最終更新日 2026-06-10

事変読み一覧:か行

「か行」に属する事変:104件

事変よみ概要
海賊停止令(1588)かいぞくていしれい(1588)天正十六年、豊臣秀吉は海賊停止令を発令。独立勢力であった海賊衆を解体し、武力独占と海上交通安定化を図る。刀狩令と連動し、陸海両面で兵農分離を徹底...
甲斐国総検地(1582)かいのくにそうけんち(1582)天正10年、武田氏滅亡後の甲斐国で徳川家康が総検地を断行。天正壬午の乱を制し、石高制導入と蔵入地化で支配を再編。武田遺臣を登用し、近世的統治の礎...
加賀一向一揆政権確立(1540頃)かがいっこういっきせいけんかくりつ(1540ごろ)加賀一向一揆政権は、大小一揆を経て本願寺中央の直轄統治体制を確立。法主を頂点とする宗教国家として、武力と信仰で戦国大名と渡り合うも、信長に滅ぼさ...
加賀一向一揆蜂起(1488)かがいっこういっきほうき(1488)長享二年に加賀で起きた一向一揆。守護の富樫政親を自害させ、以後約百年にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒と国人衆の連合による自治支配を確立...
掛川宿整備(1601)かけがわしゅくせいび(1601)慶長六年、徳川家康は掛川宿を整備。これは天下統一の一環で、交通網を掌握し支配体制を固める狙いがあった。山内一豊が築いた城下町を活かし、宿場機能が...
鹿児島城築城(1601)かごしまじょうちくじょう(1601)島津家久が慶長六年(1601)に開始した鹿児島城の築城。関ヶ原の敗戦後に恭順を示しつつ天守を持たない屋形造りとし、独自の郷士制(外城制)と藩統治...
葛西大崎一揆後仕置(1591)かさいおおさきいっきあとしおき(1591)豊臣秀吉の奥羽仕置後、葛西・大崎旧領で一揆が勃発。新領主木村氏の統治失敗と伊達政宗の扇動疑惑が浮上。政宗は秀吉に弁明し、一揆を苛烈に鎮圧。減転封...
春日山城下町整備(1570)かすがやまじょうかまちせいび(1570)元亀元年、上杉謙信は春日山城下町を整備。織田・武田の脅威に直面し、家臣集住と二元政庁で領国を総力戦体制へ移行。信仰と経済を統合した要塞都市を築い...
刀狩令(1588)かたながりれい(1588)天正十六年、豊臣秀吉は刀狩令を発布。これは武装解除に留まらず、兵農分離を推進し武士の特権を確立。中世の自力救済社会を終焉させ、近世の身分秩序と泰...
加藤清正検地徹底(1600)かとうきよまさけんちてってい(1600)慶長5年、加藤清正は関ヶ原後に肥後一国を拝領。佐々成政の失敗を教訓に、徹底検地と大規模治水事業で石高を増大。表高を低く申告し、余剰資金で熊本城を...
神奈川宿整備(1601)かながわじゅくせいび(1601)1601年、徳川家康は神奈川宿を整備。戦国期の遺産を継承し、海陸交通の要衝である神奈川湊と東海道を連結。江戸中心の経済圏形成と幕府支配強化に貢献...
金沢城石垣整備(1592)かなざわじょういしがきせいび(1592)前田利家が文禄元年(1592)から着手した金沢城の石垣整備。朝鮮出兵に伴う長期不在と有事に備え、本拠地の防衛力向上と領国経営の基盤強化を図った土...
金沢城下町碁盤化(1592)かなざわじょうかまちごばんか(1592)文禄元年、前田利家は金沢城下町を碁盤化した。これは単なる都市計画にあらず、文禄の役を契機とした要塞化と、前田氏の支配を確立する軍事・政治戦略であ...
金沢城大火(1602)かなざわじょうたいか(1602)慶長7年、金沢城が落雷で大火。天守焼失、弾薬庫爆発で甚大な被害。徳川の監視下、前田利長は天守再建を断念し、御三階櫓を建造。戦国終焉と近世幕開けを...
