最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:き
「き」に属する武将:93件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 城井鎮房 | 城井鎮房は豊前宇都宮氏16代当主。大友・島津の間を巧みに渡り歩くも、豊臣秀吉の国替え命令を拒否。黒田孝高・長政親子の謀略により、父・長房、嫡男・朝房、娘・鶴姫と共に一族皆殺しにされた悲劇の武将。 |
| 城井長房 | 城井長房は豊前宇都宮氏15代当主。本家・下野宇都宮氏の内紛に介入し、その存続に尽力。豊臣秀吉の九州平定後、国替えを拒否し、黒田氏の謀略により父子共に殺害され、城井氏は滅亡した。 |
| 城井正房 | 城井正房は豊前宇都宮氏の14代当主。大内氏滅亡後の混乱期に、毛利方についた山田隆朝の襲撃を退け、大友氏の傘下に入る。孫の鎮房の悲劇的な滅亡へと繋がる時代の転換期を生きた。 |
| 喜入季久 | 喜入季久は島津氏重臣。武勇・外交・文化に秀で、九州統一戦で活躍。将軍足利義昭への使者も務めた。晩年は鹿籠を領有し、豊臣秀吉の九州平定を見届け57歳で死去。 |
| 菊池武包 | 菊池武包は菊池氏庶流出身。家臣団に擁立され菊池氏25代当主となるが、大友氏の圧力で追放。筒ヶ嶽城で挙兵するも敗北し、肥前高来で病死。菊池本宗の血筋は断絶した。 |
| 菊池武光 | 菊池武光は南北朝時代の武将。懐良親王を奉じ九州南朝勢力を確立、筑後川の戦いで勝利し大宰府を支配。明との外交も行い、九州の南朝を支えた。 |
| 菊池政隆 | 戦国時代の武将。肥後守護菊池氏の二十三代当主。家臣団の裏切りで追放されるが、後に旧臣・玉屋貞親の支援で挙兵。しかし久米原の戦いで阿蘇氏に敗れ、自刃した。 |
| 菊池能運 | 菊池能運は12歳で家督を継ぎ、大叔父為光の謀反で隈府城を追われるも、忠臣と相良氏の支援で帰還。高瀬の戦いで為光を破るが、戦傷がもとで23歳で夭折。菊池氏の事実上の終焉となった。 |
| 菊池義武 | 肥後の名門・菊池氏最後の当主。大友氏から養子入りするも実家の大友義鑑や宗麟と対立。尼子氏らと結んで幾度も挙兵し抵抗したが、最後は自刃させられ没落した。 |
| 菊亭晴季 | 菊亭晴季は清華家の公卿。武田信虎の娘を妻に迎え、豊臣秀吉の関白就任を斡旋し栄華を極める。秀次事件に連座し越後へ流罪となるが、徳川家康の推挙で復帰。文化人としても活躍し、菊亭家を存続させた。 |
| 木沢長政 | 木沢長政は戦国畿内の武将。細川晴元に仕え、宗教勢力を利用し権勢を拡大。越境支配を試みるも孤立し、太平寺の戦いで敗死。下克上を体現した梟雄。 |
| 岸田忠氏 | 岸田忠氏は、大和国の国人。筒井順慶に仕え、後に豊臣秀長・秀保を経て秀吉直臣となり一万石大名に。関ヶ原で西軍に与し改易されるも、藤堂高虎の助命で盛岡藩に預けられ、北国で生涯を終えた。 |
| 来次氏秀 | 戦国・江戸初期の武将。出羽観音寺城主。大宝寺や最上氏の間で去就に迷うが、十五里ヶ原合戦後は上杉氏に従う。書や連歌に優れ、景勝の側近や右筆としても活躍した。 |
| 来次時秀 | 来次時秀は出羽国飽海郡の国人領主。観音寺城を築城し、大宝寺氏の有力家臣として活動。子の氏秀の時代に最上・上杉氏との間で巧みな日和見戦略を展開した。 |
