最終更新日 2026-06-16
武将読み一覧:な
「な」に属する武将:140件
| 武将 | 概要 |
|---|---|
| 内藤家長 | 内藤家長は徳川家康に忠義を尽くし、一揆で父に背く。弓の名手、長篠・小田原で武功。秀吉に将帥と評され、伏見城で家康のため討死。子孫繁栄と徳川天下の礎。 |
| 内藤興盛 | 内藤興盛は、大内氏の長門守護代。大内義隆に仕え、吉田郡山城の戦いで武功を挙げる。婚姻戦略で権力網を築くも、義隆の文治傾倒に苦悩。大寧寺の変では陶晴賢の謀叛を静観し、隠居。 |
| 内藤清成 | 内藤清成は、徳川家康の小姓から秀忠の傅役を務め、関東総奉行として江戸幕府初期の行政を担った。新宿御苑のルーツとなる広大な屋敷地を拝領。鷹場の狩猟罠事件で失脚するも、子孫は高遠藩主として存続した。 |
| 内藤国貞 | 丹波守護代。八木城主。三好長慶と結び波多野氏と抗争。天文二十二年に討死。娘婿の宗勝が跡を継ぎ如安へ系譜を繋いだ。伝統と実力の狭間で翻弄された激動期の領主。 |
| 内藤貞正 | 内藤貞正は丹波守護代。永正の錯乱で細川澄之に与するが敗北後、細川高国に転じ、その政権を軍事的に支えた。息子・国貞との役割分担で丹波を統治。大永5年に死去。 |
| 内藤新十郎 | 内藤新十郎は、諏訪の商人ではなく、豊臣家臣・内藤長秋の別名。木村重成の腹心として大坂夏の陣で討死した武将。諏訪の商人説は、高名な内藤氏と商業地諏訪のイメージが混同された伝承である。 |
| 内藤如安 | 丹波守護代の家系に生まれたキリシタン武将。小西行長の腹心として和平交渉に奔走した。禁教令で追放されるも信仰を貫き、マニラで日本人共同体を導く指導者となった。 |
| 内藤隆春 | 大内氏および毛利氏の家臣。長門守護代を務めた内藤興盛の子で、主家滅亡後は毛利輝元に忠義を尽くし、領国支配や内政で重きをなした重臣。 |
| 内藤隆世 | 内藤隆世は大内氏重臣。義兄・陶晴賢の謀反に同調し義長を擁立。毛利元就の侵攻に抗戦し、主君を救うため自刃するも約束は裏切られ大内氏は滅亡。忠義と個人的情が交錯した生涯。 |
| 内藤忠興 | 内藤忠興は譜代大名。大坂の陣で武功を立て磐城平藩主となり、検地や小川江筋開削で藩政を確立。大坂城代も務めたが、後継者問題で藩は混乱した。 |
| 内藤信成 | 戦国時代から江戸初期の武将。徳川家康の異母弟とされ、家康の側近として各地の戦いで功績を挙げ、駿府城代や近江長浜藩の初代藩主となった。 |
| 内藤信正 | 徳川家康の異母弟とも伝わる譜代大名。大番頭や伏見城代を歴任後、元和五年に初代大坂城代に就任した。西国支配の礎を築き、泰平の世の官僚的統治システムを確立した。 |
| 内藤弘春 | 内藤弘春は大内義興の重臣で、兄の死後6歳で家督を継ぎ、義興の上洛戦や九州での戦いで活躍。長門守護代として統治も担い、大内家の柱石となるも、義隆の時代に病没。 |
| 内藤昌豊 | 内藤昌豊は武田信玄・勝頼に仕えた武将。武田四天王の一人で「甲斐の副将格」と称された。思慮深く、軍事・政治両面で活躍。長篠の戦いで討死。 |
| 内藤政長 | 内藤政長は徳川譜代家臣。父の忠死を背景に幕府の信頼を得、改易大名の城接収など重要任務を遂行。磐城平藩主として小川江筋開削や防風林造成など民政に尽力し、武断から文治への時代を体現した名君。 |
| 内藤宗勝 | 松永久秀の弟。武勇に優れ、三好長慶の畿内支配を軍事面から支える。内藤国貞の娘婿となり内藤家を継承。丹波を平定するも、永禄8年、赤井直正との黒井城攻防戦で討死。その死は三好政権の丹波支配を瓦解させた。 |