金沢城三御門整備(1592)かなざわじょうみつごもんせいび(1592)文禄元年、前田利家は金沢城三御門を整備。文禄の役を背景に、高山右近の築城術も取り入れ、堅固な枡形門を築き、前田家の威信と防備を確立した。
金沢寺町台造成(1599)かなざわてらまちだいぞうせい(1599)慶長4年、秀吉死後、家康台頭で前田利長は危機に。金沢城下を惣構えで要塞化し、卯辰山に寺院を配置。これは前田家の存亡をかけた戦略的決断であった。
金谷宿整備(1601)かなやじゅくせいび(1601)1601年、徳川家康は東海道金谷宿を整備。関ヶ原後の天下統一に向け、大井川越えの要衝として、戦国終焉と泰平への布石を担う重要な役割を果たした。
加納城築城(1601)かのうじょうちくじょう(1601)慶長6年、家康は信長の岐阜城を廃し、対西国の要衝として加納城の築城を命じた。天下普請で築かれ、交通を掌握し徳川支配を固める拠点となった。
亀有新田開発(1609)かめありしんでんかいはつ(1609)
亀山宿整備(1601)かめやましゅくせいび(1601)1601年の亀山宿整備は、関ヶ原後の徳川家康による東海道宿駅伝馬制度の一環。伊勢の要衝に位置し、城下町としての防御機能と宿場機能が融合。関一政が...
亀山城(丹波)築城(1609)かめやまじょう(たんば)ちくじょう(1609)1609年、家康は天下普請で丹波亀山城を改築。西国大名の財力を削ぎ大坂を包囲する狙いで、城主は岡部長盛、設計は藤堂高虎。高虎は今治城天守を献上し...
唐津城築城(1608)からつじょうちくじょう(1608)寺沢広高は、名護屋城の資材と九州諸大名を動員し、唐津城を築城。天守なき天守台は徳川への政治的配慮を示す。しかし、寺沢家は島原の乱で改易され、唐津...
軽井沢宿整備(1602)かるいざわしゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)軽井沢宿は徳川家康の五街道整備で創設。碓氷峠麓に位置し、戦国終焉と泰平の礎石。強制移住を伴い、交通の要衝として発展した。
川崎宿整備(1601)かわさきしゅくせいび(1601)1601年の東海道整備計画当初、川崎宿は存在しなかった。品川・神奈川宿間の距離が長く伝馬役の負担が重いため、1623年に追加で設置された。
神田上水開削(1590)かんだじょうすいかいさく(1590)天正18年(1590)の江戸入府に際し徳川家康が命じた日本最古の上水道。井の頭池等の湧水を水源とし、自然流下で市中へ給水して百万都市江戸の発展を...
神田明神社領安堵(1604)かんだみょうじんしゃりょうあんど(1604)神田明神は1604年、徳川家康から社領安堵を受け、江戸総鎮守に。武神信仰から幕府の宗教政策に組み込まれ、江戸の繁栄を支える。その役割は大きかった...
神田山切崩し着手(1607)かんだやまきりくずしちゃくしゅ(1607)慶長12年、徳川家康は江戸創造のため神田山を切り崩し、日比谷入江を埋め立てた。これは天下普請を通じ大名の財力を削ぎ、徳川の権威を示す壮大な都市計...
関東郡代設置(1603)かんとうぐんだいせっち(1603)慶長8年、徳川家康は江戸幕府を開き関東郡代を設置。伊奈忠次・忠治親子は利根川東遷や荒川瀬替えで関東平野を開発。江戸の繁栄と幕府の基盤を築き、泰平...
蒲原宿整備(1601)かんばらしゅくせいび(1601)徳川家康は1601年、東海道の要衝蒲原宿を整備。戦国終焉と近世黎明を象徴し、交通網掌握による国家統治の基盤を確立。宿駅伝馬制度で人馬を確保し、地...
関白任官(1585)かんぱくにんかん(1585)天正十三年、羽柴秀吉は朝廷の混乱を収め、近衛家との猶子縁組を経て関白に任官した。これは武家関白制を確立し、天下統一を加速させる画期的な出来事であ...