| 木曾義在 | 木曾義在は信濃木曾谷の領主。父の死後、内政と外交で領国を安定させ「風流太守」と称された。中山道の原型を整備し、木曾氏の基盤を築いた。 |
| 木曾義利 | 木曾義利は木曾氏最後の当主。父・義昌の武田離反で家督を継ぐ。叔父殺害などの不行状で改易され、後半生は伊予松山客死説と長崎平戸伝承がある。 |
| 木曾義仲 | 平安末期の武将。源義賢の次男。木曾で育ち挙兵。倶利伽羅峠の戦いで平家を破り入京して朝日将軍と称されるも、のちに源頼朝が送った義経らの軍に敗れ、粟津で討死した。 |
| 木曾義昌 | 木曾義昌は武田氏を離反し織田・豊臣に仕え、激動の時代を生き抜いた。裏切り者と評されるも、自領存続のため巧みに立ち回り、移封先では善政を敷いた戦略家である。 |
| 木曾義元 | 信濃国木曾谷の領主。小笠原氏を破り鳥居峠に戦勝祈願の鳥居を建てたが、飛騨の三木氏との王滝城の戦いに敗れ、敗走の途上で三十歳で戦死した戦国武将。 |
| 木曾義康 | 信濃国の有力な国人領主。木曾谷を拠点とし「信濃四大将」の一人に数えられる。武田信玄の侵攻に抗戦するも降伏し、武田一門の親族衆となった猛将。 |
| 北里政義 | 北里政義は肥後の国衆。阿蘇氏に仕えつつ大友氏とも関係を持ち、島津氏侵攻で降伏。子の重義と対立するも、一族は加藤氏に仕え、惣庄屋として存続した。 |
| 北条景広 | 北条景広は越後北条氏の武将。「鬼弥五郎」と称され、御館の乱で上杉景虎方につき活躍。しかし、天正7年(1579年)に景勝方の奇襲で暗殺され、景虎方の敗北を決定づけた。 |
| 北条高広 | 北条高広は上杉謙信に仕え、度々離反と帰参を繰り返した武将。御館の乱で景虎方につき、謙信死後は武田・滝川・後北条と主君を変え波乱の生涯を送った。 |
| 北楯利長 | 北楯利長は最上義光に仕え、庄内平野に北楯大堰を開削。領民から「大学様」と慕われ、水神として祀られた。世界かんがい施設遺産にも登録された。 |
| 北愛一 | 北愛一は南部信愛の長男。父の功績で独立した家を興し、寺田城主となる。藩主家と姻戚関係を結ぶも、鷹狩りの不祥事で家勢が衰退し、わずか四代で嫡流が断絶した。 |
| 北之川親安 | 北之川親安は伊予の国人領主。西園寺氏に仕え、三滝城主。長宗我部元親の侵攻に対し、波川玄蕃の娘を娶り臣従するも、玄蕃の謀反に連座し討伐され、三滝城で討死した。 |
| 北之川経安 | 北之川経安は伊予の国人領主。長宗我部元親の侵攻に対し、西園寺氏を裏切り長宗我部氏に臣従。しかし、岳父の謀反により長宗我部氏に討伐され、三滝城で戦死した。 |
| 北信景 | 北信景は南部氏の重臣・桜庭光康の子で、北信愛の養子。金山奉行として藩財政に貢献したが、主君利直との確執から出奔。大坂の陣で豊臣方として奮戦し、「南部の光り武者」と称されたが、捕らえられ処刑された。 |
| 北信愛 | 北信愛は南部氏の重臣。南部信直の家督相続を助け、九戸政実の乱鎮圧や花巻城防衛で活躍。花巻城代として城下町整備も行い、南部氏の近世大名化に貢献した。 |
| 北原兼孝 | 北原兼孝は日向の武将。伊東氏の内紛に介入し勢力拡大を図るも、敗北し家督を譲る。伊東氏の謀略で一族は分裂、兼孝は暗殺され、北原氏は滅亡。 |
