最終更新日 2026-06-19

合戦地域分類:東海

「東海」に属する合戦:126件

合戦概要
青木城の戦いあおきじょうのたたかい(1585)天正13年、秀吉の命で金森長近は飛騨へ侵攻。姉小路頼綱を二正面作戦で短期間に平定。「青木城の戦い」は史実ではなく、小城の攻防を象徴する呼称か誤伝。
青野原の戦いあおのがはらのたたかい(1547)天文16年、斎藤道三は織田信秀を稲葉山城下で迎え撃ち、巧みな戦術で大勝。この加納口の戦いは、両家の和睦と信長・濃姫の政略結婚へと繋がる転換点となった。
青山あおやま土居の戦いどいのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の激戦。家康は秀吉の三河中入りを看破し、長久手にて精鋭を撃破。その武勇は天下に響き、徳川の礎を築く一戦となる。
赤坂あかさか細野の戦いほそののたたかい(1600)慶長五年、関ヶ原前夜の杭瀬川にて、島左近は巧みな奇襲で東軍を破り、西軍の士気を高めた。しかしこの勝利は、西軍を関ヶ原の野戦へと誘う皮肉な結果となった。
明智城の戦いあけちじょうのたたかい(1549)弘治2年、斎藤義龍は父・道三を討ち、旧道三派の明智城を攻略。明智光安は奮戦の末討死し、光秀は城を脱出。後の本能寺の変へと繋がる流浪の旅が始まった。
明知城の戦いあけちじょうのたたかい(1573)天正二年、武田勝頼は東美濃の明知城を攻囲。織田信長は救援も城内の裏切りで落城。信長は敗北から学び、長篠の戦いへと繋がる新戦術を確立。勝頼の勝利は後の悲劇の序曲となった。
小豆坂の戦いあずきざかのたたかい(1549)今川義元と織田信秀が三河の覇権を巡り衝突した合戦。今川方が勝利し、徳川家康の今川従属を決定づけ、東海地方の勢力図を画定させる大きな転換点となった一戦。
小豆坂の戦いあずきざかのたたかい第一次だいいちじ・1542)天文十一年、織田信秀と今川義元が三河小豆坂で激突したとされる。伝承では織田軍が勝利するも、近年その実在性は疑問視される。この伝説は織田家の武威を高め、後の桶狭間へと繋がる歴史的意義を持つ。
小豆坂の戦いあずきざかのたたかい第二次だいにじ・1548)天文十七年、織田信秀と今川義元は三河小豆坂で激突。太原雪斎の巧みな戦略で今川軍が勝利し、織田軍は壊滅。今川の三河支配が確立し、後の桶狭間や徳川家康の人生に影響を与えた。
安濃川口の戦いあのうがわぐちのたたかい(1600)慶長五年、関ヶ原前哨戦。富田信高は安濃津城に籠城し、西軍三万を三日間足止め。その間に東軍は岐阜城を攻略。安濃津城は開城するも、この遅滞戦術が関ヶ原の東軍勝利に貢献した。
安濃津城の戦いあのうつじょうのたたかい(1600)慶長五年、関ヶ原の前哨戦。富田信高の安濃津城は西軍3万に包囲。信高は寡兵で奮戦し、壮絶な抵抗の末開城。しかし、西軍の足止めに成功し、東軍勝利に貢献した。
安祥城の戦いあんしょうじょうのたたかい(1542~49)三河の要衝・安祥城を巡り、織田・今川・松平が十年争奪。織田信秀が奪うも今川義元が奪還。竹千代(家康)人質交換を経て今川が三河を支配。家康独立の転換点。
安城城の戦いあんじょうじょうのたたかい(1540~49)天文九年より安城城を巡り織田と今川が激突。松平広忠は苦闘し、本多忠豊・忠高親子は犠牲に。竹千代は人質となり、太原雪斎の活躍で今川が安城城を奪還し三河を支配。家康の人間形成と桶狭間への伏線。
井伊谷城の戦いいいのやじょうのたたかい(1568)永禄十一年、井伊谷城の戦いは今川衰退と井伊家内紛に乗じた徳川家康の遠江侵攻の序章。家康は井伊谷三人衆を調略し、小野道好が占拠する井伊谷城を無血開城させた。これは家康の遠江支配の礎となった。
井伊谷城の戦いいいのやじょうのたたかい(1569)永禄十二年、徳川家康は今川衰退に乗じ、井伊谷三人衆を調略。小野道好を排し、井伊谷城を無血で掌握。井伊家再興の礎を築き、直政の活躍へと繋がる歴史的転換点となった。