| 内藤康行 | 内藤康行は後北条氏の家臣で津久井城主。北条氏康から偏諱を受け、津久井衆筆頭として津久井城を守った。小田原征伐で津久井城は開城し、康行は高野山へ蟄居した北条氏直に随行。その後、加賀藩士として再興した。 |
| 直江景綱 | 戦国時代の越後上杉氏の宿老。与板城主。初名は実綱。上杉謙信の懐刀として、内政・外交・軍事の多岐にわたり卓越した手腕を発揮して主家を支え続けた大功臣。 |
| 直江兼続 | 直江兼続は上杉景勝の筆頭家老。幼少期から景勝に仕え、直江家を継承。豊臣秀吉から高く評価され、関ヶ原の戦いの引き金となった「直江状」で知られる。 |
| 中井久包 | 尼子氏重臣・中井久包は晴久の傅役、筆頭家老として尼子氏興亡を支えた忠臣。吉田郡山城の戦い等に参戦。月山富田城落城後、伯耆法勝寺で病没。戦国忠臣の典型。 |
| 中川清秀 | 摂津国出身の武将。鬼瀬兵衛と恐れられた武勇を誇り、織田信長や羽柴秀吉の下で活躍。賤ヶ岳の戦いで壮絶な戦死を遂げ、中川大名家の祖となった。 |
| 中川久盛 | 中川久盛は豊後岡藩二代藩主。敵将の血を引く宿命を背負い、徳川家との婚姻で藩の安定を図る。緒方井路開削など内政に尽力し、藩の礎を築いた。 |
| 中川秀成 | 中川秀成は豊後岡藩初代藩主。父清秀の武功と兄秀政の死という宿命を背負い、朝鮮出兵で活躍。関ヶ原では東軍に与し、岡城と城下町を整備し藩の礎を築いた。 |
| 中島輝行 | 中島輝行は備中の豪族。父・氏行の留守中、浦上宗景の攻撃から経山城を防衛。この功績で中島氏の地位を確立し、子の元行の代に毛利氏に仕えた。 |
| 中島元行 | 中島元行は備中の国人。父・輝行の戦死後、経山城主となり、尼子残党軍を撃退。清水宗治の娘婿として高松城籠城戦で奮戦し、後に『中国兵乱記』を著した。 |
| 中条藤資 | 中条藤資は越後揚北衆の領袖。長尾為景を支持し、伊達氏との連携に失敗後、長尾景虎(上杉謙信)を擁立。川中島の戦いで奮戦し、「血染めの感状」を授与された。 |
| 中院通為 | 中院通為は戦国時代の公卿で、大臣家当主。京で文化人として栄達する一方、加賀の荘園経営に苦闘。死因は病死と焼死の二説あり、その生涯は戦国期公家の苦悩と文化継承の重要性を示す。 |
| 中坊秀祐 | 中坊秀祐は、大和国の興福寺官符衆徒出身。松永久秀に仕え、後に筒井順慶に帰参。筒井定次の下で権力を掌握し、島左近を追放。最終的に定次の不行状を家康に訴え筒井家を改易させ、奈良奉行となるも暗殺された。 |
| 中野宗時 | 伊達家に仕え天文の乱で晴宗を擁立し絶大な権勢を得た武将。輝宗の政策や遠藤基信の台頭に反発して謀叛を企てるも、事前に露見し敗走して流浪の末に没落した。 |
| 中村氏次 | 中村一栄は豊臣秀吉子飼い中村一氏の弟。駿河沼津城主。関ヶ原で兄の代理として東軍に参加。杭瀬川で敗北も本戦で貢献し、甥の後見役として伯耆へ転封。彼の死後、中村家は改易された。 |
| 中村一氏 | 中村一氏は、豊臣秀吉子飼いの武将。岸和田城主として紀州勢の猛攻を凌ぎ、水口岡山城主を経て駿河府中14万5千石を領す。豊臣政権の三中老の一人に数えられたが、関ヶ原の戦い直前に病没。 |
| 中村一忠 | 中村一忠は、豊臣秀吉子飼いの中村一氏の嫡男。関ヶ原の戦い直前に父を失い、11歳で家督を継ぎ伯耆国主となる。執政家老横田村詮を殺害する米子騒動を起こし、20歳で嗣子なく急死、中村家は改易された。 |
| 中村惟冬 | 肥後阿蘇家臣の中村惟冬は、矢崎城代として島津氏の侵攻を迎え撃ち、壮絶な討死を遂げた。その忠節を悼み、遺族が植えた「一心行の大桜」は、今も忠臣の記憶を伝える。 |
| 中村午四郎 | 土佐国須崎の豪商。長宗我部元親の領国支配や流通を強力に支え、港町須崎の発展と商業交易の活性化に大きく寄与したとされる伝説的な商人。 |
