩壊。嗣子なく30歳で死去し、蒲生家は断絶した。
願証寺証意がんしょうじしょうい願証寺証意は伊勢長島願証寺住持で、本願寺宗主の血を引く院家。長島一向一揆を指導し、織田信長の第一次侵攻を撃退するも直後に急死。一揆は信長に壊滅させられた。
願証寺証恵がんしょうじしょうえ願証寺証恵は長島一向一揆の指導者とされるが信長との戦い前に死去。息子証意と孫顕忍が抵抗するも長島は壊滅。血脈は顕恵により再興された。
願証寺明俊がんしょうじみょうしゅん願証寺「明俊」は史料にないが、長島一向一揆を指導した願証寺4世証意と5世顕忍を中心に、その壮絶な戦いを解明。長島の地理的特性と信仰が強固な抵抗を生んだ。
願証寺蓮淳がんしょうじれんじゅん願証寺蓮淳は蓮如の六男。法主・証如の後見人として本願寺の権力を掌握。加賀一向一揆を鎮圧し、山科本願寺焼失後は伊勢長島へ逃れ、教団を再編した。
願泉寺勝慧がんせんじしょうけい「願泉寺勝慧」は史料未確認。貝塚願泉寺の卜半斎了珍は、顕如を庇護し天下人と交渉、寺内町の自治と繁栄を築いた政治家・都市経営者・宗教家。