稲葉山城攻略いなばやまじょうこうりゃく(1567)永禄十年に織田信長が斎藤龍興の難攻不落の居城・稲葉山城を陥落させた合戦。西美濃三人衆らの調略で斎藤家を孤立させ美濃平定を成し遂げた戦い。
稲葉山城前面戦いなばやまじょうぜんめんせん(1556~57)弘治元年、斎藤道三は義龍に家督を譲るも実権を保持し、義龍は弟たちを謀殺し道三を追放。翌年、長良川の戦いで道三は壮絶な最期を遂げ、義龍が美濃を掌握。この戦いは信長の美濃攻略の契機となった。
犬居城の戦いいぬいじょうのたたかい(1572)犬居城は遠江の要衝。元亀三年、武田信玄に無血開城せしも、天正二年、徳川家康の攻撃を天候と地の利で退ける。長篠の戦い後、ついに落城す。
犬山城奪回戦いぬやまじょうだっかいせん(1584)小牧・長久手の緒戦、池田恒興は信雄の隙を突き犬山城を電撃奪取。家康は小牧山に迅速進駐し秀吉の南下を阻止。この攻防が戦線膠着を招き、長期戦の要因となった。
犬山城の戦いいぬやまじょうのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の戦い緒戦。池田恒興が犬山城を奇襲占拠するも、家康は迅速に対応し小牧山に布陣。羽黒の戦いで森長可を破り、両軍は膠着。家康の戦略的成長の原点となった。
稲生の戦いいのうのたたかい(1556)弘治二年、尾張稲生原で織田信長と弟信行が家督を巡り激突。信長は奇行を嫌う宿老たちの反発を退け、勝利。この戦いは信長の権力基盤を確立し、その後の天下布武への道を拓いた。
揖斐いび横山峡口の戦いよこやまきょうぐちのたたかい(1567)永禄十年の織田信長による美濃斎藤氏平定戦の総称。小牧山城を拠点とする信長が西美濃の要衝を押さえ、稲葉山城を孤立させて陥落させた一連の軍事行動。
岩倉城の戦いいわくらじょうのたたかい(1559)永禄二年、織田信長は尾張統一のため岩倉城を攻囲。浮野の戦いで敵主力を破り、兵糧攻めと心理戦で城を落とした。この勝利で信長は尾張を統一し、翌年の桶狭間の戦いへの重要な布石を築いた。
岩崎城の戦いいわさきじょうのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の戦い中、羽柴秀吉の別働隊が岩崎城を通過。城代・丹羽氏重は16歳ながら寡兵で迎撃を決断。城兵は玉砕するも、羽柴軍の進軍を遅滞させ、家康の勝利に貢献。
岩村城の戦いいわむらじょうのたたかい(1572~73)1572年、岩村城は織田・武田の攻防の要衝に。信長の叔母おつやの方は秋山信友と婚姻し無血開城。信玄死後、長篠で武田が敗れると信長は城を奪還し、おつやの方らを処刑。境界国衆の悲劇と時代の転換点。
牛久保城の戦いうしくぼじょうのたたかい(1560~66)桶狭間後、松平元康は三河統一へ東三河の牛久保城を攻める。牧野氏の堅固な抵抗と一向一揆で長期化するも、元康は清洲同盟で勢力拡大。5年後、牛久保城は無血開城し、牧野氏は徳川譜代となる。
牛久保城の戦いうしくぼじょうのたたかい(1563)永禄六年、家康は三河統一のため牛久保城を攻めるも、一向一揆で中断。今川氏真の撤退後、城主牧野保成が討死するも抵抗は続き、最終的に開城。家康の三河統一が完了した。
鵜沼城の戦いうぬまじょうのたたかい(1584)天正十二年、小牧・長久手の緒戦にて池田恒興は犬山城を電撃攻略。鵜沼・伊木山城を前線に、夜陰と大雨を衝き木曽川を渡河、内通者の手引きで陥落させた。この奇襲が戦局を拡大、鵜沼城は廃城となりし一戦なり。
江尻城の戦いえじりじょうのたたかい(1568)武田信玄は駿河侵攻で今川氏を瓦解させ、江尻湊を無血占領。海上戦略拠点として江尻城を築き、武田水軍を創設。駿河支配の要衝とし、北条・徳川との対峙に備えた。城の興亡は武田氏の盛衰を映す。
江尻城の戦いえじりじょうのたたかい(1582)天正十年、江尻城は戦わずして開城。武田一門の穴山梅雪が徳川家康に内通したためである。これにより武田氏の駿河支配は終焉を迎え、家康の天下取りへの重要な布石となった。
大河内城再攻囲おおかわちじょうさいこうい(1569)織田信長による伊勢の名門北畠家の居城大河内城の包囲戦。信長が交通の要衝と経済圏を確保するため大軍で親征し、養子縁組により伊勢を事実上制案した過程。