| 北畠顕家 | 北畠顕家は南北朝時代の南朝の公家武将。後醍醐天皇の信任厚く、奥州将軍府を統治し、足利尊氏を二度破るも、21歳で戦死。その生涯は「花将軍」と称され、後世に神として祀られた。 |
| 北畠顕能 | 北畠顕能は南北朝時代の南朝を支えた公家武将。伊勢国司として伊勢神宮を擁し、北朝と戦い、京都を一時奪還。公家と武家の特性を融合した統治で伊勢北畠氏の礎を築き、歌人としても活躍した。 |
| 北畠具教 | 北畠具教は伊勢国司で剣豪。塚原卜伝から秘剣を授かり、織田信長と対峙。大河内城で籠城するも和睦。その後、信長の謀略「三瀬の変」で一族と共に殺害された。 |
| 北畠具房 | 北畠具房は伊勢国司北畠氏の当主。父具教の隠居後、実権なく当主となる。織田信長に攻められ大河内城で籠城するも和睦。信長の次男信雄の養父となるが、三瀬の変で一族が粛清される中、幽閉され、後に病死した。 |
| 北畠晴具 | 北畠晴具は伊勢国司北畠氏の7代当主。公家大名として伊勢を最大版図に広げ、志摩・大和・紀伊へ勢力を拡大。文化人としても優れ、北畠氏館跡庭園を築くなど、文武両道で北畠氏の最盛期を築いた。 |
| 北畠政郷 | 北畠政郷は伊勢国司北畠家5代当主。応仁の乱期に家督を継ぎ、国司と守護を兼ねた。長野氏との戦いや木造師茂の乱で苦戦し、子の材親に実権を奪われた。 |
| 北畠昌教 | 北畠昌教は伊勢国司北畠氏の当主具教の子とされるが、その実在性は不明。三瀬の変で一族が滅亡後、忠臣に守られ奥州鹿角へ落ち延び、折戸氏の祖となったという伝説がある。 |
| 北致愛 | 北致愛は南部信義の子で、南部宗家の正嫡。父の死後、八戸信長の介入で家督を継げず、母方の剣吉氏を継ぎ剣吉城主となった。息子は南部氏重臣の北信愛。 |
| 喜多村弥兵衛 | 戦国から江戸初期の武将。初名は喜多村利之。伊賀国を追われて徳川家康に仕え、のちに江戸幕府の町年寄や豪商として江戸の行政基盤を築いた商人。 |
| 吉川興経 | 吉川興経は藤姓吉川氏最後の当主。大内・尼子氏の間で揺れ、武勇に優れるも信望を失う。毛利元就の謀略で家督を奪われ、非業の死を遂げた。 |
| 吉川国経 | 吉川国経は父経基の遺産を継承し、毛利元就に娘を嫁がせ、尼子氏へ転向。巧みな外交で吉川氏の地位を維持し、毛利両川体制の礎を築いた堅実な戦略家。 |
| 吉川経家 | 吉川経家は鳥取城の城将。羽柴秀吉の兵糧攻め「渇え殺し」で城兵と領民を救うため自刃。その高潔な精神は「武士の鑑」と称えられ、現代まで語り継がれる。 |
| 吉川経基 | 吉川経基は応仁の乱で「鬼吉川」と恐れられ、武勇と知略で吉川氏を中興。製鉄で経済基盤を固め、婚姻政策で外交網を築き、文武両道の家風を確立。毛利両川体制の礎を築いた戦略家。 |
| 吉川経安 | 吉川経安は石見吉川氏の当主。毛利氏に臣従し、石見銀山管理や福光石産業振興に尽力。嫡男経家の死後も孫を養育し、毛利家の行く末を見届けた。 |
| 吉川経世 | 吉川経世は、当主・興経の優柔不断に不満を抱き、毛利元就と結託。甥の元春を吉川氏当主に擁立し、興経を追放。吉川氏を毛利氏の家臣団に組み込み、一族の存続と繁栄の礎を築いた。 |