蒲生氏郷会津転封(1590)がもううじさとあいづてんぽう(1590)天正18年(1590年)、秀吉は奥羽仕置で蒲生氏郷を会津42万石に転封。氏郷は会津を近世都市へと発展させ奥羽安定に貢献したが、早逝が蒲生家凋落と...
蒲生家会津町割(1592)がもうけあいづまちわり(1592)蒲生氏郷が文禄元年(1592)に開始した会津若松城下町の造成。楽市楽座の導入や商人誘致によって中世的都市から近世的「若松」へ再編し、東北の経済中...
岸和田城改修(1597)きしわだじょうかいしゅう(1597)1597年、秀吉の叔父婿・小出秀政が岸和田城を近世城郭へ改修。大坂南方防衛と紀州への備えが目的で、五層天守で政権の威信を示した。関ヶ原・大坂の陣...
北野大茶湯(1587)きたのおおちゃのゆ(1587)天正十五年、豊臣秀吉は北野大茶湯を催す。九州平定を祝し、身分問わず参加を許し文化の民主化を図る。秀吉の権威を天下に誇示する政治的祝祭であったが、...
旧二条御所破却(1573)きゅうにじょうごしょはきゃく(1573)織田信長が足利義昭のために築いた旧二条御所は、両者の権力闘争の象徴。1573年、信長は義昭を追放し御所を破却、室町幕府は事実上滅亡し、信長の新時...
己酉条約締結(1609)きゆうやくじょうていけつ(1609)対馬の宗氏が徳川家康の後押しで慶長十四年(1609)に朝鮮と締結した国交回復条約。文禄・慶長の役による断交を清算し、宗氏の貿易独占や近世日朝外交...
京都御馬揃え(1581)きょうとおうまぞろえ(1581)天正9年、織田信長は京都で大規模な御馬揃えを挙行。信長の武力と朝廷の権威を融合、天下統一の新たな秩序を内外に宣言する政治的パフォーマンスであった...
京都学問所再興(1604)きょうとがくもんじょさいこう(1604)慶長9年、徳川家康は文治政治を推進し、京都で学問復興を主導。藤原惺窩、林羅山、角倉素庵、板倉勝重が連携し、近世日本の知的基盤となる「見えざる学問...
京都御所再建開始(1596)きょうとごしょさいけんかいし(1596)慶長伏見地震後、豊臣秀吉は京都御所の再建に着手。これは単なる復旧ではなく、秀吉の権威回復と朝廷との新関係構築を目的とした政治的事業であり、近世公...
京都所司代設置(1595)きょうとしょしだいせっち(1595)文禄四年、豊臣秀吉は秀次事件後、京都所司代を再編強化。前田玄以に加え石田三成らを増員し、京都統治を絶対化。これは豊臣政権の権力深化と同時に、滅亡...
京都大火(1596)きょうとたいか(1596)文禄五年(1596)に京都を襲った巨大地震。指月伏見城や方広寺大仏殿などの巨大建築物を崩壊させ、朝鮮出兵などで動揺する豊臣政権に甚大な政治的打撃...
京都南蛮寺建立(1576)きょうとなんばんじこんりゅう(1576)天正4年、信長の庇護下、京都に南蛮寺が建立。和風三層構造の教会は、信仰と南蛮文化交流の中心地となった。しかし、天正15年、秀吉の伴天連追放令で破...
京都町奉行職設置(1603)きょうとまちぶぎょうしょくせっち(1603)1603年、京都町奉行職が設置。戦国乱世の遺産を乗り越え、天下泰平の礎を築く徳川政権の都市支配戦略の核心であり、板倉勝重が民政・司法・警察機能を...
京都町割再整備(1580)きょうとまちわりさいせいび(1580)天正8年、織田信長は石山合戦終結後、京都の機能的再編に着手。二条新御所を建設し、楽市令を適用。物理的改造ではなく、政治・経済の中心を再定義し、後...
京枡の統一(1590)きょうますのとういつ(1590)天正18年、豊臣秀吉は京枡を全国統一。太閤検地の基盤となり、石高制確立と兵農分離を推進。この政策は近世社会の秩序形成に不可欠な経済的天下布武であ...
