最終更新日 2026-06-19

合戦地域分類:北陸

「北陸」に属する合戦:49件

合戦概要
穴水城の戦いあなみずじょうのたたかい(1577)天正五年、上杉謙信は能登畠山氏の内紛に乗じ穴水城を攻略。謙信一時帰国中に長綱連が穴水城を包囲するも、謙信再来で壊滅。七尾城は遊佐続光の裏切りで陥落し、能登畠山氏は滅亡した。
一乗谷の戦いいちじょうだにのたたかい(1573)天正元年、織田信長は越前の名門朝倉氏を滅ぼすべく一乗谷へ侵攻。朝倉義景は抗戦するも、信長の猛攻により一乗谷は灰燼に帰し、朝倉氏は滅亡。旧来の権威が武力に屈した戦国の悲劇である。
魚津城の戦いうおづじょうのたたかい(1582)天正十年、柴田勝家率いる織田軍は越中魚津城を攻囲。上杉景勝は奮戦するも落城寸前、本能寺の変により織田軍は撤退。この戦いは信長の天下統一事業における北陸平定の最終局面であった。
越前一向一揆鎮圧えちぜんいっこういっきちんあつ(1575)織田信長は越前一向一揆を徹底的に鎮圧。武士の野心から生まれた一揆は本願寺の介入で「百姓の国」となるも、内部対立で瓦解。信長は「根切り」で数万を虐殺し、柴田勝家を配置。近世的統治の礎を築いた。
越中一向一揆えっちゅういっこういっき(1489~1581)越中一向一揆は、畠山氏の権力空白に乗じ、蓮如の布教で勢力拡大。田屋河原で石黒氏を、般若野で長尾能景を破り独立国家を形成。謙信介入で弱体化するも抵抗を続け、佐々成政に滅ぼされた。
大野城の戦いおおのじょうのたたかい(1575)天正三年、信長は長篠の戦い後、越前一向一揆を討伐。金森長近らが大野郡を平定し、杉浦玄任を撃破した。越前一揆は壊滅し、翌年、金森長近は越前大野城を築城した。
小浜城の戦いおばまじょうのたたかい(1573)天正元年、織田信長は越前朝倉氏を滅ぼし若狭を平定。小浜城の戦いは武田氏衰退と朝倉氏支配崩壊に乗じた無血の権力移譲。丹羽長秀が若狭国主となり新時代が到来した。
加賀一向一揆かがいっこういっき(1488~1580)加賀一向一揆は、守護を打倒し「百姓の持ちたる国」を約一世紀にわたり築いた。蓮如の教えと民衆の力が結集し、戦国大名と抗争。信長に徹底的に鎮圧されたが、その歴史は民衆の力を示した。
金沢城の戦いかなざわじょうのたたかい(1583)天正十一年、金沢城は賤ヶ岳の戦いの結果、佐久間盛政から前田利家へと無血で城主が交代。利家の絶妙な決断が加賀百万石の礎を築き、天下統一の潮流を象徴する歴史的転換点となった。
金沢御堂かなざわみどう尾山御坊おやまごぼう攻略こうりゃく(1580)天正八年、織田信長は柴田勝家に命じ、加賀一向一揆の拠点たる金沢御堂を攻略。佐久間盛政の奮戦により、百年に及ぶ「百姓の持ちたる国」は終焉を迎え、金沢城築城の礎が築かれた。
金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち(1570)元亀元年、織田信長は越前朝倉氏討伐中に浅井長政の裏切りに遭い、金ヶ崎で絶体絶命の窮地に陥る。羽柴秀吉らの殿軍により信長は辛くも脱出。天下布武の過程における最大の危機であった。
北ノ庄城の戦いきたのしょうじょうのたたかい(1583)天正十一年、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、北ノ庄城に籠城。秀吉の猛攻を受け、お市の方らと共に自刃し、城は炎上。織田家旧体制の終焉と豊臣秀吉による新時代の到来。
国吉城の戦いくによしじょうのたたかい(1570)国吉城の戦い(1570)は織田信長による越前侵攻と「金ヶ崎の退き口」における国吉城の戦略的価値。信長は国吉城を拠点とし、浅井長政の裏切りによる挟撃から生還した。
小松城の戦いこまつじょうのたたかい(1580)天正八年、柴田勝家率いる織田軍は加賀一向一揆を平定。金沢御坊陥落後、佐久間盛政の調略で舟岡山城が落ち、小松城も戦わずして開城。一揆は壊滅し、加賀は織田の支配下となる。
小丸山城の戦いこまるやまじょうのたたかい(1583)天正十一年、小丸山城は前田利家と佐々成政の「静かなる戦場」と化す。直接戦闘なく情報戦や調略が繰り広げられ、前田家の能登支配を確立。翌年の末森城の戦いへと繋がる戦略的対峙であった。