| 中村新兵衛 | 中村新兵衛は直江津の商人ではなく、三好氏に仕えた武将。槍の名手で「槍中村」と呼ばれた。菊池寛の小説「形」の題材にもなり、「形」と「実力」の関係を問う。 |
| 中村忠滋 | 中村忠滋は三木合戦の伝承上の武将。娘を人質に秀吉軍を欺いた逸話は『信長の野望』で広まった。史実性は低いが、播磨武士の忠義と悲劇を象徴する存在。 |
| 中村則治 | 中村則治は、美作国岩屋城主。父則久が浦上氏と連携し権勢を確立。則治は尼子氏に降伏し、尼子氏配下の芦田氏と城内で対立。宇喜多直家の謀略により芦田氏に謀殺され、岩屋城は宇喜多氏の手に落ちた。 |
| 中村春続 | 中村春続は因幡国の武将。主君・山名豊国を追放し、毛利氏との同盟を重視。羽柴秀吉の鳥取城兵糧攻めにより、城主吉川経家と共に自刃した。 |
| 中山家範 | 中山家範は後北条氏の重臣で、北条氏照に仕えた。八王子城の攻防戦で壮絶な最期を遂げたが、その忠義が徳川家康に評価され、子孫は厚遇された。 |
| 中山照守 | 中山照守は後北条氏滅亡後、徳川家康に仕え、馬術師範や幕府要職を歴任し、大身旗本となる。その生涯は忠義と実務能力で時代を生き抜いた武士の鑑。 |
| 中山仁右衛門 | 中山仁右衛門は戦国末期から江戸初期の秋田湊の有力商人。安東氏の庇護下で日本海交易を担い、太閤御用板にも関与。佐竹氏の転封と強制移住で、その活動とアイデンティティを大きく変容させた。 |
| 中山信正 | 備前国の国人領主で亀山城主。浦上宗景の重臣として活躍し、宇喜多直家に娘を嫁がせるも、後に直家の野心と謀略によって暗殺された悲劇の将。 |
| 永井左衛門 | 永井左衛門は伊勢丹生の水銀豪商。水銀独占と金融業で富を築き、民間紙幣「丹生羽書」を発行。娘の殊法を通じて三井家へ商業ノウハウを伝え、三井財閥の源流となった。 |
| 永井直勝 | 松平信康の小姓を経て徳川家康に再仕官。小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ大功を立て永井に改姓。古河藩主となり、評定衆や武家故実の編纂など文治でも活躍した。 |
| 長尾顕長 | 長尾顕長は由良氏出身で足利長尾氏を継ぎ、北条・上杉・豊臣の間で翻弄された。政治的には敗者だが、名刀「本作長義」とその写し「山姥切国広」に名を刻み、文化史に名を残した。 |
| 長尾景長 | 足利長尾家三代当主。永正の乱を収拾し、山内上杉家家宰職を奪還。武将として関東の動乱を生き抜き、狩野派絵師とも交流した一流の画人でもあった。 |
| 長尾景春 | 長尾景春は、山内上杉氏に反旗を翻し「長尾景春の乱」を起こした武将。その反乱は関東戦国時代の幕開けを告げ、旧秩序を崩壊させた。彼は優れた戦術家だが、新時代を創造できなかった。 |
| 長尾景広 | 長尾景広は白井長尾氏の嫡流に生まれ、後北条氏の人質、浪人生活を経て、上杉景勝に仕官。大坂の陣で武功を挙げ、米沢藩の侍頭となる。晩年には家名存続のため養子を迎え、長尾家を幕末まで存続させた。 |
| 長尾種常 | 長尾一勝は伊勢山路氏出身。織田信長の伊勢侵攻で一族離散後、長尾に改姓。福島正則の三家老となり、関ヶ原で活躍し備後東城主となる。伝統行事「お通り」を創始。子孫は津山藩士として存続。 |
| 長尾為景 | 長尾為景は上杉謙信の実父。越後守護代から下剋上を成し遂げ、越後の実権を掌握。一向一揆と対立し、晩年や死因は諸説あるが、謙信の基盤を築いた。 |
| 長尾憲景 | 戦国時代、上野国白井城主。山内上杉氏、謙信、武田、織田、北条と主君を変え自家の存続に腐心した現実主義者。白井長尾家当主として激動の上野を生き抜いた武将。 |