京枡流通徹底(1592)きょうますりゅうつうてってい(1592)豊臣秀吉が文禄の役を契機に徹底させた度量衡統一事業。公認の京枡を基準として年貢や兵糧の計量を平準化し、太閤検地や石高制による全国支配の経済基盤と...
京・御土居補修(1592)きょう・おどいほしゅう(1592)文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵という国家的危機に対応するため、京都の御土居を首都防衛と統治強化のための戦略的事業として補修した。これ...
京・公家町地子免許(1587)きょう・くげまちじしめんきょ(1587)天正15年、秀吉は京都公家町に地子免許を発令。応仁の乱で荒廃した公家町の復興を促し、内裏周辺に集住させ朝廷を統制下に置く戦略。近世京都の都市構造...
清洲越し(1590)きよすごし(1590)慶長15年、徳川家康は清洲から名古屋へ遷府を断行。これは豊臣家への牽制と徳川支配確立のため、新時代の拠点創出を狙った壮大な都市計画であり、名古屋...
キリシタン右近所領没収(1587)キリシタンうこんしょりょうぼっしゅう(1587)天正15年、豊臣秀吉は伴天連追放令を発令。高山右近は信仰を捨てず、播磨明石六万石の所領を没収された。信仰に生きた武将の悲劇は、日本のキリスト教史...
キリシタン改易相次ぐ(1614)キリシタンかいえきあいつぐ(1614)慶長19年、徳川幕府は岡本大八事件を機にキリシタン弾圧を強化。高山右近らを国外追放し、キリスト教を反乱分子と断定。鎖国体制確立、潜伏キリシタンの...
禁中並公家諸法度(1615)きんちゅうならびにくげしょはっと(1615)家康、禁中並公家諸法度を公布。戦国乱世を終え、朝廷の権威を尊重しつつも政治から分離。天皇を儀礼の君主とし、幕府が実権を握る新秩序を確立した。
岐阜改名(1567)ぎふかいめい(1567)永禄10年(1567)に織田信長が美濃稲葉山城を攻略後、地名を井ノ口から改めた事変。古代中国の故事に因んで天下統一への大志を示し、天下布武の起点...
岐阜城下楽市再編(1570)ぎふじょうからくいちさいへん(1570)元亀元年、織田信長は信長包囲網の危機に際し、岐阜城下楽市を再編。経済を武器に兵站強化、財源確保、民政安定を図り、戦国乱世を乗り切る戦略的政策であ...
岐阜町奉行設置(1570)ぎふまちぶぎょうせっち(1570)元亀元年、信長は岐阜に町奉行を設置せず。楽市楽座令で都市経済と秩序を管理し、機能的統治を確立。これは近世都市行政の先駆であり、後の町奉行制度の源...
岐阜楽市令(1567)ぎふらくいちれい(1567)1567年、織田信長は美濃平定後岐阜楽市令を発布。座の特権を廃し自由な商業を保証することで岐阜を経済拠点とし、天下布武の経済的基盤を築いた。富国...
草津宿整備(1601)くさつじゅくせいび(1601)草津宿は、1601年に徳川家康が整備した東海道と中山道の結節点。関ヶ原後の国家交通網の中核として、伝馬制度により人流・物流・情報流を掌握し、江戸...
鯨組形成(1606)くじらぐみけいせい(1606)慶長11年、太地浦に日本初の鯨組が誕生。戦国終焉の世、郷士・和田頼元が浪人・伊右衛門、漁師・伝次と連携し、軍事組織を模した捕鯨産業を確立。地域経...
口之津港整備(1570)くちのつこうせいび(1570)1570年、有馬氏の口之津港は南蛮貿易で栄えるも、大村純忠が長崎を開港。イエズス会は長崎を選び、口之津は経済的役割を終え、宗教・文化拠点へ転換。...
沓掛宿整備(1602)くつかけじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)沓掛宿は徳川家康の五街道整備で創設。浅間三宿の一つで、戦国終焉と泰平の象徴。交通の要衝として機能し、地域経済を潤し発展した...