佐柿国吉城の戦いさがきくによしじょうのたたかい(1600)慶長五年、佐柿国吉城での大規模戦闘は史実ではない。北陸戦線では前田利長が南下するも、大谷吉継の巧みな戦略で阻止。国吉城は戦わずして戦略的価値を示し、大谷吉継の防衛網の一翼を担った。
末森周辺支城戦すえもりしゅうへんしじょうせん(1580~89)天正十二年、佐々成政は末森城を攻囲。城将奥村永福と妻安の奮戦、そして前田利家の決死の救援により城は守られた。この戦いは、利家の武名を高め、加賀百万石の礎を築く転換点となった。
末森城の戦いすえもりじょうのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の戦いと連動し、佐々成政は前田利家の末森城を攻囲。利家は救援に駆けつけ成政を撃退し、北陸における前田家の地位を確立。旧織田家臣団のライバル関係が激突した戦いである。
立山口の戦いたてやまぐちのたたかい(1582)天正十年、越中魚津城にて織田と上杉が激突。これは信長の天下統一最終局面であり、上杉家の命運を賭けた最後の決戦であった。城将たちは壮絶な最期を遂げた。
大聖寺城の戦いだいしょうじじょうのたたかい(1580)天正八年、柴田勝家は加賀一向一揆平定の最終段階で大聖寺城を制圧。激戦なく城を接収し、拝郷家嘉を城主とした。百年に及ぶ「百姓の持ちたる国」は終焉を迎え、信長の天下統一事業は進んだ。
大聖寺城の戦いだいしょうじじょうのたたかい(1600)慶長5年、関ヶ原前哨戦。前田利長率いる東軍が大聖寺城を攻撃。山口宗永は玉砕覚悟で抗戦し、大谷吉継の謀略と丹羽長重の奇襲で前田軍は関ヶ原に間に合わなかった。
敦賀城の戦いつるがじょうのたたかい(1583)本能寺の変後に生じた羽柴秀吉と柴田勝家の権力闘争。賤ヶ岳の戦いに至る前哨戦として、勝家の養子・勝豊が守る長浜城や敦賀周辺を秀吉が調略し制圧した一連の平定戦。
天筒山城の戦いてづつやまじょうのたたかい(1573)元亀元年、織田信長は越前侵攻を開始し、天筒山城を一日で陥落。浅井長政の裏切りで窮地に陥るも、天正元年、朝倉氏を刀根坂で壊滅させ、一乗谷を焼き払い滅亡。
手取川口てどりがわぐち大聖寺城攻防だいしょうじじょうこうぼう(1577)天正五年、上杉謙信は七尾城を陥落させ、手取川で織田軍を奇襲し大勝。しかし謙信の急死で上杉家は内乱に陥り、織田軍は北陸を再奪還。この戦いは「幻の合戦」として語り継がれる。
手取川の戦いてどりがわのたたかい(1577)天正五年に加賀手取川で発生した上杉謙信と織田信長勢力の合戦。柴田勝家率いる織田の北陸方面軍に対し、謙信が圧倒的な勝利を収めて北陸侵攻を挫いた合戦。
富樫政親討伐とがしまさちかとうばつ加賀蜂起かがほうき(1488)長享二年に加賀一向一揆が守護富樫政親を討伐した戦い。政親の高尾城自刃により守護支配が崩壊し、約一世紀に及ぶ「百姓の持ちたる国」が誕生する契機となった。
刀根坂の戦いとねざかのたたかい(1573)天正元年、織田信長は長年の宿敵・朝倉氏を滅ぼすべく越前へ侵攻。小谷城救援の朝倉義景軍は信長の奇襲で撤退を開始。刀根坂で織田軍の猛追を受け壊滅。義景は裏切りにより自害。
富山城再攻囲とやまじょうさいこうい(1585)天正十三年、羽柴秀吉は佐々成政の富山城を再攻囲。十万の大軍と巧みな政治的布陣で成政を孤立させ降伏に追い込んだ。この戦役は天下統一の重要な一里塚となり、佐々成政の落日を決定づけた。
富山城の戦いとやまじょうのたたかい(1582)天正十年、越中富山城にて親上杉派の反乱が勃発。佐々成政率いる織田軍がこれを奪還し、越中平定の足がかりとした。これは魚津城の悲劇へと繋がる、北陸における織田の天下統一戦の一幕である。
富山の役とやまのえき(1585)天正十三年、豊臣秀吉は佐々成政討伐のため越中へ侵攻。成政は「さらさら越え」で家康に援軍を求めるも叶わず、富山城に籠城。秀吉の心理戦に屈し降伏。
富山湾とやまわん放生津口再戦ほうじょうづぐちさいせん(1585)天正十三年「富山湾・放生津口再戦」は、佐々成政の富山湾岸制圧戦を指す。前田利家と秀吉本隊の侵攻で海からの生命線を断たれ、富山城は孤立。陸海からの周到な包囲が成政の降伏を決定づけた。
鳥越城再攻囲とりごえじょうさいこうい(1580)天正八年、織田信長は柴田勝家に命じ、加賀一向一揆最後の砦たる鳥越城を再攻囲。謀略と苛烈な鎮圧により、百年に及ぶ一揆の歴史は終焉を迎え、北陸は織田の支配下に置かれた。