| 長尾憲長 | 長尾憲長は関東山内上杉家の家宰。足利長尾氏当主として古河公方足利晴氏の元服を仲介。関東の激動期に主家の政務を実質的に掌握し、足利長尾氏の勢力維持に貢献。天文19年に死去。 |
| 長尾晴景 | 長尾晴景は謙信の兄。通説は凡庸だが、融和政策と外交で越後を安定させ再評価。弟景虎の台頭で隠居に追い込まれ病死。謙信の飛躍の礎を築いた。 |
| 長尾房景 | 戦国時代の越後の武将。古志長尾氏当主。守護代長尾家や守護上杉氏の権力争いの中で、古志家を率いて活躍し、のちの上杉謙信らの台頭に至る一族の血脈を繋いだ。 |
| 長尾房長 | 長尾房長は越後上田長尾氏の当主。長尾為景と対立し、上条定憲の乱で反為景勢力の中核となる。為景隠居後、息子政景と為景の娘仙桃院の婚姻により府内長尾家と和睦し、越後の安定に貢献した。 |
| 長尾政景 | 越後国の戦国武将で、上田長尾氏当主。上杉景勝の実父であり、謙信の姉を娶る。謙信と対立するも和睦して支えたが、野尻湖で謎の溺死を遂げた悲運の将。 |
| 長尾当長 | 長尾当長は足利長尾氏当主。関東管領上杉氏の家宰を務めたが、主家の没落で北条氏に従属。後に上杉謙信に仕え、越相同盟の仲介役を務めた。 |
| 長尾能景 | 長尾能景は上杉謙信の祖父。越後守護代として内政・軍事手腕を発揮し、越中出兵で神保慶宗に裏切られ戦死。その死は息子為景の下剋上を招き、越後戦国時代の幕開けとなった。 |
| 長倉祐有 | 長倉祐有は日向伊東氏の家老。伊東義祐の家督継承に反発し、天文10年に「長倉能登守の乱」を起こす。島津氏と結ぶも敗死。伊東家中の内紛と衰退の一因となった。 |
| 長倉祐政 | 長倉祐政は日向伊東氏の忠臣。伊東姓を賜る武功を挙げ、高原城や新納石城で島津軍と奮戦。伊東崩れ後もゲリラ戦で抵抗を続け、耳川の戦いで壮絶な最期を遂げた。 |
| 長倉義重 | 長倉義重は常陸佐竹氏の家臣。長倉城主。佐竹宗家への反骨の歴史を持つ一族の出身。陸奥久保田合戦で戦功を挙げ、佐竹氏の勢力拡大に貢献。子孫は佐竹氏の移封後、帰農した。 |
| 長坂信政 | 長坂信政は松平三代に仕えた三河武士。「血槍九郎」の異名を持つ猛将で、第二次小豆坂合戦で一番槍の功績。一方で「茶利九郎」の異名も持ち、文化的側面も。元亀3年に死去。 |
| 長坂光堅 | 長坂光堅は武田信玄・勝頼に仕えた有能な側近。長篠の戦いでの佞臣説は否定され、行政・外交で活躍。勝頼の中央集権化を支えたが、武田氏滅亡と共に消息不明。 |
| 長崎アンリケ | 肥前で布教と鉄砲売買に従事したとされる伝説上の宣教師。実在の証拠は無いが、アルメイダ等の人物や南蛮貿易が投影された、キリシタン時代を象徴する架空の人物。 |
| 長崎純景 | 長崎純景は肥前のキリシタン領主。大村純忠の娘婿。長崎開港に貢献し、イエズス会に寄進して龍造寺氏の脅威から守る。秀吉の追放令で失領後、田中吉政に仕え、晩年は故郷で死去。 |
| 長崎元家 | 長崎元家は戦国末期から江戸初期の武将。滝川一益、織田信雄、豊臣秀吉、小早川秀秋に仕え、関ヶ原では秀秋の密使として東軍勝利に貢献。徳川旗本となり家を存続させた。 |
| 長沢光国 | 長沢光国は越中氷見の豪族。森寺城主。上杉謙信に降伏後、能登穴水城主となる。謙信死後の混乱で孤立し、長連龍の復讐戦で穴水城にて戦死。乱世に翻弄された地方武将。 |
| 長門広益 | 戦国時代の蝦夷地の武将。蠣崎氏の重臣。蠣崎基広による一族の謀叛を鎮圧する決定的な武功を挙げ、草創期の蠣崎氏(後の松前藩)の権力基盤の確立に貢献した。 |
| 長野稙藤 | 戦国時代の武将。伊勢長野工藤氏第十四代当主。宿敵の北畠氏と激しく争うも圧倒され従属した。嫡男と同日に没しており、北畠氏による暗殺説が有力視されている。 |