大河内城の戦いおおかわちじょうのたたかい(1569)永禄十二年、織田信長は伊勢大河内城を攻囲。北畠具教の実弟を調略し、大軍で兵糧攻め。将軍義昭の仲介で和睦し、次男信雄を養子として北畠家を乗っ取る。信長の冷徹な戦略と旧名門の滅亡を象徴する。
大垣城の戦いおおがきじょうのたたかい(1600)慶長五年、石田三成は関ヶ原の前哨戦として大垣城を本拠とする。三成は関ヶ原へ転進。大垣城は東軍別働隊に攻囲され、味方の裏切りにより落城。
大桑城の戦いおおがじょうのたたかい(1567)永禄十年、信長は美濃攻略の最終章で西美濃三人衆を調略。彼らの内応と情報操作で稲葉山城を電撃的に攻略し、斎藤氏を滅亡させた。岐阜城と改め天下布武を開始した。
大高城の戦いおおだかじょうのたたかい(1560)永禄三年、今川義元の尾張侵攻に際し、松平元康は大高城への兵糧入れと砦攻略を成功させる。しかし、義元は桶狭間で油断し討死。元康は大高城を脱出し、岡崎城へ帰還、独立を果たした。
興津城再攻防おきつじょうさいこうぼう(1570)元亀元年、武田信玄と北条氏政は駿河興津で90日間の対陣。陸海で睨み合い、決戦は回避された。信玄は駿河支配を確立し、北条氏は和睦へ転換。東国の勢力図が大きく動いた。
興津城の戦いおきつじょうのたたかい(1568)永禄十一年の武田信玄による駿河侵攻戦において、今川氏の防衛線である薩埵峠を巡る攻防。興津城の今川勢を信玄が撃破し、駿府への進路を確保した合戦。
桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(1560)永禄三年、今川義元の大軍を織田信長が桶狭間で奇襲、義元を討ち取った。この劇的な勝利は信長を天下統一へ導き、徳川家康の独立を促し、戦国の歴史を大きく変えた。
加賀野井城の戦いかがのいじょうのたたかい(1573)天正元年、織田信長は浅井氏の支城を次々攻略し、小谷城防衛線を崩壊させた。朝倉氏も滅亡し、浅井長政は孤立。信長の巧みな戦略により浅井氏は滅亡した。
掛川城の戦いかけがわじょうのたたかい(1569)永禄十二年、桶狭間後の今川氏衰退に乗じ、徳川家康は掛川城を攻囲。朝比奈泰朝は粘り強く防衛するも、北条氏仲介で和議開城。今川氏は滅亡し家康は遠江を平定。武田・徳川同盟は破綻、対立激化。
柏原城の戦いかしわばらじょうのたたかい(1581)天正九年、織田信長は伊賀惣国一揆最後の拠点柏原城を攻囲。伊賀衆は奮戦するも兵糧尽き、城主滝野吉政は降伏。中世以来の独立国家伊賀は滅亡し、信長の天下統一事業はまた一歩進んだ。
加治田城の戦いかじたじょうのたたかい(1581)美濃加治田城をめぐる戦い。織田信長の美濃攻略において中濃三城盟約の崩壊から佐藤忠能が内通した永禄八年の戦いや、本能寺の変後の混乱期の死闘とその実相を示す。
加治田城かじたじょう東美濃戦ひがしみのせん(1584)天正十二年、東美濃で森長可と斎藤利堯が激突。小牧・長久手の戦いの裏で繰り広げられた加治田城を巡る攻防は、鬼武蔵の最期と地域の自立を賭けた戦いの終焉を告げた。
蟹江合戦かにえがっせん(1584)長久手敗戦後、秀吉は蟹江城を調略で奪うも、家康の迅速な反撃と海上封鎖で籠城失敗。この敗北は秀吉に家康の軍事力を再認識させ、政治的解決へと戦略転換を促した。
蟹江城合戦かにえじょうがっせん(1584)蟹江城合戦は、小牧・長久手後の天正十二年、秀吉が滝川一益に命じ蟹江城を奇襲せしも、家康の迅速な反撃で失敗。秀吉は家康との直接対決を避け、政略へと転換す。
加納口の戦いかのうぐちのたたかい(1547)天文16年、斎藤道三は稲葉山城下で織田信秀を迎え撃ち、撤退中の織田軍を奇襲し大勝。この敗戦が信秀に二正面作戦の限界を悟らせ、信長と濃姫の政略結婚へと繋がった。
加納口の戦いかのうぐちのたたかい(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦である東軍による岐阜城の攻略。西軍に与した織田信長嫡孫の織田秀信に対し、福島正則や池田輝政などの東軍が米野や加納口で攻め落とした過程。
