最終更新日 2026-06-19

城地域分類:九州

「九州」に属する城:63件

概要
秋月城あきづきじょう秋月城は、戦国の要塞「古処山城」と江戸の藩庁「秋月陣屋」の二つの顔を持つ。秋月氏の興亡と黒田氏の統治を経て、その歴史は黒門や長屋門に刻まれる。高麗鐘の出土は、この地の深い歴史を物語る。
飯野城いいのじょう飯野城は日向国の要衝。島津義弘が26年居城し、シラス台地を活かした堅固な城郭は、木崎原の戦いで寡兵が伊東大軍を破る奇跡を生んだ。義弘を「鬼島津」へと育てた城。
伊作城いざくじょう伊作城は戦国島津氏揺籃の地。シラス台地の特性を活かした堅固な要害であり、島津忠良と四兄弟の生誕地として「聖地」とされた。国際交易の窓でもあり、その歴史は南九州の武士の興亡と文化を物語る。
石塚城いしづかじょう日向国ひゅうがこく日向国石塚城は、伊東氏の支城として島津氏との攻防の最前線に位置した。伊東氏の興亡と共に歴史を刻み、一国一城令で廃城。その記憶は、戦国時代の激動を今に伝える。
出水城いずみじょう出水城は、肥薩国境の要衝に築かれ、薩州島津家の本拠として栄えた。瓦葺きの建物や海外交易品が出土し、その繁栄を物語る。廃城後も「人をもって城となす」薩摩の精神を麓に継承した。
一宇治城いちうじじょう一宇治城は、薩摩の要衝に築かれ、島津氏の飛躍を支えた。伊集院氏との争奪戦、ザビエルとの会見など歴史の舞台となり、その堅固な構造は、戦国島津の揺籃の地として今に伝わる。
伊万里城いまりじょう肥前伊万里城は、鎌倉時代に松浦党の拠点として築かれ、海運を掌握する要衝であった。戦国時代、龍造寺隆信の猛攻により落城し、その歴史的役割を終えた。
岩尾城いわおじょう肥後国矢部の岩尾城は、阿蘇氏の拠点として築かれた天然の要害。甲斐宗運の死後、島津氏の侵攻により幼い当主が脱出。岩尾城は籠城戦なく開城、廃城。
岩屋城いわやじょう筑前の要衝、岩屋城は高橋紹運が守る大友氏の最前線。島津の大軍を相手に壮絶な玉砕戦を展開し、豊臣秀吉の九州平定を助けた。その忠義と悲劇は今も語り継がれる。
臼杵城うすきじょう臼杵城は、大友宗麟が築いた海上の要塞。南蛮貿易で得た大砲「国崩し」を駆使し、豊薩合戦で島津軍を退けた。江戸時代には陸続きとなり、藩政の中心に。現在は史跡として、戦国から近代への変遷を伝える。
内城うちじょう薩摩島津氏の内城は、貴久が築き三州統一を支えた。簡素な館ながら、詰城との二元構造と外城制度の司令塔として機能。島津氏の広域支配と経済力を象徴し、鹿児島城へ。
内牧城うちまきじょう肥後の内牧城は阿蘇氏の牙城として築かれ、島津の猛攻に落城。加藤清正が近世城郭へと改修するも、一国一城令で廃城となる。その遺構は今も阿蘇の地に歴史を語り継ぐ。
宇土城うとじょう肥後の宇土城は、名和氏の中世城と小西行長の近世城が並び立つ。関ヶ原で落城後、加藤清正が改修するも一国一城令で廃城。二つの城が時代の転換を物語る。
大口城おおぐちじょう大口城は、薩摩・大隅・日向の三国が接する南九州の要衝。平安末期に築かれ、戦国期には菱刈・相良・島津氏による熾烈な争奪戦の舞台となり、南九州の勢力図を映し出した。
大村城おおむらじょう大村城(玖島城)は、初代大村藩主・大村喜前が築城した海城。戦国末期の築城技術と近世的統治思想を融合させ、大村氏が激動の時代を乗り越え、約270年の治世を確立する礎となった。