| 長野具藤 | 伊勢国司北畠具教の次男。政略により長野工藤氏の養子となる。織田信長の伊勢侵攻に際し、長野家中の内紛で失脚。最後は織田信雄の三瀬の変で殺害された悲劇の貴公子。 |
| 長野業正 | 戦国時代の武将。上野国箕輪城主。上杉謙信と同盟し武田信玄の侵攻を幾度も撃退。「上州の黄斑」と称された。善政を行い国人衆を率いたが、死後に長野氏は滅亡した。 |
| 長野業盛 | 上野長野氏当主。父業正の死後、武田信玄の侵攻に抗し、箕輪城で徹底抗戦。衆寡敵せず自刃し、「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」の辞世を残した悲劇の若き城主。 |
| 長野藤定 | 長野藤定は伊勢の国人領主。宿敵北畠氏と戦うも劣勢となり、北畠具藤を養子に迎え臣従。父と同日に死去し暗殺説が有力。長野家は織田氏に降伏し滅亡した。 |
| 長野藤直 | 長野藤直は伊勢の国人領主で、兄の死後家督を継ぎ、桑名を占領するなど勢力拡大。武力だけでなく神宮の権威も利用した現実的な統治者だった。 |
| 長野通藤 | 長野通藤は伊勢の国人領主。父藤直の勢力拡大期と子稙藤の北畠氏との抗争期に挟まれ、記録は少ないが、16年間家を保ち、平和を維持した「守成の君主」であった。 |
| 永原松雲 | 戦国時代から江戸初期の武将。丹羽長重に仕え文武両道と柔術で名を馳せる。浅井畷の戦いでの合理的な見捨て進言が臆病と見なされ失脚。のち浅野氏に仕えた。 |
| 永原孝治 | 永原孝治は関ヶ原で改易された父・赤座吉家の後、藩命で永原に改姓し加賀藩士として家を再興。大坂の陣にも参戦し、子孫は幕末に赤座姓に復した。 |
| 那古野勝泰 | 那古野勝泰は織田信長の清洲城乗っ取りに貢献した若武者。衆道で籠絡され、信長の尾張統一に決定的な役割を果たすも、その後歴史から姿を消した。 |
| 名古屋山三郎 | 蒲生氏郷に仕えた美貌の武将。九戸政実の乱等で一番槍に輝き、その勇名は小歌にもなった。後に森忠政に仕えるも、同僚との刃傷沙汰で非業の死を遂げた伝説のかぶき者。 |
| 奈佐日本助 | 戦国期の但馬国の水軍領主。山名や毛利らの狭間で但馬水軍を率いた。羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、海賊行為を咎められ、城主の吉川経家らの命と引き換えに自刃した。 |
| 那須資景 | 那須資景は父の改易後、忠臣の尽力で家名存続。関ヶ原・大坂の陣で功を立て那須藩主となるも、無嗣改易。将軍縁者を養子に迎え家を再興した。 |
| 那須資胤 | 那須資胤は戦国時代の那須氏当主。兄の死後家督を継ぎ、大関高増との内戦を乗り越え、佐竹氏との婚姻同盟など巧みな外交で激動の時代を生き抜いた。 |
| 那須資親 | 那須資親は上那須家当主。実子誕生で養子資永と対立、永正の乱の政治的対立も絡み、資永と実子資久が共倒れし上那須家は滅亡。その死は那須氏統一の契機となった悲劇の人物。 |
| 那須資晴 | 下野の戦国大名。那須氏第二十代当主。薄葉ヶ原の戦いで宇都宮氏を破る武功を挙げたが、秀吉の小田原征伐に遅参して改易。後に許され、家名の存続に成功した。 |
| 那須資房 | 下那須家当主。約100年分裂していた那須氏を、上那須家の内紛に乗じて再統一。宇都宮氏との連携や婚姻同盟で周辺勢力と渡り合い、那須氏中興の祖となった。 |
| 那須高資 | 那須高資は下野の国人領主。父政資から家督を奪い、喜連川五月女坂で宇都宮尚綱を討ち大勝利。しかし内政を顧みず、千本城で家臣千本資俊に謀殺された。 |
| 那須与一 | 那須与一は源平合戦の屋島で扇の的を射抜いた弓の名手。その功績は『平家物語』で語り継がれるが、史実性は不明。戦後は那須家の家督を継ぎ、各地に伝承が残る。 |