| 吉川広家 | 吉川広家は毛利元春の三男。関ヶ原で毛利家存続のため徳川家康と内通し、毛利軍の不戦を工作。戦後、岩国領主となり、毛利家を支えた知将。 |
| 吉川元氏 | 吉川元氏は毛利元春の次男。仁保氏を継ぎ、豊臣政権下で活躍。関ヶ原では毛利家存続のため広家の行動を黙認。後に毛利姓を賜り、長州藩重臣阿川毛利家を創設した。 |
| 吉川元経 | 吉川元経は毛利元就の義兄。有田中井手の戦いで武功を挙げたが、早世で家督が不安定化。毛利氏による吉川家乗っ取りの遠因となった悲運の武将。 |
| 吉川元長 | 吉川元長は吉川元春の嫡男。武勇と教養を兼ね備え、毛利両川体制を継承。九州征伐中に病死し、その早世が弟広家への家督継承と関ヶ原の毛利家存続に繋がった。 |
| 吉川元春 | 吉川元春は毛利元就の次男で「毛利両川」の一人。生涯無敗の猛将「鬼吉川」として山陰方面を平定。武勇だけでなく『太平記』書写など文化的素養も持ち合わせた。 |
| 木付鎮秀 | 木付鎮秀は大友氏の忠臣。耳川の戦いで殿軍を務め武功を挙げるも、味方の裏切りで戦死。子の鎮直も主家滅亡に殉じ自害し、木付氏344年の歴史に幕を閉じた。 |
| 喜連川頼氏 | 喜連川頼氏は足利氏の末裔。秀吉の命で氏姫と結婚し喜連川藩を創設。実質5千石ながら10万石格の特権を得て、足利の家名を江戸時代に繋いだ。 |
| 衣笠範景 | 衣笠範景は播磨の国人領主。別所氏家臣として端谷城主。三木合戦で秀吉軍と戦い落城。忠義を貫いた悲劇の武将。弟景延は黒田家に仕え対照的な生涯。 |
| 木下家定 | 豊臣秀吉の義兄で北政所の実兄。播磨姫路城主や大坂城留守居役を務め、関ヶ原の戦いでは中立として妹を護衛し、後に備中足守藩の初代藩主となった戦国武将。 |
| 木下勝俊 | 戦国から江戸初期の武将・歌人。木下長嘯子と号す。豊臣秀吉の親族として厚遇されるも関ヶ原で改易。その後は京都で近世初期を代表する歌人となった。 |
| 木下重堅 | 木下重堅は荒木村重の家臣から豊臣秀吉に仕え、木下姓を賜り因幡若桜2万石の大名に。関ヶ原で西軍につき、大津城攻防後自刃。子孫は杉田玄白と姻戚関係。 |
| 木下利房 | 安土桃山・江戸初期の武将。高台院の甥。関ヶ原の戦いで改易されるが、大坂の陣で徳川方に与し高台院を監視した功により、備中足守藩主として大名に復帰した。 |
| 木下延俊 | 豊臣秀吉の正室・高台院の甥で、最も寵愛された武将。関ヶ原では東軍に与して豊後日出藩の初代藩主となり、貴重な史料『慶長日記』を残した茶の湯を愛する文化人。 |
| 木下昌直 | 龍造寺氏の重臣で「龍造寺四天王」の一人。鍋島直茂の麾下として活躍し、沖田畷の戦いを生還。のちに鍋島藩の重臣として家名を残した勇将。 |
| 木下頼継 | 大谷吉継の次男。豊臣秀吉より木下姓を賜り木下家定の猶子となる。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、小早川らの裏切りで敗北し帰国後病死した戦国武将。 |
| 加久見左衛門 | 加久見左衛門は土佐一条家へ忠義を尽くすも、主君追放への蜂起が長宗我部元親の介入を招き、一条家滅亡を早めた。後に元親に仕え、文禄の役で異郷に散った。忠義と現実の狭間で生きた武将。 |