岡城おかじょう豊後岡城は難攻不落の要塞。志賀親次が島津の大軍を撃退し、中川氏が総石垣の近世城郭へ大改修。廃城後、瀧廉太郎『荒城の月』の着想源となり、今も歴史を語り継ぐ。
加久藤城かくとうじょう南九州の要衝・加久藤城は、北原氏が築き、島津義弘が大改修。木崎原の戦いでは伊東軍の猛攻を退け、島津氏勝利の礎となった。義弘の愛息が眠る地でもあり、その歴史は戦国の動乱と親子の情を語る。
加治木城かじきじょう大隅の要衝加治木城は、加治木氏が築き、島津氏の領国拡大の中で城主が変遷。日本初の鉄砲実戦使用伝説の舞台となり、豊臣秀吉の直轄領となる。義弘の隠居城として廃城。
門川城かどがわじょう門川城は伊東氏の北進拠点、対土持氏の最前線「県三城」の一翼を担う。耳川の合戦で城主米良祐次が討死し、島津氏支配下へ。一国一城令で廃城となるも、歴史は記憶に刻まれる。
金石城かねいしじょう金石城は対馬宗氏の拠点。戦国期は貿易と軍事の要、秀吉の命で清水山城と連携。江戸期は朝鮮通信使の迎賓館となり、日朝外交の歴史を刻む。
蒲池城かまちじょう筑後の名族蒲池氏の居城、蒲池城は、水利を活かした平城。龍造寺隆信との恩讐の果てに一族は滅亡するも、その血脈は現代に続く。今は石碑が往時を語る。
城井谷城きいだにじょう豊前の要害、城井谷城は秀吉の九州平定に抵抗し、黒田官兵衛を苦しめた。武力では屈せぬも謀略により城主・鎮房は滅び、その悲劇は怨霊伝説として今に語り継がれる。
杵築城きつきじょう杵築城は、豊後国東半島の付け根に位置する天然の要害。室町初期に大友氏庶流の木付氏が築城し、豊後水道を扼する海上交通の要衝として、戦国期には大友氏の九州支配を支えた。
肝付城きもつきじょう肝付城は、大隅に根差した肝付氏の誇り高き本拠。島津氏の猛攻を退け「不落」を誇るも、戦わずして開城。その歴史は、南九州の覇権争いと時代の変遷を静かに語る。
隈本城くまもとじょう隈本城は肥後国の要衝。城氏が支配し、佐々成政時代に国人一揆で攻防。加藤清正が近世城郭熊本城を築き、蔚山城の教訓を活かした堅固な城と城下町を整備。肥後の歴史を刻む。
小倉城こくらじょう小倉城は関門海峡の要衝に築かれ、毛利氏の拠点から細川忠興が唐造りの天守を持つ総構えの近世城郭へ大改修。幕末に自焼するも、戦後復興天守として再建。時代と共に変貌し続ける歴史の鏡である。
古処山城こしょさんじょう筑前の要害、古処山城は秋月氏の拠点として栄えるも、1557年に内応により落城。種実が再興するも秀吉の九州平定で廃城となる。その歴史は地方豪族の興亡を今に伝える。
佐敷城さしきじょう肥後国ひごこく"肥薩国境の要衝に、加藤清正が総石垣の境目の城として築いた近世城郭。関ヶ原の戦いなどの籠城戦を耐え抜き、一国一城令や島原の乱後に徹底破却された国の史跡。"
佐土原城さどわらじょう日向の要衝佐土原城は、伊東氏が築き、伊東四十八城の中核として栄えた。島津氏の侵攻で伊東氏は没落。島津家久・豊久が城主となり、佐土原藩成立後、廃城。
三城さんじょう肥前の三城は、キリシタン大名大村純忠が苦難の中で築いた城。絶望的な「三城七騎篭り」を奇策で乗り越えるも、玖島城への本拠移転と幕府の命により廃城。信仰と戦乱の記憶を今に伝える。
獅子ケ城ししがじょう獅子ケ城は、肥前国境の要衝に位置する山城。平安末期に松浦党が築城し、戦国期には龍造寺氏の脅威に対抗する最前線基地として機能。近世には寺沢氏により石垣造りの近世城郭へと変貌した。
志布志城しぶしじょう志布志城は、南九州の要衝に位置し、南北朝から戦国期にかけて島津・肝付・伊東氏が争奪。天然の良港を擁し、軍事・経済両面で戦略的価値が高く、地域の勢力図を映し出す鏡であった。