鳥越城の戦いとりごえじょうのたたかい(1580)鳥越城の戦い(1580)は、加賀一向一揆の最後の抵抗。織田信長は徹底鎮圧を命じ、鳥越城を巡る激戦の末、一揆は壊滅。門徒三百余名が磔に処せられ、加賀一向一揆は終焉。
七尾城の戦いななおじょうのたたかい(1577)天正五年、上杉謙信は能登の七尾城を攻囲。難攻不落の城は畠山氏の内紛により陥落し、謙信の対信長戦略の布石となった。この戦いは織田と上杉の激突を象徴する。
七尾湾制海戦ななおわんせいかいせん(1577)天正五年、上杉謙信は七尾城を陸海から包囲。疫病と内応で城は陥落し、織田援軍も手取川で撃破された。謙信の急死で上杉氏の能登支配は短命に終わった。
能登のと穴水湾口の海戦あなみずわんこうのかいせん(1577)天正五年の上杉謙信による能登侵攻において、七尾城の海上補給路を巡り発生した海戦。上杉方が穴水湾口で補給路を遮断し七尾城陥落の要因となった合戦。
氷見ひみ阿尾城の戦いあおじょうのたたかい(1585)天正十三年、越中氷見の阿尾城で佐々成政と前田利家が激突。菊池武勝の裏切りと利家の調略により佐々軍は敗退。この戦いは成政の没落を決定づけ、前田家が北陸の覇権を握る礎となった。
氷見ひみ有磯海沿岸戦ありそうみえんがんせん(1585)天正十三年に越中富山湾沿岸で発生した佐々成政と前田利家の攻防戦。小牧・長久手の戦いで反秀吉を掲げ孤立した成政に対し、前田軍が激突した合戦。
氷見ひみ放生津の戦いほうじょうづのたたかい(1585)天正十三年、「氷見・放生津の戦い」は富山の役の前哨戦。前田利家が阿尾城を攻略し、佐々成政の沿岸防衛網を破る。秀吉は越中を制圧し、前田家は加賀百万石の礎を築いた。
放生津沖の海戦ほうじょうづおきのかいせん(1573~92)越中富山湾の制海権は、上杉謙信、織田、佐々成政、豊臣秀吉と変遷。陸上支配が海上権を左右し、水軍は陸戦を補助。秀吉の「富山の役」で陸海一体の完全包囲が完成し、戦乱の海は終焉を迎えた。
放生津湾口海戦ほうじょうづわんこうかいせん(1582)天正十年、越中魚津城を巡る織田と上杉の攻防は、陸海一体の封鎖戦。本能寺の変前日に落城し、籠城将は玉砕。この悲劇は上杉家存続と柴田勝家の運命に影響を与え、戦国史の転換点となった。
増山城の戦いますやまじょうのたたかい(1583~84)増山城の戦い(1583~84)は、織田信長亡き後の天正加越紛争における前田利家と佐々成政の死闘。末森城の戦いで利家が勝利し、成政は「さらさら越え」で家康に助けを求めるも失敗。
松任城再戦まっとうじょうさいせん(1577)天正五年、上杉謙信は七尾城陥落後、松任城を戦略的に占拠。織田軍を欺き、手取川で奇襲を成功させた。松任城は謙信の生涯最後の勝利を導いた潜伏拠点となった。
松任城の戦いまっとうじょうのたたかい(1577)天正五年、上杉謙信は七尾城陥落後、松任城を戦略的に占拠。織田軍を欺き、手取川で奇襲を成功させた。松任城は謙信の生涯最後の勝利を導いた潜伏拠点となった。
松任城の戦いまっとうじょうのたたかい(1580)天正八年、松任城の戦いは加賀一向一揆指導者層を謀殺する罠。柴田勝家は「和議」で誘い出し、一揆の頭脳と胴体を破壊。これにより百年の王国は終焉し、織田の支配が確立、後の加賀百万石の礎となった。
松倉城周辺戦まつくらじょうしゅうへんせん(1582~85)天正十年より三年、松倉城周辺にて北陸の覇権を巡る激戦が繰り広げられた。佐々成政、前田利家、上杉景勝が織田、上杉、豊臣の狭間で攻防し、最終的に豊臣秀吉による越中平定へと繋がった。
松倉城の戦いまつくらじょうのたたかい(1582)天正十年に越中国で発生した織田軍と上杉軍の戦い。柴田勝家率いる織田北陸方面軍が、上杉方の越中防衛の要である松倉城と魚津城を包囲し陥落させた合戦。
守山城の戦いもりやまじょうのたたかい(1584)天正十二年、北陸の覇権を巡り佐々成政と前田利家が激突。守山城の戦いと称されるも、実態は末森城の攻防。利家は奇策で佐々軍を破り、前田家の礎を築いた。
安田城の戦いやすだじょうのたたかい(1585)天正十三年、豊臣秀吉は佐々成政討伐のため越中へ侵攻。安田城は富山城包囲網の要として築かれ、直接的な攻防なく成政を孤立させ降伏に追い込んだ。戦国終焉と豊臣政権確立、前田家の飛躍を象徴する。