| 木村定光 | 木村定光(常陸介重茲)は豊臣秀吉の譜代近臣。賤ヶ岳の戦いなどで武功を挙げ、越前府中12万石の大名となる。秀次事件に連座し自害、一族も粛清された悲劇の武将。 |
| 木村重成 | 豊臣秀頼の乳兄弟。大坂の陣で奮戦した若き武将。夏の陣で戦死。兜に香を焚くなどの死の美学は家康を感嘆させ、後に『残念様』として民衆信仰の対象となった。 |
| 木村又蔵 | 木村又蔵は加藤清正の家臣で「加藤十六将」の一人。史実の記録は少ないが、講談では臆病を克服し活躍する英雄として描かれ、その子孫は大坂で栄えた。 |
| 木村由信 | 安土桃山期の武将。木村重茲の家老から秀吉直臣となり美濃北方城主を務める。関ヶ原の戦いでは西軍として大垣城に籠城したが、東軍に内応した味方に謀殺された。 |
| 肝付兼亮 | 大隅国の戦国大名伴姓肝付氏第十八代当主。島津氏に対する強硬な抗戦路線を続けたが、一族の存続を優先する母や兄嫁、家臣団に背かれ追放された悲運の将。 |
| 肝付兼篤 | 肝付兼篤は、伊集院忠棟の介入で家督を奪われるも、庄内の乱を機に家督を奪還。喜入肝付氏当主として島津氏に忠勤を励み、琉球出兵で武功を挙げる。その血脈は幕末の小松帯刀へと繋がった。 |
| 肝付兼興 | 肝付兼興は大隅の国人領主。父兼久の跡を継ぎ、島津氏との婚姻・軍事両面戦略で勢力を拡大。串良城を攻略し、肝付氏全盛期の礎を築いた。42歳で急死し、家督争いを招く。 |
| 肝付兼武 | 江戸初期の薩摩藩の喜入領主。喜入肝付家当主。戦国の動乱が終息して幕藩体制が確立する過渡期において、所領の安定や領民統治に尽力したが若くして急死した武士。 |
| 肝付兼続 | 大隅の名族肝付兼続は、島津氏との二重婚姻同盟で勢力を拡大。大隅半島をほぼ平定し、志布志港を掌握。島津氏と決裂し竹原山の戦いで島津忠将を討ち取るも、高山城陥落後、志布志で病没した。 |
| 肝付兼久 | 肝付兼久は大隅の国人領主。幼くして家督を継ぎ、新納氏の援助で高山城を奪還。守護島津忠昌と対立し、二度の高山城攻防戦で撃退。忠昌を自害に追い込み、大隅での優位を確立した。 |
| 肝付兼演 | 大隅国の国人領主。加治木城主。当初は島津貴久に仕えたが、のちに反旗を翻して島津氏と激しく対立。敗北後に再び降伏し、所領安堵され喜入肝付家の祖となった。 |
| 肝付兼盛 | 肝付兼盛は島津氏の重臣。父が島津氏に反抗した過去を持つが、岩剣城の戦いなどで武功を重ね、島津忠良に「看経所の四柱」の一人として認められた。 |
| 肝付兼護 | 大隅国の戦国大名伴姓肝付氏第十九代当主。島津氏に降伏して先祖伝来の高山城を失い阿多へ移封される。関ヶ原の戦いでは島津義弘の撤退戦に従い討死。 |
| 肝付良兼 | 大隅国の戦国大名。肝付氏の当主。父・兼続の跡を継ぎ、島津忠良の娘である母や伊東氏らと連携して強力な反島津連合を形成。島津氏の三州統一を長期にわたり阻んだ。 |
| 久宝寺勝慧 | 久宝寺勝慧は、河内国久宝寺を拠点とした一向宗の指導者・蓮淳を指す。蓮如の六男で、細川晴元の要請で一向一揆を動員し、畠山義堯・三好元長を討ち、河内における本願寺教団の全盛期を築いた。 |
| 京極高清 | 京極高清は、名門京極氏当主として二度の家督争いを経験。外部勢力に翻弄され権力を回復するも、家臣の浅井氏に実権を奪われ、戦国大名化の波に飲まれた。 |