| 那須政資 | 那須政資は、分裂していた那須家を統一するも、家臣団の思惑と嫡男・高資との対立により再び分裂。その最期には二説あり、和睦隠居説と喜連川五月女坂の戦いでの自刃説がある。 |
| 長束正家 | 長束正家は豊臣秀吉の五奉行の一人。算術と兵站管理に秀で、太閤検地や大規模遠征の兵糧奉行として活躍。関ヶ原で西軍に与するも南宮山で足止めされ、敗戦後自刃。豊臣政権を支えたテクノクラート。 |
| 夏目広次 | 徳川氏の家臣。別名夏目吉信。三河一向一揆で一度は家康に反逆するも帰順。三方ヶ原の戦いでは家康の身代わりとして突撃し、壮絶な戦死を遂げた忠臣。 |
| 夏焼大夫 | 平安時代末期の伊賀国の悪党。夏焼党の首領。宮中の蘭林坊を襲撃し宝物を奪う大事件を起こしたが捕縛された。この事件の解決が平忠盛の躍進の契機となった。 |
| 鍋島勝茂 | 鍋島勝茂は佐賀藩初代藩主。関ヶ原で西軍加担も父の策で所領安堵。龍造寺家から実権を掌握し藩政を確立。島原の乱で武名を高め、長崎警備で情報収集し藩の礎を築いた。 |
| 鍋島清久 | 鍋島直茂の祖父。田手畷の戦いで赤熊隊を率いて奇襲し、龍造寺家兼を救う。本庄の地を得て鍋島家の経済基盤を確立。龍造寺家との婚姻や石井氏との同盟で、鍋島家隆盛の礎を築いた。 |
| 鍋島清房 | 鍋島直茂の父。田手畷の戦いで赤熊隊を率いて龍造寺家兼を救い、その功で龍造寺家と姻戚関係を結ぶ。後に龍造寺隆信の母慶誾尼と再婚し、鍋島氏の地位を不動のものとした。 |
| 鍋島茂賢 | 鍋島茂賢は、石井・深堀・鍋島と姓を変え、佐賀藩成立期に活躍。柳川の戦いで武功を挙げ、深堀鍋島家を創設。長崎警備を担い、キリスト教にも理解を示した。死に際して家臣18名が殉死した。 |
| 鍋島茂里 | 龍造寺氏重臣石井信忠の嫡男。鍋島直茂の養子となり、直茂の嫡男勝茂の後見役を務める。武勇と行政手腕に優れ、佐賀藩成立期に鍋島家の礎を築いた輔弼者。 |
| 鍋島忠茂 | 鍋島直茂の次男。関ヶ原で西軍に与した兄勝茂の失態を挽回すべく江戸へ赴き、徳川秀忠の寵愛を得て鍋島家の本領安堵に貢献。肥前鹿島藩初代藩主となるも、子の代で本藩と対立した。 |
| 鍋島直茂 | 龍造寺氏の重臣。今山の戦いで大友軍を撃退し武名を確立。沖田畷の戦い後、龍造寺氏の実権を掌握。豊臣秀吉、徳川家康の信任を得て佐賀藩の礎を築き、藩祖として崇敬された。 |
| 鍋島直澄 | 江戸初期の武将、肥前蓮池藩主。佐賀藩主・鍋島勝茂の五男。島原の乱で武功を挙げ蓮池藩を立藩。陶芸など産業を振興し、藩政の礎を築いた。家康の養女を母に持つ名君。 |
| 鍋島光茂 | 江戸初期の肥前佐賀藩二代藩主。初代勝茂の跡を継ぎ、三支藩の抑制や中央集権化を断行して藩権力の基盤を確立。文治主義を掲げつつ強権的統治を敷いた藩主。 |
| 鍋島元茂 | 佐賀藩主鍋島勝茂の長男。父の再婚により廃嫡されるも、祖父直茂の隠居領を継承。柳生新陰流の剣豪として将軍家光の信頼を得、肥前小城藩初代藩主となり、藩の礎を築いた。 |
| 浪岡顕具 | 浪岡顕具は浪岡北畠氏5代当主。京の公家文化を津軽に根付かせ「北の小京都」を築いたが、その死後、一族の内乱と津軽為信の台頭により浪岡北畠氏は滅亡した。 |
| 浪岡顕範 | 浪岡顕範は浪岡北畠氏の武将。川原御所の乱で叔父を討ち、兄の仇を討った忠臣とされる。浪岡氏滅亡まで一族を支え、その最期は浪岡城落城と共にした。 |
| 浪岡顕村 | 浪岡顕村は、浪岡北畠氏最後の当主。津軽の「浪岡御所」として安東愛季の娘を娶り、津軽為信に対抗するも浪岡城は落城。その最期は自害説と亡命説があり、勝者と敗者の歴史観の相違を象徴する。 |