上ノ郷城攻略かみのごうじょうこうりゃく(1562)永禄五年、若き松平元康は桶狭間後の激動の中、今川氏の庇護を離れ自立を決意。上ノ郷城攻防戦を奇策で制し、運命を切り拓いた。これは家康の天下取りへの第一歩であった。
上和田原の戦いかみわだがはらのたたかい(1563)永禄六年、三河一向一揆で家臣団が分裂し、家康は最大の試練に直面。上和田原の激戦で自ら出陣し戦局を転換、一揆を鎮圧し統治基盤を確立した。
亀山城かめやまじょう伊勢いせ攻防こうぼう(1578)天正六年の伊勢亀山城をめぐる情勢。織田信雄が敢行した第一次天正伊賀の乱における後方戦略拠点として機能した亀山城の実態と、その大敗による影響を分析する。
蒲原城の戦いかんばらじょうのたたかい(1568)永禄十一年、武田信玄は駿河侵攻の要衝蒲原城を攻めた。陽動作戦で北条本軍を誘い出し、孤立した城を武田勝頼と山県昌景が半日で陥落。今川家滅亡を決定づけ、東国に新たな対立構造を生みし戦いなり。
楽田城の戦いがくでんじょうのたたかい(1584)天正12年、小牧・長久手の戦い前哨戦。秀吉は楽田城に本陣を置き家康と対峙。圧倒的兵力も家康の堅守に攻めあぐね、膠着を破る「三河中入り」作戦が長久手の戦いを誘発した。
木曽川口の戦いきそがわぐちのたたかい(1574)天正二年の第三次長島攻めにおける織田信長の水陸共同作戦。九鬼嘉隆率いる水軍による河口デルタ地帯の海上封鎖と陸軍の包囲で長島一向一揆を殲滅した合戦。
木曽川口の戦いきそがわぐちのたたかい(1584)天正十二年、秀吉は家康を屈服せんと蟹江城を奇襲。滝川一益と九鬼嘉隆が水陸より攻めるも、家康の神速の対応に阻まれ、九鬼水軍も敗北。秀吉の奇襲は失敗し、家康の武威を天下に知らしめし戦いなり。
清洲城外郭の戦いきよすじょうがいかくのたたかい(1553~55)信秀死後、織田信長は清洲織田家と尾張の覇権を争う。萱津の戦いで初陣を飾り、斯波義統殺害事件を機に大義名分を得て清洲方を壊滅。叔父信光との謀略で清洲城を無血開城させ、尾張統一の礎を築いた。
清洲城の戦いきよすじょうのたたかい(1556~57)1552年から1557年、織田信長は清洲城を巡る戦いで尾張統一の礎を築いた。主家や実弟信勝との内紛を制し、非情な決断と卓越した軍才で旧秩序を破壊。桶狭間へと続く修羅の道であった。
岐阜城の戦いぎふじょうのたたかい(1600)関ヶ原合戦の前哨戦であり、織田秀信が守る岐阜城を東軍の先鋒が攻撃した戦い。激戦の末にわずか一日で城は陥落し、東軍が関ヶ原の本戦に向けて主導権を握った。
杭瀬川の戦いくいせがわのたたかい(1600)慶長五年九月十四日、関ヶ原前夜。島左近は杭瀬川で東軍を挑発し、野一色頼母を討ち取る。この勝利は西軍の士気を劇的に回復させ、関ヶ原での決戦を促す決定打となった。
久能城の戦いくのうじょうのたたかい(1569)永禄十二年の武田信玄の駿河侵攻における今川方の久能城の戦い。桶狭間の戦いによる三国同盟の崩壊後、信玄が徳川と密約を結んで駿河の港と要衝を確保した過程。
久能城の戦いくのうじょうのたたかい(1582)久能城の戦い(1582)は、甲州征伐における徳川家康の駿河侵攻。武田氏の内部崩壊と穴山梅雪の裏切りにより、久能城は無血開城。家康は駿河を掌握した。
雲出川の戦いくもずがわのたたかい(1568)永禄十二年、織田信長は伊勢平定のため北畠氏を攻める。北畠具教は一門の裏切りに激昂し、雲出川で人質を惨殺。信長は大河内城を攻め落とし、北畠家は滅亡。信長の天下布武を象徴する悲劇となった。
桑名城の戦いくわなじょうのたたかい(1600)慶長五年、桑名城主氏家行広は人質のため西軍に与し籠城。関ヶ原敗報で無血開城し改易。大坂の陣で豊臣方に殉じた。桑名城は本多忠勝により徳川の要塞となる。
郡上八幡城の戦いぐじょうはちまんじょうのたたかい(1580)慶長五年、遠藤慶隆は旧領郡上八幡城を攻囲。城主稲葉貞通は犬山より帰還し、奇襲で遠藤軍を撃破。武士の意地を見せ城を奪還後、和議を結んだ。関ヶ原前哨戦の異聞である。