九戸政実の乱後仕置(1591)くのへまさざねのらんごしおき(1591)天正19年、九戸政実が豊臣秀吉の奥州仕置に反発し挙兵。南部信直との家督争いも背景に、豊臣軍6万に攻められ九戸城は落城。政実は処刑され、北奥羽は再...
久保田城築城(1602)くぼたじょうちくじょう(1602)慶長七年、関ヶ原で曖昧な態度をとった佐竹義宣は、出羽秋田へ転封。久保田城を築き、天守なき土の城と商都を創生。懲罰から再起を図り、新時代の藩政を確...
久保田藩成立(1602)くぼたはんせいりつ(1602)関ヶ原で中立を保った佐竹義宣は常陸から出羽秋田へ減転封。新天地で久保田藩を成立させ、城下町整備、財政再建、藩主権力強化を断行し、近世大名へ変革を...
熊谷宿整備(1602)くまがやじゅくせいび(1602)1602年の熊谷宿整備は、徳川家康の中山道整備の一環。戦国終焉後の関東支配強化を目的とし、伊奈忠次が主導。陸路と水運の結節点として計画され、商業...
熊本城下町建設(1601)くまもとじょうかまちけんせつ(1601)関ヶ原後、加藤清正は肥後一国を領し、熊本城下町を建設。茶臼山丘陵に難攻不落の城を築き、河川改修で治水と経済を両立。軍事・経済・統治を統合した機能...
熊本城築城(1607)くまもとじょうちくじょう(1607)加藤清正は1607年、肥後に熊本城を築城。戦国終焉の時代、統治困難な肥後を治めるため、蔚山での経験を活かし難攻不落の要塞を完成させた。城は清正の...
蔵入地拡張(1585)くらいりちかくちょう(1585)天正13年、豊臣秀吉は蔵入地を拡張。関白就任で権威を確立し、太閤検地で土地支配を深化。旧来の権威を体制内に取り込み、近世的な社会経済構造の基礎を...
倉賀野河岸整備(1602)くらがのがしせいび(1602)慶長7年(1602年)倉賀野河岸は徳川家康の物流網構築で整備。戦国兵站から経済拠点へ転換し、陸路と水路の結節点として江戸の発展に大きく貢献した。
黒田家藩政開始(1600)くろだけはんせいかいし(1600)慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで功績を挙げた黒田長政は筑前国を与えられ、藩政を開始。名島城を放棄し、博多に隣接する福崎に新城「福岡城」を築...
黒田長政筑前入封(1600)くろだながまさちくぜんにゅうほう(1600)関ヶ原の戦い後、黒田長政が筑前国52万3千石を与えられ入封。父如水による九州平定と長政の調略が評価され、福岡藩の礎を築いた。名島城から福岡城への...
桑名宿整備(1601)くわなじゅくせいび(1601)桑名宿は、1601年に徳川家康が関ヶ原後の国家戦略として整備。陸海交通の要衝に本多忠勝を配し、「慶長の町割」で城下町・宿場町を建設。軍事、経済、...
桑名湊整備(1601)くわなみなとせいび(1601)慶長六年、徳川家康の命を受けた本多忠勝は桑名に入封。関ヶ原後の要衝を軍事・交通・経済の拠点へと大改造。城下町を再編し、七里の渡しを整備。わずか八...
郡上八幡城築城(1559)ぐじょうはちまんじょうちくじょう(1559)遠藤盛数が永禄二年(1559)に美濃国郡上郡に築いた郡上八幡城。旧主・東氏を武力で打倒した盛数が新たな支配者としての正統性を示すため、旧城に代え...
慶長江戸大火(1601)けいちょうえどたいか(1601)1601年の慶長江戸大火は、戦国期の軍事優先都市から近世計画都市への転換点。家康の都市計画と脆弱な構造が被害を拡大させ、防火意識と都市改造を促し...
慶長金銀鋳造開始(1601)けいちょうきんぎんちゅうぞうかいし(1601)家康、慶長金銀鋳造を開始。戦国期の貨幣混乱を収拾し、金銀山を直轄。慶長小判・丁銀を鋳造し、三貨制度を確立。全国市場を形成し、徳川幕府の経済基盤と...