| 浪岡具運 | 浪岡具運は、南朝の貴種を称する浪岡北畠氏当主。文化事業で財政を逼迫。通説では叔父に殺害されたが、新説では父が殺害され、具運は津軽為信と対峙し、浪岡城落城まで一族の存亡を背負った悲劇の当主。 |
| 浪岡具永 | 戦国期の陸奥の武将。浪岡北畠氏七代当主。顕家の末裔という権威と日本海交易の富を背景に従四位下左近衛中将に昇るなど、朝廷や本家と結び一族の最盛期を築いた。 |
| 浪岡具統 | 陸奥国の有力な国人領主。浪岡北畠氏の当主。浪岡城主。伝統的権威を守りつつ、南部氏や津軽氏などの強大国に囲まれて領国の維持に努めた戦国大名。 |
| 浪岡慶好 | 名門浪岡北畠氏の遺脈。落城後は安東氏を頼り秋田季慶を名乗る。高貴な出自と外交才覚を活かし、秀吉の奥州仕置などの交渉で大役を担い、主家の所領安堵に貢献した。 |
| 楢崎元兼 | 安芸国の有力な国人領主。楢崎氏当主。毛利元就に仕えて厳島の戦いなどで武功を挙げ、毛利氏の防長経略後の領国支配の安定に重きをなした有能な宿将。 |
| 成沢道忠 | 最上家臣・成沢道忠は、最上氏庶流で氏家家と姻戚関係を結び一族の地位を確立。武勇伝は多いが史料に矛盾も。複数世代の活躍が「道忠」に集約された可能性を持つ武将。 |
| 成田氏長 | 武蔵忍城主。小田原征伐で自身は小田原に籠るが、本拠の忍城は石田三成の水攻めに耐え不落の名声を得る。北条滅亡後に烏山城主となり大名へ復帰した戦国武将。 |
| 成田氏宗 | 武蔵国の有力な国人領主。忍城主。成田氏長の後を継ぎ、小田原征伐では後北条氏に味方して籠城戦を戦い、のちに会津蒲生家に仕えた戦国時代の武将。 |
| 成田親泰 | 武蔵忍城主で、山内上杉氏に仕えた国衆。関東享禄の内乱で活動し、横瀬氏の金山城を攻めるなど衰退する主家を支え、用水開削などの善政も行った戦国武将。 |
| 成田長忠 | 成田長忠は、後北条氏滅亡後、蒲生氏郷に仕え、関ヶ原で徳川につき烏山藩主となる。波乱の生涯で家を再興したが、死後わずか6年で改易された。 |
| 成田長親 | 成田長親は忍城の戦いで秀吉の大軍相手に籠城戦を指揮し、城を守り抜いた武将。『のぼうの城』のモデル。氏長と不和で出奔後、尾張藩士として家名を存続。 |
| 成田長泰 | 成田長泰は北武蔵の国衆で、難攻不落の忍城を拠点とした。上杉・北条の間で揺れ動き、自家の存続を最優先。その現実主義が後の忍城の戦いを可能にした。 |
| 成田泰季 | 武蔵国の有力な国人領主。成田氏の当主。忍城代として小田原征伐では城内に籠城し、石田三成率いる豊臣軍の水攻めに対して頑強に抵抗した宿将。 |
| 成富茂安 | 肥前の武将・成富茂安は、龍造寺・鍋島家に仕え武勇を馳せる。沖田畷の経験から治水に転じ、石井樋・千栗堤防などで佐賀平野を潤し「治水の神様」と称された。 |
| 成松信勝 | 龍造寺隆信に仕えた四天王の筆頭。今山合戦で敵総大将を討ち取る大功を立てる。沖田畷の戦いでは軍奉行を務め、主君の討死を知り敵陣に突撃し戦死した戦国武将。 |
| 成瀬正成 | 徳川家康の忠臣、成瀬正成は秀吉の誘いを拒否し、戦功と行政手腕で尾張徳川家を支え、犬山城主となる。乱世と泰平を繋ぐ架け橋として活躍した。 |
| 名和武顕 | 名和武顕は肥後国の国人領主。八代から宇土へ本拠を移し、相良氏との抗争や婚姻政策、阿蘇・菊池氏との多角的外交で勢力を維持。三家和睦を成立させるも、その死後、名和氏は豊臣政権下で没落した。 |
| 名和長年 | 南北朝時代の武将。後醍醐天皇を救出して建武政権の樹立に貢献し、「三木一草」の一人に数えられるも、後に足利尊氏と対抗して討死した忠臣。 |