興国寺城の戦いこうこくじじょうのたたかい(1582)興国寺城の戦いは1582年、武田氏の内部崩壊と調略で無血開城。徳川家康が駿河を掌握し、本能寺の変後の混乱を経て対北条の最前線となった。
国府城の戦いこうじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の命で金森長近は飛騨の姉小路頼綱を討伐。高堂城は勅命で無血開城も、松倉城は落城し姉小路氏は滅亡。金森氏が飛騨を治め、高山城を築いた。
小牧山の戦いこまきやまのたたかい(1584)信長没後、秀吉と家康は天下を巡り小牧山で対峙。秀吉は犬山城を奪取し攻勢に出るも、家康は小牧山を要塞化し堅守。両雄の攻防は戦線を膠着させ、長期戦の様相を呈した。
小牧こまき長久手の戦いながくてのたたかい(1584)天正十二年、羽柴秀吉と徳川家康は小牧・長久手で激突。家康は戦術的勝利を収めるも、秀吉は信雄を屈服させ戦略的勝利を得た。この戦いは両者の実力を天下に示し、後の天下統一の布石となった。
小山城の戦いこやまじょうのたたかい(1584)遠江国小山城は、天正12年の戦い記録はないが、武田信玄が築き、馬場信春が甲州流築城術で強化。徳川家康と城将大熊朝秀が十年以上死闘を繰り広げ、武田氏滅亡と共に徳川の手に落ちた堅城である。
河渡口の戦いごうどぐちのたたかい(1600)関ヶ原前夜、東軍は美濃の要衝・河渡口を攻略。西軍舞兵庫隊を破り、岐阜城を孤立させた。この勝利は関ヶ原の戦局を東軍有利に導く決定打となった。
志摩しま鳥羽城の戦いとばじょうのたたかい(1576)天正四年、九鬼嘉隆は織田信長の命で志摩を平定。大鉄砲を搭載した水軍で鳥羽の砦を攻略し、橘宗忠を降伏させた。伊勢湾の制海権を確立し、信長の対本願寺・毛利戦略の要となった。
下田城の戦いしもだじょうのたたかい(1590)天正十八年の小田原征伐における下田城をめぐる水軍の戦い。畝堀など堅牢な空堀を持つ後北条氏の海城を、圧倒的な豊臣水軍が海上封鎖し降伏させた過程を示す。
墨俣一夜城攻防すのまたいちやじょうこうぼう(1566)織田信長の美濃攻略において木下藤吉郎が一夜にして城を築いたとされる伝説の攻防戦。斎藤義龍の急死後に若くして家督を継いだ龍興と対峙した、秀吉の出世譚の真相。
駿河するが花倉の乱の合戦はなくらのらんのかっせん(1536)今川氏輝急逝後、家督を巡り栴岳承芳(後の義元)と玄広恵探が対立。北条氏援軍を得た承芳派が勝利し、義元が家督継承。今川家の転換点となり、甲駿同盟や河東一乱へ。
諏訪原城の戦いすわはらじょうのたたかい(1572)武田信玄の西上作戦により築かれた諏訪原城は、徳川家康との攻防の要衝となる。長篠の戦い後、徳川が奪取し牧野城と改名。高天神城攻略の拠点となり、武田氏衰亡の序章を告げた。
諏訪原城の戦いすわはらじょうのたたかい(1582)諏訪原城の攻防は1575年、徳川家康が武田氏から奪取。1582年には徳川方の「牧野城」として武田氏滅亡に貢献。徳川改修で鉄砲戦対応要塞へ変貌。
駿府城の戦いすんぷじょうのたたかい(1582)天正十年、織田信長死後の混乱に乗じ、徳川家康は駿河国を完全に掌握。これは単なる城攻めにあらず、家康が天下を窺う大大名へと飛躍する戦略的転換点であった。
関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい(1600)慶長五年、関ヶ原の戦いは豊臣政権の構造的欠陥と家康の野心から勃発。石田三成の義と家康の調略が激突し、小早川秀秋の裏切りで西軍は崩壊。この戦いは徳川幕府の礎を築き、戦国乱世に終止符を打った。
曽根城の戦いそねじょうのたたかい(1567)永禄十年、織田信長は美濃平定の最終章で曽根城主・稲葉一鉄ら西美濃三人衆を調略。彼らの内応により稲葉山城の防衛線は崩壊し、信長は電撃的に美濃を掌握。岐阜城と改め天下布武を開始した。