| 京極高次 | 京極高次、名門京極氏の嫡子。本能寺の変で明智光秀に加担。関ヶ原で大津城籠城し、東軍勝利に貢献。若狭小浜藩主となり、京極家を再興。キリシタン信仰も秘匿した。 |
| 京極高知 | 京極高知は豊臣・徳川両政権下で活躍。関ヶ原で東軍として戦功を挙げ、京極家を再興。信濃飯田・丹後宮津を統治し、キリシタン大名でもあった。 |
| 京極高広 | 京極高広は戦国時代の北近江守護。国人衆に擁立され当主となるも実権を浅井氏に奪われる。六角氏や弟高吉と抗争し、浅井氏からの自立を試みるも、天文22年以降消息不明。 |
| 京極高吉 | 京極高吉は没落した名門京極氏の武将。室町幕府に仕え、足利義昭擁立に奔走。織田信長に恭順し、嫡男高次を人質に送る。晩年キリスト教に改宗。 |
| 京極忠高 | 京極忠高は京極高次の長男。浅井三姉妹の縁で豊臣・徳川双方と繋がり、大坂の陣では和議交渉の舞台を提供。出雲松江藩主となるも、嗣子なく45歳で急逝し改易された。 |
| 清野清秀 | 清野清秀は北信濃の国人領主。村上義清の重臣として武田信玄と戦うが、武田氏に降伏と帰参を繰り返す。最終的に武田家臣となり、清野氏の存続を図った。 |
| 清野長範 | 清野長範は蘆名家臣の子から上杉景勝の側近となる。会津移封後は伊南城代を務め、米沢藩の奉行として藩政を主導。上杉家の危機を支えた能吏。 |
| 清原武則 | 清原武則は平安時代の出羽の豪族。前九年の役で源頼義を助け、安倍氏を滅ぼし奥羽の覇者となる。その後の清原氏の内紛が奥州藤原氏の台頭を招いた。 |
| 吉良親貞 | 吉良親貞は長宗我部元親の弟で、土佐吉良氏を継承。智勇兼備の将として土佐統一に貢献し、特に四万十川の戦いで活躍。36歳で病死し、長宗我部氏に大きな損失を与えた。 |
| 吉良親実 | 吉良親実は長宗我部元親の甥・婿で一門の重鎮。信親の死後の後継者問題で盛親擁立に反対し諫言。久武親直の讒言により自刃し、「七人みさき」伝説の起源となった。 |
| 吉良義昭 | 吉良義昭は三河の名門吉良氏の当主。今川氏の後援で家督を継ぐが、桶狭間後は徳川家康と対立。善明堤で勝利するも藤波畷で敗れ降伏。三河一向一揆で再起を図るも鎮圧され、三河を追放され摂津で戦死。 |
| 吉良義堯 | 吉良義堯は足利一門の名門吉良氏の当主。中央政局から三河へ下向するも、今川氏に遠江の所領を奪われ、政略結婚で従属。息子たちの代で家が分裂し、没落した。 |
| 吉良義元 | 吉良義元は西条吉良氏当主・義信の嫡男だが、家督を継ぐ前に早世。戦国期の吉良氏の激動は、その子義堯、孫義安・義昭の代に今川・織田・徳川の狭間で展開された。 |
| 吉良義安 | 吉良義安は足利一門の名門吉良氏の当主。今川氏に反抗し人質となるが、徳川家康と親交を深める。弟義昭の没落後、家康の支援で吉良家を再興。 |
| 霧隠才蔵 | 霧隠才蔵は真田十勇士の伝説的忍者。史実性は不明だが、立川文庫で人気確立。猿飛佐助と双璧をなし、霧隠れの術を得意とする。多様なメディアで描かれ、今も愛されるキャラクター。 |
| 木脇祐守 | 日向国の武将。伊東氏の重臣。鬼ヶ城主として島津軍を破り、伊東家中で執事となるも、主家の豊後退去に同行せず日向に隠れ、後に自害した忠臣。 |