慶長遣欧使節出帆(1613)けいちょうけんおうしせつしゅっぱん(1613)伊達政宗が慶長十八年(1613)に常長らをローマへ派遣した使節。スペインとの直接通商交渉や宣教師派遣を目的とし、サン・ファン・バウティスタ号で太...
慶長使節ローマ謁見(1615)けいちょうしせつろーまえっけん(1615)1615年、慶長遣欧使節の支倉常長はローマ教皇パウルス5世に謁見し、ローマ市民権を得る栄誉に浴した。しかし、日本の禁教強化により通商交渉は実を結...
慶長地震(1605)けいちょうじしん(1605)慶長九年、日本を未曾有の津波が襲う。揺れが少ない「津波地震」で、関ヶ原後の新領主を苦しめた。多くの犠牲を出しつつも、後世に「揺れなくとも津波は来...
慶長伏見地震(1596)けいちょうふしみじしん(1596)文禄5年(1596年)、慶長伏見地震が発生し、秀吉の伏見城と方広寺大仏が壊滅。この天災は豊臣政権の威信を揺るがし、外交破綻や財政悪化を招き、徳川...
検地騒動(1591)けんちそうどう(1591)天正19年、豊臣秀吉の太閤検地に対し紀伊国で騒動が発生。秀長の死が引き金となり、在地勢力の自立と中央の強権が衝突。武力鎮圧され、近世社会への転換...
検地帳・郷帳提出令(1595)けんちちょう・ごうちょうていしゅつれい(1595)文禄4年、豊臣秀吉は「検地帳・郷帳提出令」を発令。秀次事件と朝鮮出兵の危機の中、全国の土地と生産力を石高制で把握し、大名統制と軍役賦課の基盤を強...
小石川上水整備(1606)こいしかわじょうすいせいび(1606)徳川家康が江戸入府後に着手し、慶長十一年(1606)に整備した小石川上水(後の神田上水)。塩分の多い井戸水に悩む江戸へ良質な飲料水を供給し、大都...
交易場所制整備(1600頃)こうえきばしょせいせいび(1600ごろ)松前藩が蝦夷地でアイヌ交易を統制するため整備した制度。独自の交易権を家臣に配分して管理し、幕藩体制下における対アイヌ支配と北方統治の経済基盤とな...
甲州街道整備(1602)こうしゅうかいどうせいび(1602)徳川家康が天下統一後、甲州街道を整備。武田信玄の遺産を継承し、軍事・経済・文化の大動脈へ発展。大久保長安が八王子宿を築き、泰平の世を支えた道の物...
甲州法度之次第(1547)こうしゅうはっとのしだい(1547)天文16年(1547年)、武田晴信(信玄)は「甲州法度之次第」を制定。父信虎追放後の不安定な状況と信濃侵攻激化の中、家臣統制と領国経営を強化し、...
甲相駿三国同盟(1554)こうそうすんさんごくどうめい(1554)1554年、武田信玄、北条氏康、今川義元は甲相駿三国同盟を締結。婚姻で背後の安全を確保し、信玄は信濃、氏康は関東、義元は尾張へと勢力拡大。義元死...
高知城築城(1601)こうちじょうちくじょう(1601)関ヶ原後、山内一豊は土佐二十四万石を拝領。浦戸一揆を鎮圧し、大高坂山に高知城を築城。百々綱家を登用し、治水と堅牢な城を築き、土佐藩の礎を築いた。
鴻巣宿整備(1602)こうのすじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)の中山道鴻巣宿整備は、徳川幕府の国家建設プロジェクト。伝馬制導入と移転で江戸中心の新秩序が確立、地域経済・文化発展の基盤を...
甲府城築城(1590)こうふじょうちくじょう(1590)天正18年、豊臣秀吉は徳川家康の関東移封後、甲斐に甲府城を築城。武田氏の統治思想を否定し、石垣と最新技術で豊臣の権威を誇示。対家康の最前線基地と...