高天神城の戦いたかてんじんじょうのたたかい(1574)天正二年、武田勝頼は難攻不落の高天神城を攻略し、武名を天下に轟かせた。しかし、この勝利は過信を生み、徳川家康に非情な教訓を与えた。高天神城の陥落は、武田家滅亡への序曲となる分水嶺であった。
高天神城の戦いたかてんじんじょうのたたかい第一次だいいちじ・1571)元亀二年、武田信玄は遠江の要衝高天神城を攻めるも、その堅固さに力攻めを断念し撤退。この戦いは、後の武田・徳川両氏の戦略に深く影響を与え、高天神城を巡る死闘の序章となった。
高天神城の戦いたかてんじんじょうのたたかい第二次だいにじ・1581)天正九年、高天神城は徳川家康の緻密な包囲網と織田信長の非情な計略により孤立。武田勝頼の援軍なく、城将・岡部元信は忠義を貫き壮絶な討ち死に。この落城は武田家滅亡の序曲となり、戦国時代の転換点を示す。
竹ヶ鼻城の戦いたけがはなじょうのたたかい(1584)天正十二年、竹ヶ鼻城の戦いは秀吉の戦略転換を象徴。長久手の敗北後、秀吉は「一夜堤」を築き水攻めを敢行。城主不破広綱は孤立し無血開城。この勝利は信雄を屈服させ、秀吉の天下統一を加速させた。
田中城攻囲たなかじょうこうい(1579)天正七年、徳川家康は駿河の田中城を攻囲。武田氏の外交的孤立を突き、力攻めを避け間接的な攻撃で城を無力化。難攻不落の田中城は、武田氏滅亡の最終局面で無血開城した。
田中城の戦いたなかじょうのたたかい(1582)田中城の戦いは1582年、甲州征伐における武田氏滅亡の最終局面。堅城田中城に依田信蕃が籠城するも、武田本家の崩壊と裏切りにより無血開城。
田原城の戦いたはらじょうのたたかい(1548)天文十六年、竹千代人質事件を機に、今川義元は太原雪斎に命じ田原城を攻撃。城主・戸田康光は裏切りにより滅亡。今川氏は東三河を掌握し、家康の運命を定めた。
田原城の戦いたはらじょうのたたかい(1549)天文16年、戸田康光の竹千代人質事件に激怒した今川義元は田原城を攻め落とし、戸田氏本家は滅亡。東三河における今川氏の支配を確立した。
田丸城の戦いたまるじょうのたたかい(1575)織田信長の次男・信雄が伊勢の要衝・田丸城へ拠点を移した出来事。北畠氏の伝統的な支配を終息させ、織田家による伊勢完全掌握の最終局面を象徴する節目。
田丸城の戦いたまるじょうのたたかい(1600)田丸城の戦いは、関ヶ原合戦における伊勢方面戦役。稲葉道通が岩出城で九鬼嘉隆の攻撃を退け、安濃津城の籠城戦が西軍主力を足止めした。道通の功績により田丸城主となり、伊勢田丸藩が立藩された。
第一次長島一向一揆だいいちじながしまいっこういっき(1571)元亀二年の第一次長島攻めにおける織田信長の敗北劇。弟信興を一揆に殺された信長が報復のため攻め入るも、一揆の伏兵や地形の不利に阻まれ敗退した合戦。
寺部城の戦いてらべじょうのたたかい(1565)永禄元年、松平元康は寺部城で初陣を飾り鈴木氏を撃破。永禄八年、三河一向一揆鎮圧後に領国を改革。永禄九年、織田信盛により寺部城は落城し、家康の三河統一が完了した。
天正伊賀の乱てんしょういがのらん第一次だいいちじ・1579)織田信雄が伊賀へ侵攻し大敗を喫した第一次伊賀の乱。集権国家を目指す織田の理念と、評定衆による共和制を敷く独立共同体「伊賀惣国一揆」の衝突を示す。
天正伊賀の乱てんしょういがのらん第二次だいにじ・1581)天正九年、織田信長は伊賀惣国一揆を徹底的に殲滅。信長の天下統一に抗う独立国家・伊賀の自治は終わりを告げ、その異質な政治体制は中央集権化の波に飲み込まれた。
鳥羽城の戦いとばじょうのたたかい(1582)鳥羽城の戦いは1600年、関ヶ原の戦いに伴う九鬼嘉隆・守隆父子の争い。家存続のため敵味方に分かれ、嘉隆は鳥羽城を奪取するも敗報で自刃。九鬼水軍は終焉。
鳶ヶ巣山砦の戦いとびがすやまとりでのたたかい(1575)天正三年、長篠城を包囲する武田軍に対し、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍は鳶ヶ巣山砦を奇襲。闇夜の強行軍で砦を陥落させ、武田軍の退路を断ち、設楽原の戦いの勝利を決定づけた歴史的奇襲であった。