清水山城しみずやまじょう対馬国つしまこく対馬清水山城は、文禄・慶長の役のため秀吉が築かせた「陣城」。合力築城で織豊系と在地技術が混在。倭城のプロトタイプとして、兵站基地と「見せる城」の役割を担いし。
勢福寺城せいふくじじょう肥前の勢福寺城は、名門少弐氏の最後の拠点。龍造寺隆信の謀略により落城し、少弐氏滅亡の舞台となる。龍造寺氏の支城として改修後、廃城となるも、その遺構は下克上の歴史を今に伝える。
高城たかじょう日向高城は、天然の要害。南北朝期に築かれ、伊東、島津と支配者変遷。耳川の戦いと九州征伐では、城主・山田有信が寡兵で大軍を退け、その忠義と武勇は秀吉をも感嘆させた。
鷹取山城たかとりやまじょう鷹取山城は、筑前と豊前の国境に位置する山城。平安時代に築かれ、中世を通じて戦略拠点として機能。江戸初期には黒田長政により大規模改修され、中世山城と近世城郭の技術が融合した特異な存在。
高森城たかもりじょう高森城は、肥後・豊後・日向の三国が接する阿蘇の南郷谷に位置する要衝。阿蘇大宮司家の国境防衛の最前線を担い、戦国末期には島津氏の九州統一戦略における鍵となり、壮絶な攻防戦の舞台となった。
立花山城たちばなやまじょう筑前の要塞、立花山城は博多湾を見下ろす要衝に築かれ、大友・大内・毛利氏の激しい争奪戦の舞台に。立花道雪・誾千代・宗茂が守り、島津軍の猛攻を退けるも、秀吉の九州平定後、福岡城築城に伴い廃城となった。
種子島城たねがしまじょう種子島城は鉄砲伝来の「内城」と江戸期の「赤尾木城」の二面を持つ。時堯の先見性で鉄砲国産化が進み、島津氏重臣として活躍。時代の要請に応え続けた海の要塞。
垂水城たるみずじょう戦国期、大隅の垂水城は伊地知氏が島津氏に抗した要衝。小濱の戦いと禰寝氏離反で伊地知氏は降伏、開城。江戸期に林之城へ機能移転し、一国一城令で廃城。地域の変遷を物語る。
知覧城ちらんじょう知覧城はシラス台地に築かれし南九州の要害。島津氏一門佐多氏の拠点として栄え、国際交易の窓口でもあった。火災で廃城となるも、その機能は麓の武家屋敷群へ継承され、今も歴史を語り継ぐ。
栂牟礼城とがむれじょう豊後水道の要衝に聳えし栂牟礼城。佐伯氏が築きし難攻不落の要塞は、豊薩合戦にて島津軍を阻み、その名を歴史に刻むも、主家改易と共に廃城となる。
中津城なかつじょう中津城は、黒田官兵衛が豊前統治の拠点として築いた水上交通の要衝。関ヶ原の戦いでは黒田如水が拠点とし、明治期に廃城となるも市民の寄付で再建された。
鍋城なべじょう鍋城は、鎌倉時代に相良氏が球磨に築いた山城。相良氏の一族分裂の象徴として生まれ、南北朝時代には上相良氏の拠点として機能。戦国期には相良氏の内乱の舞台となり、肥後南部の歴史を動かした。
丹生島城にうじまじょう豊後の丹生島城は、大友宗麟が築いた海上要塞。南蛮貿易の拠点として栄え、フランキ砲「国崩し」で島津軍を撃退。近世城郭へと変貌するも、明治維新で廃城。今もその石垣は歴史を語る。
肥前鹿島城ひぜんかしまじょう肥前鹿島城は、戦国期に龍造寺氏が有馬氏を駆逐し、鍋島氏を配置した軍事上の要衝。江戸後期に水害に悩む常広城の代替として築城され、戦国時代の戦略的判断が近世の城郭に影響を与えた。
人吉城ひとよしじょう人吉城は相良氏が700年居城とした稀有な城。戦国期は島津氏と死闘、豊臣・徳川へ巧みに対応し存続。幕末には西洋技術の石垣を導入。度重なる災禍を乗り越え再生を続ける。