| 南光坊天海 | 南光坊天海は会津出身の天台宗僧侶。徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、「黒衣の宰相」として幕政や宗教政策に深く関与。日光東照宮創建を主導した。 |
| 南条隆信 | 南条隆信は奥州大崎氏の侍大将。伊達政宗の大軍を中新田城で撃退し武名を轟かせた。主家滅亡後も一揆を指導したが、消息不明となる悲劇の名将。 |
| 南条広継 | 南条広継は蠣崎氏の家臣で勝山館城代。妻が主君の子を毒殺した罪に連座し自害。潔白を訴え逆さに植えた水松が根付いた伝説が残る悲劇の武将。 |
| 南条宗勝 | 伯耆国の有力な国人領主。羽衣石城主。尼子氏の侵攻により領国を追われるも、毛利氏の支援を得て旧領を回復し、領国統治の再建に努めた不屈の当主。 |
| 南条元清 | 南条元清は戦国武将。小鴨氏を継ぎ、南条家の実権を握るも失脚。関ヶ原で西軍に属し、加藤清正に仕えた。大坂の陣で豊臣方へ向かう途中に病死。 |
| 南条元忠 | 南条元忠は伯耆羽衣石城主。父の豊臣への恩義を背負い、関ヶ原で西軍に属し改易。大坂の陣で豊臣方に仕えるも内通疑惑で味方に粛清され、南条氏は滅亡した。 |
| 南条元続 | 南条元続は伯耆の国人領主。毛利氏から織田氏へ離反し、羽衣石城で吉川元春と攻防。秀吉の庇護で大名となるも病に倒れ、南条家は関ヶ原で滅亡した。 |
| 難波田憲重 | 難波田憲重は扇谷上杉氏重臣。松山城主として主君朝定を支え、武勇と教養を兼ね備えた武将。「松山城風流合戦」の逸話で知られる。河越夜戦での戦死は通説だが、天文6年戦死説が有力。 |
| 南部重直 | 南部重直は盛岡藩二代藩主。盛岡城を完成させ、ブレスケンス号事件を冷静に処理。参勤交代遅延で幕府に睨まれるも挽回。後継者不在で藩が分割された苦悩の生涯を送った。 |
| 南部季賢 | 南部季賢は南部姓ながら安東氏に仕え、宮内少輔として織田信長と外交。宿敵間の複雑な関係を体現し、安東氏の北奥羽覇権確立に貢献した謎多き外交官。 |
| 南部利直 | 南部利直は、父・信直の跡を継ぎ、岩崎一揆を鎮圧し、徳川家康の信頼を得て盛岡藩初代藩主となる。盛岡城築城、鉱山開発、藩政改革で藩の基盤を確立した。 |
| 南部信直 | 南部信直は南部氏26代当主。複雑な家督争いを経て、豊臣秀吉の権威を借り九戸政実の乱を鎮圧。南部領を統一し、盛岡藩の礎を築いた中興の祖。 |
| 南部晴政 | 南部晴政は「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われる広大な版図を築いた奥州の覇者。しかし晩年は後継者問題と内紛に苦しみ、津軽喪失の遠因を作り、南部家の混乱を招いた。 |
| 南部政直(宮内少輔・季賢) | 南部宮内少輔季賢は安東愛季の外交官。永禄12年(1569年)に山科言継と接触、天正3年(1575年)以降、織田信長に鷹を献上するなど、中央政権との関係構築に尽力した。 |
| 南部政直(南部利直の子) | 南部政直は南部利直の次男。1599年生まれ、1624年に26歳で死去。藩主の子息として一定の待遇を受けたが、若くして亡くなったため、藩政で大きな役割を果たすことはなかった。 |
| 南部政康 | 南部政康は南部氏22代当主。兄の急死と有力庶流の介入を経て家督を継ぎ、五人の息子を戦略的に配置し、南部氏を戦国大名へと変革する礎を築いた。 |
| 南部無右衛門 | 南部無右衛門は槍一筋の荒武者。丹羽・加藤・小早川に仕え、浅井畷の戦いでは単騎で窮地の味方を救出。戦国の武辺者として逸話に名を残した。 |
| 南部安信 | 陸奥国の戦国大名・三戸南部氏第二十三代当主。弟らを領内の要衝に配する一門衆支配体制を構築し、津軽平定を断行するなどして南部氏の戦国大名化の礎を築いた改革者。 |