堂洞合戦どうほらがっせん(1547)天文十六年の加納口の戦い。斎藤道三が美濃に侵攻した尾張の織田信秀を撃退した戦いで、永禄八年に織田信長が岸信周の堂洞城を攻めた合戦との違いを説く。
長久手の戦いながくてのたたかい(1584)天正十二年に勃発した豊臣秀吉と徳川家康の直接対決である小牧・長久手の戦いの主要な戦闘。別働隊を家康が奇襲して破り、大勝を収めた著名な局地戦。
長篠城の戦いながしのじょうのたたかい(1575)天正三年、織田・徳川連合軍と武田勝頼が長篠で激突。信長は馬防柵と鉄砲で武田騎馬隊を破り、戦国時代の戦術を革新。鳥居強右衛門の忠義も光る、武田家衰退の転換点となった戦い。
長篠ながしの設楽原の戦いしたらがはらのたたかい(1575)天正三年、織田・徳川連合軍は長篠・設楽原で武田勝頼と激突。鳥居強右衛門の忠義と信長の馬防柵・鉄砲戦術が功を奏し、武田軍は壊滅。戦国最強武田家の落日を決定づけた。
長島一向一揆ながしまいっこういっき(1571~74)元亀二年より三年間、織田信長は伊勢長島の一向一揆と激戦。天然の要害と信仰で結束した門徒衆は信長を苦しめたが、最終的に信長は徹底的な殲滅戦を敢行し、長島一向一揆は終焉を迎えた。
長島口ながしまぐち揖斐川舟戦いびがわふないくさ(1574)天正二年、織田信長は長島一向一揆に対し水陸総攻撃を敢行。水軍による補給路遮断と陸軍の連携で輪中要塞を攻略し、二万を焼き払う殲滅戦で長島を平定した。
長良川の戦いながらがわのたたかい(1556)弘治二年、美濃長良川で斎藤道三と嫡男義龍が激突。道三は国衆の支持を得た義龍に敗れ討死。この戦いは下剋上の象徴であり、美濃の支配構造を大きく変える転換点となった。
七曲口の戦いななまがりぐちのたたかい(1582)天正十年、武田勝頼は織田・徳川連合軍の猛攻と家臣の離反により、新府城を焼き払い岩殿城へ逃避。小山田信茂の裏切りで退路を断たれ、天目山麓田野で自刃。名門武田氏は滅亡した。
鳴海なるみ大高城兵糧入れおおたかじょうひょうろういれ(1560)桶狭間の戦い前夜、松平元康は陽動と奇策で織田の包囲を突破し、大高城へ兵糧を運び入れた。この成功は今川軍に油断を生み、織田信長に奇襲の機会を与え、後の家康独立の布石となった。
西尾城の戦いにしおじょうのたたかい(1561)永禄四年、桶狭間後の三河で西尾城の戦いが勃発。松平元康は今川から独立し、吉良氏の要衝・西尾城を調略で無血開城。善明堤の敗北を糧に、元康は西三河を平定し、三河統一への確固たる一歩を踏み出した。
韮山城の戦いにらやまじょうのたたかい(1590)天正十八年の小田原征伐において行われた韮山城の攻防戦。名将北条氏規の守る城に対し、豊臣方の圧倒的軍勢が包囲するも城兵が約百日も籠城した合戦。
野田城の戦いのだじょうのたたかい(1573)野田城の戦いは武田信玄最後の城攻め。病の信玄は「金堀攻め」で野田城を攻略するも、城主菅沼定盈の抵抗で1ヶ月を費やす。この遅延が信玄の死期を早め、西上作戦を頓挫させ、織田・徳川の天下統一を決定づけた。
羽黒の戦いはぐろのたたかい(1584)小牧・長久手戦役緒戦、羽黒の戦い。森長可の突出を徳川家康が見逃さず、酒井忠次率いる徳川軍が奇襲。森軍は壊滅し、森長可は敗走。徳川軍の優位を確立し、長久手戦の伏線となる。
花倉の乱はなくらのらん(1526~27)天文五年、今川氏輝急死で花倉の乱勃発。栴岳承芳(義元)が寿桂尼・雪斎の支援で玄広恵探を破り家督を継承。この勝利が後の甲相駿三国同盟へと繋がる外交転換の契機となった。
引馬城の戦いひくまじょうのたたかい(1568)永禄十一年、徳川家康は遠江支配のため引馬城を攻め、女城主お田鶴の方の奮戦を退け落城させた。この戦いは家康の天下統一の礎となり、引馬城は後に浜松城と改められた。
飛騨征伐ひだせいばつ(1585)天正十三年、豊臣秀吉は佐々成政討伐と連動し、金森長近に飛騨征伐を命じた。金森軍は姉小路頼綱を降伏させ飛騨を平定。直後に天正大地震が発生し、内ヶ島氏が滅亡。飛騨は金森氏の統治下へ。