日之江城ひのえじょう日之江城は、肥前有馬氏の居城。キリシタン大名・有馬晴信の時代に最盛期を迎え、南蛮貿易の富でセミナリヨを置き、天正遣欧少年使節を育んだ、戦国期日本の国際交流拠点。
日野江城ひのえじょう肥前日野江城は、キリシタン大名有馬晴信の居城として南蛮貿易で栄え、セミナリヨを擁し国際色豊かであった。しかし岡本大八事件で晴信は失脚、松倉氏の入城と島原城築城により廃城。
日隈城ひのくまじょう日隈城は、豊臣政権が九州支配の拠点として豊後日田に築いた城。大友氏改易後に宮城豊盛が築城し、毛利高政により近世城郭へ改修。関ヶ原の戦いを経て短命に終わった。
平佐城ひらさじょう平佐城は薩摩国北部の要衝。鎌倉期に築かれ、島津氏の支配下で発展。豊臣秀吉の九州征伐では桂忠昉が寡兵で籠城し、落城せず。江戸期には外城制度下の仮屋となり、その歴史は今も地域に息づく。
平戸城ひらどじょう平戸城は勝尾岳城、日の岳城、亀岡城の三つの歴史を持つ。松浦氏は国際貿易で栄え、日の岳城は自焼。亀岡城は山鹿流兵学で再建され、平戸の歴史を象徴する。
府内城ふないじょう豊後の府内城は、豊臣・徳川の権力移行期に築かれ、海城として兵站・統治の要を担う。度重なる災禍で姿を変えるも、その石垣は時代の変遷を物語る。現代に再生し、歴史を伝える象徴となる。
古麓城ふるふもとじょう肥後八代の要衝に築かれし古麓城。南北朝期に名和氏が築き、相良氏が交易で栄華を極めるも、島津の圧迫と主の死を経て、豊臣期に新城築城と共に廃城となる。
水ケ江城みずがえじょう肥前の龍造寺氏の分家拠点、水ケ江城。家兼の才覚で隆盛し、一族誅殺の悲劇を乗り越え、隆信を育んだ。佐賀城築城で廃城となるも、その記憶は今も肥前の歴史に刻まれる。
水俣城みなまたじょう肥薩国境の要衝、水俣城は相良・島津の攻防の舞台。犬童頼安と新納忠元の連歌の応酬は有名。政治的決着で開城、加藤清正が改修するも幕府により破却。地政学的価値は後世も続いた。
御船城みふねじょう肥後国御船城は、緑川中流域に位置する水陸交通の要衝。南北朝時代から南朝方の拠点として機能し、戦国期には智将・甲斐宗運の居城として九州の勢力図を動かす中心となった。
都之城みやこのじょう都之城は南九州の要衝。北郷氏が築き、シラス台地を活かした堅固な山城として240年間不落を誇る。庄内の乱では旧領回復の舞台となり、一国一城令で廃城となるも、その名は都城市として今に受け継がれる。
村中城むらなかじょう村中城は龍造寺氏本拠の「水城」。隆信の権力統合と拡大を支え、須古城と双都心体制を築く。隆信戦死後、鍋島氏が佐賀城へ改修。クリーク網は今も佐賀の都市構造に生きる。
門司城もじじょう門司城は関門海峡の要衝に位置し、毛利・大友両氏が激しく争奪。毛利元就は水軍を駆使し防衛。一国一城令で廃城、近代要塞化で遺構は失われた。
柳川城やながわじょう柳川城は水郷の難攻不落「水の城」。蒲池氏築城、宗茂の帰還、田中吉政改修で完成。明治の火災で天守は失われたが、掘割網は残り、今も街の骨格として生きる。
縣城縣城は日向国延岡に築かれし近世城郭。高橋元種が築城し、有馬氏が改修。関ヶ原の戦いでの寝返りや改易など波乱の歴史を刻む。西南戦争で荒廃するも、旧藩主の寄付で城山公園となり、今も延岡の歴史を語り継ぐ。
飫肥城日向の要衝飫肥城は、伊東氏と島津氏が百年にわたり争奪。南九州特有の群郭式城郭で、実戦的な防御を誇った。伊東祐兵が秀吉の支援で旧領を回復し、城下町を整備。