高野街道整備(1600)こうやかいどうせいび(1600)慶長五年、関ヶ原の戦乱下、高野街道は西軍の軍事確保、高野山の防衛、徳川の新秩序構築という三様の「整備」を経験。この動乱が街道を軍事路から信仰・経...
高野山寺領安堵(1585)こうやさんじりょうあんど(1585)天正十三年、秀吉は紀州征伐を開始。根来寺を焼き、高野山に降伏を迫る。滅亡の危機に、僧・木食応其が交渉役に。彼は巧みな弁舌で寺領安堵を勝ち取り、聖...
郡山市場免許(1592)こおりやまいちばめんきょ(1592)文禄元年、豊臣秀長死後の郡山は、文禄の役で危機に直面。若き城主・秀保不在の中、「箱本十三町」が秀長が与えた特権を再保証され、戦時経済を支える兵站...
小倉城下碁盤整備(1602)こくらじょうかごばんせいび(1602)細川忠興が慶長七年(1602)から着手した小倉城と城下町の整備。道路を碁盤の目状に整備して武家地と町人地を分離した城下町を建設し、領国統治と経済...
小倉城築城(1602)こくらじょうちくじょう(1602)細川忠興は1602年、徳川家康の命で豊前小倉に築城を開始。関門海峡に面した要衝に、周囲8kmの総構と、常識を覆す「唐造り」天守を持つ城を約7年で...
児島湾干拓着手(1580)こじまわんかんたくちゃくしゅ(1580)天正8年、宇喜多直家は児島湾干拓構想を確立。織田・毛利に挟まれ、国土改造で国家存続を図る。子の秀家が備中高松城水攻めの技術を応用し宇喜多堤を築造...
小西行長処刑(1600)こにしゆきながしょけい(1600)1600年関ヶ原後、西軍小西行長は捕縛され、武士の常識に反し自害を拒否。信仰を貫き、三成、恵瓊と共に六条河原で処刑。徳川の秩序を示す政治的儀式。
小早川秀秋入封(1600)こばやかわひであきにゅうほう(1600)1600年、小早川秀秋は関ヶ原で西軍を裏切り東軍に寝返り、備前・美作50万石余りを与えられ岡山に入封。秀吉養子として栄華を極めたが、秀頼誕生後は...
小諸城改修(1590)こもろじょうかいしゅう(1590)天正18年、小田原征伐で大名に復帰した仙石秀久は小諸城主となった。城を近世城郭へ大改修し、豊臣の東国支配の拠点、自身の再起の証とした。
金毘羅大権現社領安堵(1601)こんぴらだいごんげんしゃりょうあんど(1601)慶長6年、生駒氏が金毘羅大権現の社領を安堵。戦国期の荒廃から復興した金毘羅は、宥盛と生駒氏の保護で近世的寺社支配体制に組み込まれ、全国的な「こん...
河渡宿整備(1602)ごうどしゅくせいび(1602)1602年の河渡宿整備は、関ヶ原後の徳川家康による国家再編。戦場から中山道の宿駅へ転換し、伝馬制で交通・行政の要衝に。水害との闘いも宿命。
五街道整備着手(1604)ごかいどうせいびちゃくしゅ(1604)徳川家康は1604年に五街道整備に着手。これは軍事・政治・経済戦略の総体であり、大名統制と情報伝達を迅速化し、全国市場を創出。江戸中心の国家基盤...
五條新町成立(1590)ごじょうしんまちせいりつ(1590)1590年、豊臣秀長の治世で安定した五條。その土壌の上に1608年、新領主・松倉重政が近世的な商業都市『新町』を創設。諸役免許で商人を集め、南大...
五大老設置(1595)ごたいろうせっち(1595)文禄4年、豊臣秀吉は秀次事件後の政権安定のため五大老を設置。徳川家康を牽制し、幼い秀頼の後見体制を築くも、制度の矛盾と秀吉・利家の死により関ヶ原...
御油宿整備(1601)ごゆしゅくせいび(1601)慶長6年、家康は東海道の伝馬制度を確立し、御油宿を公式宿場に指定。隣の赤坂宿とは元々一つの宿場で、距離が極めて近く、上下線で業務を分担するなど特...