二俣城の戦いふたまたじょうのたたかい(1572)元亀三年、武田信玄は生涯最後の大規模軍事作戦「西上作戦」を発動。遠江の要衝二俣城を巡る攻防は、信玄の多層的な戦略目標の一端を示し、天下情勢を大きく動かした。
船田合戦ふなだがっせん(1527)美濃船田合戦は土岐氏内紛と斎藤妙純・石丸利光の実力闘争が複合。道三父が混乱に乗じ、道三が土岐氏を追放し国盗りを完成。美濃下剋上の象徴。
堀越御所の戦いほりごえごしょのたたかい(1493)明応2年、京都で明応の政変が勃発。これに連動し、伊勢宗瑞は新将軍義澄の意向を受け、伊豆の堀越公方・足利茶々丸を討伐。宗瑞は伊豆を平定し、戦国大名北条氏の礎。
増島城の戦いますしまじょうのたたかい(1585)天正十三年「増島城の戦い」は、金森長近による飛騨征伐における松倉城攻防戦を指す。金森軍は姉小路氏を滅ぼし飛騨を平定。この戦役は中世飛騨の終焉と、天下統一の波が山国に到達したことを象徴する。
松ヶ島城の戦いまつがしまじょうのたたかい(1569)永禄十二年、信長は大河内城を50日間包囲し北畠氏を屈服させた。信長の次男・信雄を養子に入れ、伊勢を掌握。北畠氏は滅亡し、後に松ヶ島城が築かれ伊勢支配の拠点となった。
丸子城の戦いまりこじょうのたたかい(1569)永禄十二年、武田信玄の駿河侵攻において、丸子城は山県昌景の拠点として機能。今川残党を牽制し、信玄の小田原攻めを支える戦略的要衝となった。直接の激戦なくとも、駿河平定に貢献した。
丸根砦の戦いまるねとりでのたたかい(1560)永禄三年、今川義元の尾張侵攻に際し、松平元康は丸根砦を攻略。佐久間盛重は玉砕するも、この勝利が義元の油断を招き、信長の大逆転勝利の布石となった。
丸山城の戦いまるやまじょうのたたかい(1581)天正六年、織田信雄は伊賀に丸山城を築城するも、伊賀衆の奇襲で敗走。この敗戦が信長の怒りを買い、天正九年の第二次天正伊賀の乱の引き金となった。伊賀惣国一揆は滅亡した。
三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかい(1572)元亀三年に武田信玄が徳川家康を破った戦い。家康が生涯最大の敗北から教訓を得て、しかみ像や忠臣の自己犠牲の逸話を通じて理想の君臣関係を江戸の世に伝えた。
三河一向一揆みかわいっこういっき(1563~64)若き徳川家康、生涯最大の試練「三河一向一揆」に直面。家臣団が分裂し、領国は内乱状態に。外部の敵とは異なる、精神的にも過酷なこの危機を乗り越え、家康は成長を遂げた。
水口岡山城の戦いみなくちおかやまじょうのたたかい(1579)天正七年、織田信雄は独断で伊賀に侵攻するも、伊賀衆のゲリラ戦の前に大敗。この第一次天正伊賀の乱は、信長の怒りを買い、二年後の第二次伊賀の乱へと繋がる悲劇の序章となった。
村木砦の戦いむらきとりでのたたかい(1554)天文二十三年に尾張知多半島で発生した今川義元と織田信長の戦い。今川方が築いた村木砦に対し、若き信長が義父・斎藤道三の支援で急襲し陥落させた合戦。
山中城の戦いやまなかじょうのたたかい(1590)天正十八年、北条流築城術の粋山中城は、豊臣秀次・徳川家康の大軍に半日で陥落。この衝撃は北条氏の士気を砕き、小田原征伐の帰趨を決定づけた。戦国終焉を告げる一戦なり。
横須賀城の戦いよこすかじょうのたたかい(1580)天正八年、徳川家康は横須賀城を拠点に高天神城を攻囲。信長の命を受け、武田勝頼に味方を見殺しにさせる政治的罠を仕掛けた。翌年、高天神城は落城し、武田氏滅亡の引き金となった。
吉田城の戦いよしだじょうのたたかい(1590)天正十八年、秀吉の小田原征伐において、吉田城では戦闘なし。連合軍の圧倒的圧力により、吉田城は戦わずして開城。家康の関東移封後、池田輝政が新城主となり、豊臣政権の東海道支配の要。
鷲津砦の戦いわしづとりでのたたかい(1560)永禄三年、今川義元の大軍が尾張に侵攻。前哨戦たる鷲津砦は今川軍の猛攻に晒され、兵力劣勢の織田兵は奮戦し敵を足止め。その犠牲が信長に反撃の機を与え、桶狭間の奇跡へと繋がる。